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その他 碧の蛇王3

 その日、メドゥの元に眠りを運ぶ精霊はなかなかやって来なかった。
 枕が変わったのもあるだろうし、何より昨日まで身を埋めていた狭くて固い箱とは雲泥の差の寝床がちっとも落ち着かない。神様の奉仕役になったからといって、メドゥの神官としての地位が著しく上がるわけでは決してない。けれど、神の身近でかの御方の世話をする者の立場を慮ってのことだろうか。身分不相応とも思えるほど小綺麗に片付いた部屋でメドゥはまんじりとしないまま、寝返りを打つことだけを繰り返していた。
 荒野の夜は静かだ。昼の最中にはどこからともなく聞こえて来た羊を追う声も、馬のいななきも、駱駝が隊列を組んで進む足音も何も聞こえない。ただ風が乾いた冷たい空気を転がし、砂礫が巻き上がっては神殿の壁に衝突する微かな音だけがする。
 寝台の脇に置かれたランプの灯りがふらふらと揺らぐ。煉瓦積みの壁に映る影は実際の何倍もの大きさになり、風の動きに合わせて、でたらめに踊っているかのようだった。ぼんやりと薄闇の中に映し出された調度品は見慣れぬものばかりで、すべてがよそよそしい。
 まるで、誰も、メドゥのことなど知らないみたいに。
 瞼をきつく閉じて不穏な思考を追い払う。真夜中の暗闇はより一層凝縮され、光の出口の一つも見えないかと思われた矢先、ちらちらと青の燐光が明滅した。
 ああ、鱗か、とごく自然にメドゥは思った。瞼の裏に焼き付いた神々しい色は雷鳴とともに身一つで降りてきた神が持っていた。その態度は尊大で、物言いは気まぐれで、ほとんどメドゥの予想していた通りの「神様」だった。けれど、その姿はどこか危なっかしい。全知のようでいて無知。老獪のようでいて稚気。相反する天秤が彼の中でぐらぐらと常に揺れていた。だからだろうか、メドゥはその整った顔立ちを最早ぼんやりとしか思い出せない。ただひどく目鼻立ちがはっきりとしていて、鍾乳石のような青白い肌に漆黒の濡れた瞳と長い髪が黒々と沈み、それなのに地味な色彩など一つもなかったように思える。彼の印象はその異形の部分に集約されていた。青、それは碧空の色。神々の色、尊ぶべき我らの。
 りん、りんりんりん!
 脳裏に思い出される青に埋もれながら、ようやく穏やかな眠りに落ちようとしていたメドゥを一瞬で飛び起きさせたのは、けたたましい鈴の音だった。
 半ば反射的に掛け布を弾き飛ばし、靴に足を突っ込むと放たれた矢の勢いで部屋の奥にある扉に飛びつく。奉仕役の部屋はその役目に不自由なきよう、神の寝所と扉一枚で繋がっているのだ。
「如何なさいましたか!?」
「寒い」
 すわ非常事態かと息を切らせて寝台に駆け寄ったメドゥを迎えたのは憮然とした一言だった。
 思わず拍子抜けしたメドゥはへ?と変な声をあげてしまう。生まれたままの姿をした神は全身に布を巻きつけながらも、ぶるぶると震えていた。高窓から月の光差し込むのみの薄闇の中、布の隙間から真っ黒いまなこだけを覗かせて、目は口ほどにものを言う。
 確かにラクルカントの昼夜の寒暖差は非常に激しい。たとえ昼間は灼熱の太陽が大地を焼いても、夜は露がおり、風が吹き、必要以上に大気を冷やしてしまう。ラクルカントの民は生まれた瞬間からそんな厳しい自然に晒される。とはいえ幼い時分は両親や身内の庇護を受け、やがて昼の暑さにも夜の寒さにもゆっくりと適合していく。けれど、彼は今まさに初めて五感でこの国の気候を、世界を味わっているのだ。その衝撃たるや到底無垢な「赤子」には耐え切れぬほどに違いない。
「配慮が足らず申し訳ありませんでした。布を増やしましょうか?それとも火鉢を…」
「これ以上布は巻けぬし、炎が熾るまでは待てぬ」
「では」
「おぬしでかまわん」
 言葉の意味を理解するよりも早く、大きな掌がメドゥの手首を掴む。かと思えば、そのまま強い力で寝台へと引きずり込まれた。視界は反転し、束の間の暗転。気が付くと逞しい腕が背中へとがっちりと回り、山ほどある布が一枚、二枚と容赦なく身体の上へと降ってくるところだった。どうにか視線だけを動かせば、長い黒髪が視界の端で生き物のように波打つ。やがて目の前に整った顔立ちが急に現れ、黒い瞳で見透かされるように見つめられたかと思えば、その裸の胸に抱きすくめられる。
「ラ、フィーガ、様!」
 咎めるようにその名を呼んでも神様は平然としていた。
 メドゥが全力で抗っても腕の力が緩まる気配は全くない。どころかサリサリと軽い音をたててメドゥの全身に巻き付いてくるのは彼の鱗に覆われた下半身だ。まるで蛇が獲物を仕留めるような動きに一瞬背筋が寒くなったが、幸いにも腕の力以上の強さで冷ややかな筋肉が纏わり付いてくることはなかった。
「思った通り、人間は我らより温かい」
 そう、ため息でもつくように彼が言う。気が付けば彼の震えは止まっていた。人肌を求めるほどの寒さに苛まれていたとわかれば、メドゥもすぐさま無碍にはしにくい。何しろ砂漠の夜の独り寝は寂しいものだ。身も心も冷え切ってやがて自分が路傍の石ころにでもなった気分になってくる。その空虚を、メドゥは知っている。
「よいよい、眠るがよいぞ。我が許す」
「……ゆるすって…」
 何を勝手な、と反論しようとした口をメドゥは噤んだ。もう顔すら忘れてしまった父のような、存在すらしない兄のような、大らかな掌が手慰みのように繰り返しメドゥの頭を撫でる。その心地よい仕草は久しく忘れていた感覚を呼び覚ますようだった。全身の力が余すことなく抜けていく。弛緩した指先は重力に逆らう力を失い、骨はぐらぐらとほぐれ、足先は熱を帯びてくる。瞼は心地よくゆっくりと重くなり、やがて闇が訪れる。けれど、それは決して恐ろしいことではなくて。
「よき眠りを、メドゥ」
 それが結局その夜メドゥが理解した最後の彼の言葉となった。


2017.11.03

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