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その他 ウカノミタマさまの言うとーり。

 穂村誉(ほむら ほまれ)が新入社員時代から慣れ親しんだアパートを離れ、勤務先からは五駅遠ざかることになる閑静な住宅街の新築マンションに引っ越したのは秋の夜長も極まる十月も半ばのことだった。
 とりたてて記すような深い理由などない。
 ただ、勤続十年の節目を迎え、ある程度の貯蓄が出来たこと、リフレッシュ休暇なるまとまった休みが取れたこと、ぼんやりと考えた将来の展望に結婚の二文字がチカリともしなかったこと。そんな様々な事情が重なり、気が付けば誉は不動産屋の門を叩いていた。
 人口密集地であるこの大都会での物件探しはさぞや困難を極めるかと思いきや、割と早々にこれぞと思える住居に出会ってしまったことには些か拍子抜けをした。だが、常にダークグリーンのスーツを着込み、胸に白いプラスチックの名札を付けた担当営業はしたり顔で言ったものだ。決まるときは決まるものですよ、と。
 その言葉に背中を押された、というわけではないが、誉の走らせたサインの筆跡はなめらかだった。銀行でのローン相談、職場への申請、引っ越し業者の手配、定期の変更、掃除、荷造り、不足する家具類の買い出し。あらゆる手配が滞りなくスムーズに運び、気が付けば新居に移ってから早くも一週間が経とうとしている。
「ただいま」
 ワンルーム時代からの癖で誰もいない真っ暗な部屋に向かって声をかける。当然返事などない。聞こえるのは自身が手にしたビニール袋がかさかさと擦れ合う音だけだ。
 蒸れた靴を玄関で脱ぐ。真っ直ぐに伸びたフローリングの床の突き当たりはドアになっていて、当然その先も暗闇しかない。独り身の生活も度が過ぎれば寂しさにすら鈍感になる。2LDKでの一人暮らしはあちらこちらに空白があるようで心許ない、と思ったのも最初の数日がいいところだった。慣れとは甚だ恐ろしい。
 手探りで壁の電気のスイッチを入れる。すぐさま温かみのある橙色の蛍光灯がリビングダイニングを明るく照らしあげた。銀色の冷蔵庫が唸るカウンターキッチン、作り付けの飾り棚に四十インチのテレビ、奮発して買った革張りのソファに高さを合わせたローテーブル。
 いつもと変わりのない無人の部屋。朝、誉が出かけるときとまったく同じ空気を詰めたその部屋が外部から干渉を受ける可能性はゼロに等しく、結果として代わり映えしない光景が誉を迎える、はずだった。
 しかし、ネクタイに指をかけた誉は、何気なくローテーブルに視線を向けたまま、その動きをピシリと止める。まるで眼球が受け取った視覚情報を脳が全力で拒否している反動であるかのように、指先一本動かすことができない。
 あれはなんだ?
 疑問符が脳裏で激しい明滅を繰り返す。あえて自身の記憶の中から近しいものを掘り起こすとするならそれは大型の犬であろうか。いや、しかしあの大きな三角形の耳、ふっさりと揺れる紡錘形の尻尾、そしてその先の白さ、黒く濡れた鼻、厳かに輝く真紅の瞳、それはまるで。
「お稲荷さん…?」
「ふん。よく知っておるな!」
 喋った!?
 確かにその生き物は心なしかふんぞり返ると、鼻高々に日本語を話した。開いた口から覗くずらりと並んだ歯、それにひくひくと自慢げにそよぐひげが「彼」が玩具やトリックではないことを証明していた。そう、その声はまるでオペラ歌手のようによく通るバリトンだ。
「やはり我らほどになると信仰心の欠片もない平民であろうとも威光が伝わってしまうものなのであろうな!いやはや、なんとも世知辛いのう!」
「…え…」
「しかし、惜しい!しかし、惜しいぞ、人間!我は確かに稲荷の眷属の姿をしているが、どちらかと言うとその本質は本霊に近い!そうだ!我こそはウカノミタマ!古来より日の本の国の豊穣と繁栄を司る神なれば!」
「かみ、さま…?」
 うむ!とやはり踏ん反り返った狐(で、間違いないようだ)に誉はぽかんと口を開けることしかできない。だってそうだろう。人間を三十年とちょっとばかしやってきたというのに、学校でも会社でも社会でも「狐の神様に遭遇した際の対処法」なんてことは誰も教えてはくれなかった。だから、誉は彼の熱弁にも気の抜けた相槌を打つ他の芸当ができるはずもない。恐怖より驚きより困惑が勝り、ゆえに冷静であったと言い換えてもよい。
「人間、おぬしはなかなか見込みある人間と見た。我の配下となる気はないか?」
「はあ…神様の配下、ですか?」
「うむ!我は元々この建屋があった場の土地神であった。それを何か?あとから来た人間どもがアレヨアレヨという間に我の社を壊し、地を削り、こんなモノを建てよったのだ!許さぬ!」
 狐の神は怒りを表すかのように二倍ほどに膨らんだ尻尾をぶんぶんと振った。正しく狐色の毛に覆われたそれが左右に大きく動く度、誉の視線もふらりふらりとつられる。
「ゆえに我は人間どもへの復讐を決意した。我は豊穣と繁栄の神ゆえ、こういったことは不慣れではあるが、それはそれ。神々の威光をもってすれば大抵のことは………おい、人間」
 何をしておる、という声は最早誉の耳には入って来ていなかった。ただ、手にしたすべらかな毛並みに、指先から伝わる穏やかな温度に、どこか懐かしい陽だまりのような匂いに、心の底から安堵する。すぐさま振り払われるかと思ったのに意外にも狐は己の尾にしがみついた人間に寛容だった。
「もう一度訊くぞ。何をしておる」
「ふかふかですね…」
「それは当然だ。我の尾ぞ。お天道様に当てるだけでサラサラツヤツヤフッカフカだ」
「素敵です…」
「ふっ…当然だ!」
 深呼吸する。肺の中まで初秋の乾いた空気が満ち満ちた。閉じた瞼の裏に黄金色の海原が広がる。秋の実りの満ち満ちて。ああ炊き立ての白米のあの匂い、歯触り、甘み。すべての恵みは秋に集約し、収穫される。自然の摂理の中でも最も優しい季節、嬉しい季節。その体現たる神の尾を掴んだまま。
「…おい?人間?まさかそのまま寝落ちるなどということは…に、人間!起きろ!我は高級枕などではない!人間ー!?」
 ああそうだ、お母さんが干しておいてくれた布団の匂いだ。そう半ば夢うつつで考えながら、穂村誉は数年ぶりの熟睡というものを存分に味わった。


2017.09.30

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