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その他 碧の蛇王5

 こうしてメドゥの予想とは少し異なる蛇神様との生活は幕を開けた。
 ラフィーガ、と自ら名乗った神様は逸話通り神として相応しい要素を確かに持ってはいたけれど、基本的には気まぐれで知識欲旺盛で、総括すると幼くして聡明な子供のようだというのがメドゥの評価だった。
 たとえば彼は書物を好んだ。神殿の二階が資料庫という名の書庫になっていることを知った彼は当然のように入り浸り、古い巻物から紐綴じの書物まで暇さえあれば活字を追った。驚くことに彼は識字に関する障害を訴えることは一度もなく、一部の高位の神官しか解読できない古代文字まで難なく読み解くことができた。特に興味深い書物を見つけてしまったときはもうメドゥの声なんて耳に入らない。夜明けから夜更けまで、食事の時間以外に彼が書から顔を上げることは決してなかった。
 たとえば彼は食事を好んだ。おそらく彼が読書の次に楽しみにしているのが食事の時間だろう。朝と晩の二度、食べる必要のない食物を彼は慈しむようにゆっくりと噛んで味わった。メドゥの方もただの形式としての供物ではなく、実際に神が口に入れるものと知り、慌てて麓の詰め所に食材の追加を申し入れた。担当者は半信半疑ながらも新鮮なトマトや香菜、レンズ豆、羊肉、小麦粉などを追加で運んでくれた。今回の神様は余計な出費がかさむ、という嫌味は当然のように聞き流した。
 たとえば彼はメドゥを寝台に引っ張り込むことを好んだ。
 これについては未だにメドゥにも事情がよく飲み込めない。けれど、この十日間のうちに鈴は三度鳴らされ、三度とも常と変わらぬ平坦な声で彼は「寒い」と宣った。暗闇の中で黒々と艶めくまなこを最早メドゥは神秘とも畏怖とも思わない。ただ寒さに震える生まれたての神様に哀れとも似て非なる情がわき、言われるがままに彼の懐にもぐりこむ。するするとすぐさま絡み付いてくる鱗にももう慣れた。背中に回される腕の、メドゥと比べものにならない逞しさにいちいち劣等感を抱くのにも飽きた。穏やかに吐き出される鼻息、ゆっくりと繰り返される呼吸。静かな夜に混濁する自分以外の気配にも意外なほどすぐに馴染んだ。規則正しく続く鼓動の音に確かに彼も「生きている」のだと確信する。たとえ、その存在が天と地ほども違うものだとしても。

「本日は沐浴の日でございます」
「沐浴?」
 書物に熱心に目を落としていたラフィーガはメドゥの声にすぐさま顔を上げた。しばらく生返事を繰り返されるだろうと予想していたメドゥは思わず面食らってしまったが、これ幸いに頷くとすぐに丁寧な説明をする。
「顕現されてから本日で十日目となります。天からいらっしゃった神様は十日ごとに沐浴されるもの、とお伺いしております」
「ふうむ。確かに鱗がむず痒いような…」
「準備はできております。こちらへ」
 促すと渋々活字を手放して、彼はおとなしくとぐろを解いた。
 神の居室のすぐ横に神の浴場は備わっている。総タイル張りの部屋の中は薄い湯気が立ち込め、蔓草のアラベスクをあしらった浴槽にはなみなみとぬるま湯が満たされていた。見ず知らずの場所に最初は警戒した様子のラフィーガだったが、メドゥがなんでもないように浴槽の縁に跪いたのを見て、おずおずと中まで入ってきた。大きな掌を湯の中に浸し、それだけでは不安だったのか尾の先を注意深く水の中に沈めたあと、ようやく滑り落ちるように入浴する。
「…悪くない…」
 メドゥが入浴の作法をあれこれ教える前に、彼は正しく水を得た魚のように浴槽の中に沈むと下半身を繰って優雅に泳いで見せた。広い浴槽の中でくるり、くるりと凡そ二周。水飛沫をあげてようやく水面に顔を出したかと思えば、恍惚の表情で件の台詞である。これには咎める気も失せようというものだ。
「卵だった頃を思い出す…この世界は乾いていたのだな」
「…たまご…?」
「そうだ。我らは卵で生まれるのだぞ。知らぬのか?」
 額に張り付いた黒髪をかきあげながら彼が言う。メドゥが首を横に振ると、異形の神は金属めいた鱗をゆらめかせながら傍に近寄ってきた。碧色の鱗は水中で、まるで宝石のように光を反射する。
「我が我としての自我目覚めた折、我は卵の中にいた。卵は雷雲の中で生まれる。半透明の膜の向こうでは雷光が幾度も走り、消え、上からも横からも雨が叩きつけてきた。だが、不思議と恐ろしい心地はしなかった。我らは生まれながらに知っているのだ。これが天の母の抱擁であると」
「天の、母」
「我らの母君だ。雷の、雲の、雨の、蒼穹の母君だ」
 突如として彼が語った物語はまるで神話だった。否、真実それは神話なのだろう。何しろ神が語りし、神の物語だ。これが神話でなくてなんだというのか。つまり、メドゥは今正に本物の神と対峙している。
 今更ながら眩暈のするような実感をおぼえ、メドゥは瞬きを繰り返した。しかし、そんなメドゥの動揺を尻目に変わらずご機嫌な神様は自らの髪の滴を振り払いながら問う。
「メドゥは風呂に入らぬのか?」
「ここ…は蛇神様専用の浴場です。私たちは入れません」
「堅苦しいことを言う」
「それに、水は貴重ですから。オアシスや王都でながらともかく、こんな辺境の地では滅多に風呂など入れません」
 そういうものです、とメドゥとしては会話を切り上げたつもりだった。すでに思考は次の仕事にとんでいて、小さく唸った蛇神様がその直後、何か思いついたように唇を歪めたことにはまったく気が付かない。だから、一瞬反応は遅れた。否、間に合っていたとしても果たしてメドゥにそれを「避ける」能力があったかどうか。
 ばしゃりと水音。濡れたと思った次の瞬間にはもうぬるいお湯は冷たくなっていた。反射的に射出された方向を見遣ればそこには青く光る鱗に覆われた尻尾。そして、したり顔で笑う神のその顔。
「………ラフィーガ様…」
「水も滴るよい男、というのだろう。書で読んだ」
「なんの書を読んでらっしゃるのですか…冗談はや、」
 続けようとした小言を遮るように今度はもっと大量の水が顔面に浴びせられた。的確に。この野郎、一瞬で上達してやがる。
「ラ、フィーガ様!」
「おお!コツがつかめてきたぞ!」
「これ以上やると怒りますよ!」
「なんだと本当か!?よい!許すぞ!」
「…どうして喜ぶんですか…」
 噛み合わない会話、児戯に等しい戯れ。濡れた髪の滴を払いながら吐き出したメドゥに神は満面の笑みで言う。だって楽しいではないか!と、悪意なく、純粋に。それは底抜けに青いラクルカントの空みたいな笑顔だった。
 この先の些細な暗雲などまるで予感もさせないような。そんな、晴れやかな顔だった。


2017.11.18

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