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その他 碧の蛇王8

「今なんと?」
 正直に言ってしまえば、そのときメドゥが最も気にしていたのは果たしてこの胸の内の動揺が外に漏れてしまってはいないかということだった。
 メドゥにとって感情を露わにしないことは重要な処世術の一つだった。たとえ悲しくても、たとえ辛くとも、「そう」と見られなければなんということもないのだと。己に言い聞かせて生きてきた。心構えはいつの間にか染みのように張り付いて、取れなくなった。そうでなくても、メドゥの心を揺り動かすことなんて、この閉鎖的で退屈な空間の中ではほとんどなかったのだ。それなのに、今メドゥは不安でたまらない。この瞳の揺れが見透かされてやしないかと、震える指先に気付かれてはいないかと。そして何より胸を占める悲しみとも怒りともつかない、大きな感情は一体なんなのか。自分でもうまく説明ができなかった。
 久しぶりに訪れた神官長の部屋は相変わらず寒々しい空気に満ちている。大きな背もたれの付いた椅子にどっかと座った第七神殿の長はたくわえたひげのためか、必要以上に高齢にも見える。しかし、男は王都からの長旅の疲れを微塵も見せる様子はなく、張りのある声で告げた。
「何度も言わせるな。お前には蛇神の奉仕役を降りてもらう」
 神官長の声は淡々としていた。おおよそなんの感情も感慨も含んでいなかった。対してメドゥはといえばやたらにうるさい鼓動の音に邪魔されて喉を震わせるのも侭ならない。どう返すべきか、どう返したいのか。判断がつかないまま、しどろもどろに声を紡ぐ。
「何か、粗相を…」
「理由を知る必要はない。明日からは元の仕事に戻ってもらう。もう下がりなさい」
 露骨に面倒そうな顔をした男は蠅でも追い払うかのように乱暴に言い放つ。それでもメドゥは引き下がりたかったが、抗えない沈黙にどうしてもその場に留まることができず、深々と頭を下げると静かに退室した。
 なんて、なんで、どうして。
 ぐるぐると脳内を駆け回る疑問に出せる答えは一つとしてない。メドゥの代わりはラビアが務めるのだという。あの鉄面皮の神官長が目の中に入れても痛くないほど可愛がっている娘だ。何かしら政治的な意図がある。そう見て間違いないだろう。しかし、それを知ったところで、理解したところで、メドゥに何ができるというのか。
 メドゥにはなんの後ろ盾もなければ、知恵も、権力も、金も、何もない。ただ最下層で搾取されるだけの孤児だ。故郷も、親も、兄弟も、すべて太陽が奪っていった。だから、正直言ってメドゥは蛇神に対する敬意などほとんどない。それこそ「彼」が言ったように、どちらかと言えば恐ろしいし、どちらかと言えば憎んでいるのだと思う。けれど、それは気象を操る神という存在に対するあやふやな怒りであり、もっと言えば八つ当たりだ。きっと村を旱魃が襲わなくてもなんらかの理由で故郷がなくなることはあるだろうし、親兄弟を失うこともあろう。メドゥはそれを理解している。抗えない何かに打ちのめされ、立つ気力さえ、生きる力さえ粗雑に扱ってきたのは、他ならぬ自分自身であると。
「…だからと言って」
 今更怠惰な人生を呪ったところで事態を打破できるわけでもない。
 久しぶりに帰ってきた詰め所の自室はがらんとした静寂に包まれていた。メドゥが神殿に詰めている間に同室の同僚は故郷に帰ったそうだ。元より必要最低限の私物しかない部屋が一人分のスペースを失って、より一層寒々しい。メドゥはごろりと寝台の上に寝転がった。背中や後頭部に触れる感触は神殿の部屋にあるそれとやはり雲泥の差だ。固く、冷え切った寝床が懐かしいような物足りないような気もする。
 ああ、いや、そうではない。メドゥはもっともっと、心地よい「寝床」を知っている。だから、こんなにも物足りなくて。
 寂しい、のか。
 あの神様はどうしているだろう。
 もうルビアが新しい奉仕役として彼と話をしている頃だろうか。突然の言い渡しを彼はどう思っているのだろう。人間の都合と、ただ受け入れるのか。それとも理由の一つも尋ねてくれるだろうか。なぜメドゥが目の前から消えてしまったのか、少しでも気にしてくれるだろうか。
 それとも単に他ならぬメドゥが気にして欲しいだけなのか。
 深々と肺の中の空気を吐き出して、シーツに顔を埋める。視界の隅で褐色の腕が頼りなく投げ出されている。彼とは違う色だ。その肌の色も目の色も髪の色も見た目すら圧倒的に異なる異形。気象を操り、太陽も雨も思いのままにし、恐ろしくて、憎くて、到底理解なんぞ出来ないと思っていたその「人」ともう会えないと実感しただけで、どうしてこんなにも懐かしくて堪らないのだろう。
 メドゥにはわからない。否、わからないふりをしているだけなのかもしれなかった。

 どうやら物思いに耽っているうちにメドゥは眠ってしまったようだった。

 気が付けば苛烈な太陽は砂漠の向こうに沈み、室内は冷めた闇が埋め尽くしている。
 しかし、微睡むような宵の空気に反し、何やら扉の向こうは騒がしい。静寂を重んじる詰め所においては廊下での無益なお喋りすら禁じられているというのに、一体どうしたことだろう。メドゥの知らぬ間に規則を破るほどの非常事態が発生しているのだろうか。
 思わず身を固くしたまま、じっと耳を澄ませていると複数の男たちの声が聞こえてくる。聞きおぼえがあるような、そうでないような。気持ちの悪い感覚にやむを得ず寝台から降り、自室の扉を開けば、途端に明瞭となった会話が耳に届く。
「蛇神様!神殿にお戻りください!ナーガ様!」
「ええい、鬱陶しい!メドゥはどこだ!?」
「ラフィーガ様!?」
 声に出してからしまったと思ったが、もう遅かった。蛇神の人間より鋭敏な聴覚が正確にメドゥの声を拾い、到達するまでのルートを割り出す。初めての場所であるにも関わらず、複雑に入り組んだ詰め所の内部であるにも関わらず、ラフィーガは迷わなかった。鱗を鳴らし、石の床を這い、ただ真っすぐにメドゥの元へとやって来る。
「メドゥ!」
 黒いまなこがぱっと輝く。その色を見た瞬間にメドゥの全身の力がなぜか抜けた。
 彼はまったくいつも通りの快活な表情でにっと笑うと、躊躇なくメドゥの前に立つ。碧色の鱗は疵一つなく薄暗い廊下でもきらきらと光り、長い髪は艶やかに垂れ下がっていた。メドゥは何事か言わなくては口を開きかける。けれど、メドゥが何かを語るよりも早く、ラフィーガの長い腕が伸びてきて、あっという間にメドゥを肩の上に担ぎ上げてしまう。
「帰るぞ、メドゥ」
 そう彼は簡潔に告げるとメドゥを荷物のように抱えたまま、ずんずんと詰め所の廊下を進み始めた。何事かとあらゆる扉から顔を覗かせた神官たちがこちらを見ている。中には初めて蛇神を見る者も多数いて、あれがと感激している者もいれば、どうしてメドゥが抱えられているのかと訝し気な顔をする者もいた。
 だが、衆目に晒されることに慣れていないメドゥはただ顔を伏せて、おとなしく彼に運ばれるしかない。今更暴れたところで、騒いだところで、かの蛇神がメドゥの言うことを聞かぬのは百も承知だった。
 やがて、詰め所を抜けるとさらりと冷たい夜風がメドゥの肌を撫でた。岩と砂ばかりの神殿へと向かう坂道に差し掛かると、もう辺りに人の気配はない。メドゥが恐る恐る顔を上げると、そこには上下に揺れる赤茶けた大地と満天の星空があった。水晶を散りばめたような夜の空は今にも落っこちてきてしまいそうなほど、近いところできらきらと輝いている。
「あの、ラフィーガ様」
「ん?」
「どうして俺を連れ帰りに来たんですか?」
「どうもこうも、おぬしは我の奉仕役だろうが」
「その任はもう…」
「あの娘も委縮していたぞ。こんなつもりではなかったのに、と」
 そう言って神はため息をついたようだった。メドゥは彼の背中に頭を垂れる形で担がれているから、彼の表情を伺うことはできない。けれど、何か彼が大切なことを言おうとしているのだけは察せられて、じっと息をひそめたまま待った。
「『俺』はなあ」
 彼が言う。どこか砕けた物言いで。
「お前のような可愛らしくていじらしい者が大好きなのだ。その気持ちを伝えるために神になったのに、お前が消えては意味がなかろう」
「はあ…」
 彼の言っていることはよくわからない。例え話なのか、現実の話なのか。メドゥには見当もつかない。けれど、何も返さぬのは誠意に反する気がしてメドゥは問う。益体もない疑問を子供のようにただ口にする。
「神様ってなろうと思えばなれるんですか?」
「なれるぞ。お前もなってみるか、メドゥ」
「はあ…考えておきます」
 我ながらなんて歯応えのない答えをしたものか。自らの朴念仁さに嫌気が刺したメドゥが自己嫌悪に陥るよりも早く、神様の快活な笑い声が夜天の下に響く。馬鹿にするでもなく、嫌味なわけでもなく。楽しそうに彼は笑うと、そうするがいい、と静かに微笑んだような気がした。


2017.12.02

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