ibaraboshi***

home > 小説 > , , , > その他 碧の蛇王4

その他 碧の蛇王4

 一番鶏が鳴く。高窓から差し込む光は床の上に美しい薄紅色の模様を描き、開いたばかりの瞳に触れる空気は清冽だった。
「………」
 背後から聞こえてくる寝息は穏やかで目覚める気配は微塵もなく、あれほど頑なに拘束していた腕もどこかに消えている。メドゥはなるべく物音を立てぬよう、細心の注意を払って寝台から抜け出す。放り投げられていた靴を探し当てると素早く足を入れ、大きな扉から廊下へと飛び出した。
 中庭によって外気と面する周廊の空気は室内よりも一層澄んでいる。
 水盤が湛えた水は少しの濁りもなく、東屋に絡みついた葡萄の葉は夜露を浴びて瑞々しく潤う。ナツメヤシも糸杉も白昼見る茫洋とした雰囲気からは一線を画し、夜明けに残る朝靄の中で幻想的な樹影を落としていた。肌にまとわりつく湿度はまだ夜の気配を如実に残している。無意識のうちにメドゥは二の腕をさすった。
 靴底が冷え切った石床を手応えのない音で踏み鳴らす。白い裾を翻し、目当ての扉を見つけると素早く中へと滑り込んだ。
 神殿の奥、神の居住区で神の食事を作るためだけに存在する炊事場は思いの外こじんまりとしていた。メドゥの居室ほどの小さな空間に井戸の水を汲み置いた巨大な水瓶、煉瓦造りの水場、なくてはならない竃は壁と一体化するように二つ作り置かれ、その上には煙を逃がすための格子窓が大きく開いている。竃の反対側の壁には木組みの棚。壺や袋に入った乾物、銀の食器、調理器具。そのどれもが埃をかぶることなく整然と並び、あまつさえ竃に小さな炎が燻っているのはメドゥが昨夜のうちに準備をしておいたからだ。
 メドゥはひとまず白い袖をまくり、水場の隅に置いた壺の中に手を突っ込んだ。一つ摘んだひよこ豆は水を吸ってよく戻っている。具合は申し分ない。
 下準備の確認が終わると早速調理へと取りかかる。流れるような動作で鍋に湯を沸かし、そこに乾燥させたトマトと羊肉を入れ、香りが立ってきたら塩や胡椒、クミン、コリアンダーなど複数の香辛料で整える。竃の上に置いた鉄板で持参したパンを温め、戻したひよこ豆をたっぷりのお湯でぐらぐらと茹でる。豆が充分に柔らかくなったら大きなすり鉢にあけ、擂り粉木でペースト状になるまで潰していく。
 厨房はあっという間に竃の熱で温まり、辺りにはトマトの酸味と小麦が焼ける香ばしい匂いが漂い始める。メドゥは無心でひよこ豆を潰すふりをしながら、特に意味もなく一点を見つめていた。その脳裏に蘇るのは否が応でもつい先程まで自身が陥っていた事態と昨夜のことに違いない。
「初日から共寝って…」
 確かに神々にも個性があるというのは理解している。心優しい者もいれば気性の荒い者もいて、人間を尊重する者もいれば見下す者もいるだろう。幸いにして昨日顕現された神はどちらかといえば前者と言えるかもしれないし、理不尽な扱いを覚悟していたメドゥにとってそれは有難い誤算でもあった。しかし、かといって、かといって!
 いや、とはいえメドゥは巻き込まれたに過ぎない。寒いと言ったのも彼なら、メドゥで構わないと言ったのも彼だ。しかし、神様というのは性別や外見にそれほど頓着ないものなのだろうか。我ながら骨張って抱き心地などお世辞にもよくないと思うし、外見は言うに及ばず十人並みだ。こういう役目はどちらかといえば女性なのではないのか。神様とはいえ彼は男性であるようだし、メドゥも男性である以上、女性を求める気持ちはよくわかるというかなんというか。
「……わかるかよ…」
 前言撤回。わかるわけがない、気象すら操る異形の神の気持ちなんて。
 そう結論付け、一旦この煩悶を棚上げすることにしたメドゥはさっさと食事を仕上げることに注力した。銀の盆に銀の食器を並べ、トマトと羊肉のスープ、パン、オリーブオイルとクミンを加えて仕上げたひよこ豆のペーストを盛り付ける。同じく銀のティポットには乾燥した茶葉とミントを入れて湯を注いだ。清涼感漂うミントティーのための小さな茶器ものせたら準備は完了だ。
 先程とは逆の道程をなぞって神の居室へと戻る。両手には大きな盆を携えているため、多少無作法だが、両開きの扉は肩で押し開けた。
「ラフィーガ様、御食事の用意ができました」
 呼びかけに寝台の上の布の塊がもぞもぞと動く。どうやら今の今まで寝入っていたらしい神様はまなじりに涙を浮かべたまま、一つ盛大な欠伸をした。
 メドゥは部屋の片隅にある立派な絨毯が敷かれた区画に盆を下ろすと、食事用の敷き布を広げた。通常汚れることを前提にした布は簡素なものであることがほとんどが、さすがに神のものとなると端には銀糸で刺繍が施されているなど徹底して抜かりはない。
「食事?」
「はい。蛇神様は食事を必要とされませんが、これは私たちからの供物となります。お納めください」
 絨毯の上までやって来た神様の前に出来立ての食事を並べ、メドゥは深々とこうべを垂れる。そう、言うなればこれは儀式だった。人間の常識を超越した存在である神々は食事を必要としない。食物を摂取せずとも身体は少しも損なわれることなく、生まれたときから成熟した姿を見ればわかる通り、成長もなければ老いもない。最初から完全で、完成され、ゆえに付け足すものなど何もない。実際、神殿にいる蛇神が捧げられた食事を手に付けることはほとんどないとメドゥも聞かされていた。人間の自己満足を満たすための儀式。神様を差し置いて人ばかり物を食らうのは忍びないという所謂人のエゴだ。
「ふうむ」
 しかし、目の前のこの神は一体何を考えたのだろうか。しばらく思案げに尾を振っていたかと思えば、青白い手を伸ばしてパンを手に取り、そのまま躊躇なく口元へと運んでしまった。
 あ!とメドゥが思わず声をあげたのも構わずゆっくりとした咀嚼ののち、小麦の塊を嚥下すると、無垢な黒いまなこを向けてメドゥに問う。
「これが麦の味か?」
「は、い…小麦のパンです」
「これはなんだ?どうやって食うのだ?」
「これはひよこ豆のペーストです。パンにのせて食べます」
「これは?」
 まるで頭の中にある知識の裏付けを取るように。次々と繰り返される質問にメドゥは答え、問う神は合間に物を食い。数度のやりとりを経て、気が付けば盆の上はすっかり空っぽになっていた。想定外の展開にしばらくぽかんと空の食器を眺めていたメドゥは彼が小さな銀のカップを指先で摘んで、しげしげと眺めている様子に我に帰る。
 ソーサーに戻させたカップにティポットから茶を注げば、爽やかな香りがメドゥの鼻先まで漂った。彼は抵抗感なくそれを手に取ると一息に煽る。口に合ったのだろうか。満足げに目を細めると、胃の底から吐き出すように美味かった、と宣った。
「この食事はおぬしが作ったのであろう?」
「あ、はい」
「明日も頼むぞ」
 その、言葉は。
 不意打ちにメドゥの胸を刺す。今まで神官として数え切れないほどの食事を作り、同僚にも村人にも振舞ってきたけれど、果たしてこうして心の底から労われたことなどあっただろうか。厨房に立つことは低位の神官として当たり前のことだった。それぐらいしかできない雑用係とあからさまに揶揄されることも多々あったし、それぐらいしか務めを果たせぬという卑下もあった。労働は生きていくために必要不可欠であって感謝される謂れなどはないと今の今まで信じていた。けれど、彼はあまりにも当たり前にその意を示す。何より傅かれて当然の存在でありながら、まるでメドゥと対等であるかのように。
「あ、りがとうございます…」
「うむ」
「ラフィーガ様は、」
 ひょっとして変わり者なんでしょうか?という問いは、その屈託のない笑顔に押し負けて終ぞメドゥの口から出ることはなかった。


2017.11.11

新しい記事
古い記事

return to page top