ibaraboshi***

home > 小説 > , , > 羅生三世 実り多き山粧う

羅生三世 実り多き山粧う

 あれほど大気に満ちていた水の気配はすっかりと消え、いつの間にやら風は乾いて天は碧く高い。一雨ごと明確に空気は移ろい、再び肌に馴染んだ季節がやって来る予感は否が応でも萩をそわそわと落ち着かない気持ちにさせていた。
「よい頃合いではないでしょうか」
 陸峯がそう言ったのは渡りの鳥が南北の入れ替わりを済ませ、三日続いた雨のせいで濁った沢の水がようやく澄んできた頃合いだった。
 その言葉だけで二羽の女仙はすべて心得たように颯爽と身を翻し、萩はといえば手にした茶器を両手で抱えたまましっとりと潤んだ伴侶の目をじっと見つめた。
「いよいよか」
「ええ、萩。約束通り、栗の木の元へとご案内しましょう」
 そう、秋と言えば実りの季節。春から夏にかけて着々と成長を続けた山は涼やかな風が吹き始めるのを合図に、まるでご褒美のようにたくさんの収穫を授けてくれる。ひとたび雨降れば雨後の竹の子ならぬ雨後の茸が飛び出し、山葡萄やあけびなどを筆頭とした果実も鈴生りに実を付ける。美しく樹木が着飾ったが如くの紅葉もそれは素晴らしいものだけど、未だ昇仙して日が浅く、霞を食って生きるには程遠い萩にとってはまるまると肥えた栗の方が余程心惹かれる対象だった。
 手筈は速やかに整った。忙しなく朝餉を終えた萩は丈夫な靴に履き替え、春先から愛用している山菜用の籠を背負うと、すでに外では陸峯が蹄を鳴らし、大きな耳をくるくると回転させながら待っているところだった。
 行きましょうか、という穏やかな声に連れられて洞を出る。山深い秘境ともいえる位置にあるこの牡鹿の姿をした神の居住地はほとんど山と一体になっていると言ってもよかった。そもそもが山神としての信仰で知られる鹿が主を務めるのだ。その縁は深く、切ろうと思っても容易く切れるものではない。そして、また萩もそんな縁の一つによってここにやって来た。彼の伴侶として。
 土が踏み固められた九十九折りの坂道を昇ると、やがて樹影が幾重にも折り重なった山道へと繋がる。日の当たる場所に密集して生えていた水引や葛の姿はふつりと姿を消し、その代わり木々の合間には不如帰や石蕗など日陰を好む植物がちらほらと秋の気配を匂わせていた。
 頭上の鳥の声は絶え間ないけれど、風が吹く度に森全体がさざ波のような音をたてる他は静かなものだった。萩は見慣れた山間の道を初めての場所にでも行くような心持ちで辺りをきょろきょろと眺めながら歩く。普段一人で山歩きをするときは万が一に備えて弓矢も携えているし、不必要なことや不用心なことはしない。けれど、今日は前を行く頼もしい四つの蹄がある。ふわっと咲いた綿帽子のような尾の白さが、眩しいくらいに萩の目には映った。しなやかな草食の獣の痩躯、すらりと長い脚、黄金色の毛並みは中秋の名月よりも艶やかに輝き、きっとその首筋に顔を埋めれば日差しをたっぷり吸い込んだ干し草に似た匂いがするに違いない。
 と、そのとき、大きな団栗の木の根元で忙しく落果を集めていた鼠が急にその動きを止めた。なんだろうと萩が訝しがる間もなく、前を行く伴侶も脚を止める。そうして、一呼吸も経たぬうちに小動物はするりと落ち葉の合間に姿を消し、代わりに音もなく牡鹿の立派な角に着地したのは巨大な木兎だった。黄色い瞳を鋭くも理知的に巡らせた彼女は実に猛禽類らしく威厳ある声でほうと一声鳴く。
「瑞矍」
「あ、瑞矍の方ね」
「はい、瑞矍です。ぬしさま、紫香様」
「辺りはどうでしたか?」
「はい。妖の気配もございませんし、大きな獣の痕跡もございません。栗拾い日和かと」
「やった」
「彩矍はすでに樹上で控えておりますゆえ、わたくしも先行してお待ちしております。お二方はごゆっくりいらしてくださいませ」
 そう木兎は告げると、やって来たとき同様、やはり音もなく空へと飛び立った。
 再び一人と一頭の道中が始まる。森はどこまでも穏やかで、緩く曲がった小道は心地よい風の吹く爽やかな木陰が続き、ところどころ降り注ぐ秋の光はきらきらと銀色の蜘蛛の糸を照らしていた。倒木は濡れた緑も鮮やかな苔が覆い、未だ夜露のかぐわしい香りを残す。
 萩は濡れた落ち葉で足元をすべらせることのないよう、慎重に歩を進めた。前を行く獣の尾は相変わらず白く、四つ脚の安定感はさすがという他ない。神々の末席に名を連ねる牡鹿は秋の山の中で殊更光を放っているかのように黄金色だった。それは毛並みの色合いだとか、そういった単純な色彩の問題ではない。慎ましやかに、けれど、華やかに。相反する二つの空気が彼の中で同居していた。それはあたかもこの季節に祝福されているかのように。秋、実りの季節。萩が生まれた季節、萩が彼に見初められた季節、萩が彼とつがった季節。
「萩、」
 彼が名を呼ぶ。振り返る。長い睫毛に縁どられた大きな目が不思議そうに瞬きをした。内心、考えを見透かされたようで落ち着かないまま、萩が何、と問えば、深山の獣は心底不思議そうに首を傾げる。
「先程からずっと考えていたのですが、今日の萩は殊更愛らしく見えますね…なぜでしょうか」
 季節のせいですかね、と付け加え、牡鹿はこちらを見つめたままゆっくりと瞬きをした。
 一方の萩はといえば伴侶と同じことを考えていたのが嬉しいやら面映ゆいやら。気の利いた返事の一つも思い浮かばないまま、そうかも、と適当なことを独り言のように呟いた。


2019.09.25

新しい記事
古い記事

return to page top