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刀剣乱舞 あなたのいる明日が来る

 盛んに鳥が鳴き交わす声で目が覚める。虚ろな視界は寝起きゆえかほろほろと霞み、墨の匂いは思い出したように鼻先をかすめた。行灯の火はとうに消え、青白い光が障子の向こう側から差し込んでは格子模様の薄い影を畳の上に残している。室内に留まった空気はすでに重たい湿気を含み、ふやけた紙とまだ微かな蝉の声が今日も続く真夏日を予感させた。
 ゆっくりと文机に突っ伏して寝ていた半身を起こす。背から腰にかけての骨がばきばきと音を立て、内臓の奥の方まで振動が伝わった。人の身とは厄介で、同じ格好で長時間いることをよしとしない。刀であったときには考えられぬ話だと、肩を回しながら「付喪神」へし切長谷部は今更ながらぼんやりと思った。
 長谷部がこの本丸に顕現してから早一年が経とうとしている。季節は一巡りし、もくもくと入道雲がわき起こる紺碧の空が来る日も来る日も続いていた。
 長谷部が「生まれた」日もうだるような暑さが続く真夏の好日だった。
 燃えさしの薄い煙に燻った匂い、積もり積もった灰の煤けた色、水盤に湛えられた水面は静かで、高窓からは絶え間なく蝉の鳴き声がなだれ込んでいた。藤色の視線をゆっくりと泳がせた長谷部の目に飛び込んできたのは葡萄色の髪をした男。胸元に咲く牡丹の花飾り、鮮やかな裏地の羽織に行灯袴を履いた優男を長谷部は直感的に己と同じく刀剣の付喪神であると理解した。そうなれば隣の男が「我が主」、審神者というわけか。
 見かけは悪くない。短く刈り込んだ黒髪に強い眼差し、程よく焼けた肌に松葉色の着流しがよく似合う。強い意志の伺える目に胸を張った立ち姿は如何にも快男児といった風情で人の上に立つことに慣れているようにも見えた。
 顕現した人の身を危なげなく繰り、自然と口からこぼれ落ちたお目通りの台詞を紡ぐ。傍らに立つ刀剣が戦国期の刀だねと囁くのに頷きながら彼は思いの外屈託のない笑みを浮かべるとよく通る声で言った。
『俺が今日からお前の主だ。よく切れる刀だと聞いてる。よろしく頼む、へし切長谷部』
 正直、その瞬間に長谷部の心というものに何かが起こったわけではない。ただ改めて自らの意志で動き、考えることのできる人の身について思いを馳せた。ここには「あの男」はいない。人の世は激しく移り変わり、数多の人が死んで、数多の人が生まれた。鋼の身を持つ刀剣は変わらず残りてここにあり、新たな主の前に立つ。己の役目を全うするために。
 ただ、それだけのことで、それだけのことになるはずだった。
 だからどうしてそれがいつの間にこんなことになったのか、長谷部には今一つ記憶があやふやだ。いつからか、彼は長谷部にとって本物の「主」になった。刀剣としての「へし切長谷部」ではなく、刀剣男士としての「長谷部」にとって彼は唯一無二だった。彼はよく考え、よく笑い、よく働き、よく気遣い、よく指示した。だから、明朗快活な立ち居振る舞いのその裏で、奥歯を思い切り噛み締める癖に気付いたのはきっと長谷部だけだったと思う。黒い眼が揺れるとき、彼は自分の中の何かをぐっと殺していた。
 普通の人間よりほんの少し長い犬歯がただの身体的特徴でないことを知ったのは、少し後のことだった。人ならざる人。不慮の事故でその本性を長谷部の前に晒した獣は項垂れて、泣いた。先祖代々受け継いだ己の出自が卑しいとも、己が牙も己が爪も醜いとも、ちっとも思わないけれど、それでも付喪の神の眼前にあって犬畜生の身とは情けない。お前はちゃんと二本の足で立てているのに、とその慟哭を長谷部は直立不動で聞いていた。
 そのとき、すでに長谷部は主の厚い信任を受け、近侍の座についてしばらく経ち、名実ともに主の右腕だと晴れやかな優越感に浸っている最中だった。その横面を思い切り、鈍器で殴られたような気がした。
 長谷部にとって主とは世界のすべてだった。主こそが規律であり、秩序であり、絶対だった。そう思っていた。思い込んでいた。鈍い衝撃とともに長谷部が理解したのは主もまた人の子であるという単なる事実だった。それはかの第六天魔王も果たしてそうだったように。人の子とはときに間違え、ときに迷い、ときに愛する喜びを知り、ときに深い悲しみに溺れ、短い生涯を精一杯に生きる。審神者としての任を負った彼もまたそんな人の子の一人なのだ。
 刀剣であったとき、長谷部は物言わぬ道具に過ぎなかった。主に気に入られ名を与えられ大事にされても、主の気分一つで他人に譲り渡されたりもする。そんな己が、長谷部はたまらなく嫌だった。しかし、今はどうだろう。御霊として生まれ変わったともいうべき己には目があり、口があり、耳があり、手があり、足があった。人の子と同じように。それは正しく人の子たる主とともに歩むための新たな「道具」であるのだろうと長谷部は遅まきながら解釈した。だからこそ。
 俺は主の一番の剣であろう。
 誓いは今も長谷部の胸から消えることはない。おそらくこの火が消えるときは、主が消えるときか、または自身が刀剣男士としての役目を終えるときであろうと長谷部は心のどこかで確信していた。
 資材の在庫を書き付けた帳簿を閉じて箱に仕舞い、硯と筆を片付ける。朝方まで仕事をしていたなんて知れたら主になんと言われるかわからない。今日は本丸全体の非番の日で緊急の出撃がない限り、すべての刀剣男士たちが思い思いに過ごす予定となっている。ま、夏休みみたいなもんだな、と鷹揚に言った主の嬉しそうな顔と短刀たちの歓声が脳裏に蘇る。しかし、長谷部にとって休みは日頃諸般の事情で滞ることの多い雑務を一気に片付けるための好機だった。うっかり寝入ってしまったが、数時間の仮眠のおかげで逆に頭は冴えていた。まずは風呂に入って身を清め、続きはそれからだと意気揚々と自室の襖を開けた長谷部に。
「あれ?早いな長谷部」
 他ならぬ聞き慣れた声がかかる。
「あ、ある、主!?」
 刀剣男士たちの自室が両脇にずらりと並ぶ窓のない廊下の奥で人が動く気配がする。直立したまましばらく動けずにいると、静かにのポーズをした主がティシャツに短パンという格好で歩み寄って来るところだった。その手には大きな虫取り網、肩から提げた紐の先には竹で作られた虫カゴ。それは言わずもがな。
「…短刀たちと昆虫採集に行くのですね」
「よくわかったなあ」
「その格好を見れば誰でもわかります」
「長谷部も行くか?」
「いえ、俺は」
 遠慮しますと丁重に断ると主は心底残念そうな顔をした。廊下の奥の方で密やかに襖が開いて、閉められる音がする。準備できましたと囁くのは五虎退か平野藤四郎か、いずれにせよ粟田口派の誰かだろう。主も心なしか目元を緩め、静かになと声をかけながら踵を返す。その背中にいってらっしゃいませと声をかければ、なぜか主の歩みがぴたりと止まった。長谷部、と厳しくも優しい声が苦笑いを含んで揺れていた。薄闇でちらちらと光る灰銀の瞳。それはどこにあっても長谷部を導く夜明けの標。
「仕事もいいけど、ほどほどにな。お前がいなくなったら、俺は困る」
「え」
「右頬に墨、付いてるぞ」
「え!?」
 慌てて言われた箇所に触れれば確かに指先には乾いた感触があり、爪の先には黒い滓がこびりついた。視線を遣ればすでに主はそこにはおらず、ただ襖の向こう側で幾重にも重なる無数の寝息だけが聞こえてきていた。彼は闇を抜けて、すでに早朝の日差しの元に短刀たちと駆け出して行ったあとなのだろう。わけもなく、長谷部はそれを追う。
 階段の木目を踏み外さぬよう慎重に足を運び、刀剣男士たちが住まう宿舎から渡り廊下へと出れば、玉砂利を踏む無数の足音、幼い子らの興奮を抑えきれぬ高揚が賑やかな波紋となって遠ざかっていくところだった。徐々に大きくなる蝉の声、眩しすぎる夏の太陽、溌剌とした緑色の枝葉を伸ばす樹木。どこまでも明るく力強いそれらはどこか主を思わせた。たとえ己の無力に泣く夜があろうとも、己の異形を恨む夕べがあろうとも、やがて朝はやって来て世界を照らす。強く、強く。
「よお、早いじゃねえか、長谷部の旦那。……何、泣いてんだ?」
「…泣いてなど、いない。お前は主とともに行かんのか」
「行かねえよ。兄弟たちじゃあるまい…早く風呂入って寝ろよ、旦那」
 大将にもそう言われたんじゃねえか?と肩を叩く薬研藤四郎の掌は主とは似ても似つかぬ大きさで、長谷部はまなじりを拭う代わりに邪険にそれを振り払った。


2016.10.15

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