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その他 碧の蛇王10

 翌朝、目が覚めたメドゥは一人だった。
 しばらく思考が追い付かないまま、ぼんやりと腹の辺りを掻く。霞んだ目をぐるりと一周しても布の海の中に異形の神はいなかった。あんなに寝汚い男が一体どうしたというのだろう。高い位置にある幾何学模様の飾り窓から差し込む光はごく弱い。まだ太陽も昇らぬうちかと思ったが、すぐにそれが思い違いだと気が付いた。
 吹き込む風は大いなる湿気を含んでいる。鼻腔へは待ち望んだ水の匂いが流れ込み、肺の入り口を少し濡らした。ぽつ、ぽつ、と神殿の壁を叩く水の音。巻き上がる土埃、跳ねる草葉、水盤には小さな水柱が無数に立つ。雨だ、雨だ雨だ、雨だ!
 寝台から跳ね上がる勢いで飛び出した。雨が降っているというのなら、最早行先は一つしかない。
 回廊を半周し、神殿へと繋がる扉を力任せに開く。足裏に石の廊下は鮮烈に冷えていたが、そんなことを気にしている余裕すらなかった。ぶつかりそうになる柱を避け、神殿奥の中庭は遠回りをして廊下を行くのもまどろっこしくて、中央を突っ切ることにする。雨は徐々に粒の大きさを増していた。東屋の屋根を葡萄の蔓をナツメヤシの葉を濡らし、メドゥの髪も頬も濡らす。ひと月ぶりの雨を大地は貪欲に吸い込んだ。それは果たして人間も同じで、ひょっとしたら神様も同じなのかもしれない。
 祭壇には一柱の神が雨に濡れていた。
 天から生れ落ちてきたときと同様に。ぽかりとくり抜かれた曇天の下、黒い髪も青白い肌もすべてを雨に打たれるがままにして、彼はじっと目を閉じていた。その鱗はいつにも増して鮮やかな色を放つ。雨司る神、気象操る神、異形の神はまるでたった今初めて自らの力を存分に奮える場所へと辿り着いたように、本来あるべき神々しいまでの美しさを取り戻したように、ゆったりと寛大に雨の中で佇んでいた。
 メドゥはその光景に目も心も奪われてしまったかのように、動けない。まるで目の前にいる彼が自分の知らない誰かのように思えた。蛇神でもない。蛇王でもない。神でもなければ、蛇でもない。
 否、メドゥは「彼」を知っているはずだ。
 こうして神殿で初めて相まみえるよりも前、村から休みなく歩き続けとうとう疲労が限界に達したとある岩陰で、乾きと飢えで朦朧する意識の中で、メドゥは蛇を見た。それは砂に同化するためか地味な色合いをしたごく普通の蛇だった。苛烈な光と容赦なく吹き付ける熱風によってその命は風前の灯で最早傍にいた少年から逃れる気力も噛みつく気概もなかった。けれど、それはメドゥも同じだった。脚は棒のようになって最早一歩も動くことは叶わず、ここで乾いて朽ちるしかないと幼心に覚悟をしていた。だから、その行為は温情でも施しでもましてや善意でもなかった。諦めから来る気まぐれ。メドゥは革袋に残っていた最後の一滴の水を蛇の頭へと垂らしたのだ。
「あの、ときの、」
 その瞳の色は真っ黒に濡れて、目の前の神と徐々に重なっていく。黒くて、吸い込まれそうで、光っていて、きれいで。ああ、そうだ。とってもきれいだったのだ。瞬き一つせず、その蛇はメドゥを見ていた。受けた水の感触が信じられないとでも言いたげに、メドゥをじっと見つめていた。だから。
「あれは、貴方だったんだ」
「…どうかな」
 神はぽつり、それだけを言葉にするとメドゥの方に向き直った。
 雨脚はいよいよ強くなり、空気が渦巻くほど強い風が吹いていた。遠い雷鳴は腹の底に響くような唸りを響かせ、まるで世界のすべてが雨の中に閉じ込められたようだ。
「行くのですか?」
 メドゥの問いに神様は頷いた。蛇神は雨季の訪れとともに天へと帰る。ずっと繰り返されてきた世界の理に彼も倣う。ただ、それだけのことだ。
「俺を、連れて行くんですか?」
「おぬしがよいと言うのであればな」
「神様なんだから、無理にでも言うことを聞かせればいいでしょう。それこそ嵐でも旱魃でも起こすと仰ればいい」
 そう少し意地悪く言えば、彼は鷹揚に笑ってみせた。ゆらゆらと鱗が揺らめく。きらきらと曇天の微かな光の下で雨を弾いて、光って、消える。
「おぬしはそれらを嫌うだろう」
 声が、鼓膜を震わせる。雷の音が強くなる。メドゥはじっと耳を澄ませる。
「そして、そんなことをした我を嫌うだろう」
 それは耐えられぬよ、という弱々しい言葉をなぜか正確にメドゥは聞き取ることができた。叩きつけるようになってきた雨と、神殿の中にまで容赦なく吹き込む風。ラクルカントの気候にしては珍しい嵐とも呼べる現象は蛇神が天へと帰る兆し。ああ、けれどこの荒ぶる天の様子と比べて、目の前にいる「男」の気弱な様子はなんだろう。今すぐにでもメドゥの腕を引っ掴んで連れ去ればいいのに。彼は決してそんなことはしない。メドゥが答えを出すのを待っている。時間など、ないというのに。メドゥの気など真実知れないのに。それでも、ただ愚直に、待ち続ける。その優しい心根を、どうして、どうして裏切れようか。それに、メドゥだって、気が付けば。
「夜中に鈴が鳴ったとき、あなたの寝所に別の誰かが入るのかと思うと」
 心臓は高鳴り、指の先はじんと痺れて痛かった。足は冷たくて、頬を打つ雨粒が痛い。それでも、言わなくては。今、言わなくてはまたメドゥは同じことを繰り返してしまう。諦観に負けたと嘯いて、両親を、故郷を失ったことを言い訳にして、ただ怠惰に生きることはもう。
「…胸が苦しくて死にそうです」
 やめたい。
 いつの間にかメドゥは厚い胸板に顔を埋めて泣いていた。熱いばかりの涙はメドゥの意志に関係なく、いくらでも目からあふれてくる。濡れそぼった髪を男の大きな掌がしっかりとした力強さで撫でた。もういい、と囁かれた言葉を許しと受け取るのは傲慢だろうかと考えながら、それでもメドゥは散々に泣いた。
 天が光り、一筋の大きな雷鳴に飲み込まれるまで。いつまでも、一番安心できる腕の中で、メドゥは泣いていた。


2017.12.02

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