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ヤツハカ ウォッシャブル・ベイビー

 夜明けから気温はウナギ昇り、食中毒警報は日常茶飯。どこからともなく現れる雷魚は絶え間なく吠え、昨日降ったスコールが酸っぱい匂いを拡散しながら不快指数を押し上げる。
 そんなヤツハカにも年に数度、なんの誰の気まぐれか、驚くほど過ごしやすい日がある。それは古めかしい言葉で「小春日和」とでもいうのだろうか。開け放した窓から吹き込む風は乾き、干し草みたいな香りさえさせている。毎日飽きずにギラついている太陽も今日ばかりは多少控えめな白光を振り撒き、年中消えないスモッグの隙間からは抜けるような紺碧の空が覗いていた。
 こんな日は一段と煙草がうまいものだ。
 皿洗い、洗濯、風呂トイレ掃除、と休日の家事を一通り終えたアリスゼルはソファに身を埋めると美味そうに紫煙を吐いた。天気は文句の付けようもなく、久しぶりに洗ったシーツが外で大きくはためく音だけが聞こえる。階下にある中華屋の開店まで1時間あまり。街の外れの未舗装の通りは不快な排気音を殊更強調して通り抜ける輩もおらず、しばらくは平穏が続きそうだった。
 それはここ最近、ほとんど繁華街のど真ん中にあるギルド南館に身を置いてきたアリスゼルにとって夢のような静寂だった。きっと多忙に多忙を極めた生活もなんとかひと段落ついたがゆえのご褒美に違いない。空はいつになく青く、首筋を伝う汗もなく、深く吸い込んだ煙は肺の奥底まで存分に満たす。悪くない。
「アリスゼル、」
 アパートメントの外階段を四つ脚が爪で引っ掻く音が一定のリズムで続いたあと、聞こえて来たのはやはり愛し恋人の声だった。
 白昼夢を味わうかのように閉じていた瞳をぱちりと開く。短くなった煙草を手元の灰皿で揉み消し、廊下の先へと視線を遣れば、開けっ放しのドアから灰銀の毛並みがするりと入り込んで来るところだった。
「おかえり、ギムレット」
「ただいま、アリスゼル。すまない、足を拭いてくれないか?」
  思慮深い声にひそむ申し訳なさにおやと思いつつソファを立つ。日差しの差さない北向きの玄関は薄暗く、目が慣れぬ間はぼんやりとした影でしか認識されない。けれど、そのぴんと立った大きな耳、長い鼻面に濡れた黒い鼻、目も覚めるようなアイスブルーの宝石は薄闇で一段と静謐に瞬きし、アリスゼルは目を細める。ああ、それは、紛うことなくアリスゼルが愛した、
「ってどうした!?」
「散歩をしていたら偶然アンティチーク嬢に会って…猫集会なるものに参加して来たのだが」
「猫集会!?」
「川沿いの広場で、ぬかるみに突っ込んで」
 申し訳ない、と繰り返す狼の尻尾は下がり、耳は切なげに斜め下を向いていた。本人の言う通り、その毛並みのあらゆる箇所が泥にまみれている。四本の脚は言うまでもなく、ふさふさと立派な尾にも、硬質な純銀でできたような背にも、あらゆるところに侵食は及び、端から乾いてはぱさぱさと粉っぽい土をこぼしている。
「…派手にやったな…」
「やはり猫諸兄姉らのように身軽にとはいかない。不相応だった。反省している」
「いや、普通にコケただけだろ」
 真面目かよ、と突っ込めば意味がわからなかったらしい犬は首を傾げた。その姿がどこかコミカルで、思わず笑いがこみあげて来たアリスゼルは誤魔化すように彼の頭をわしわしと撫でてやる。甘んじて掌を受ける彼は迷惑そうな素振り一つ見せず、極めて控えめに尻尾を振ってみせた。あくまで私は反省していますモードを崩す気はないらしい。
「ま、いいけどな。とりあえずこれ風呂だろ」
「申し訳ない」
「いいって。それより猫集会楽しかったか?」
「ああ。猫諸兄姉らはとても物知りなのだな。街の色んなことを知っていた」
「へえ…たとえば?」
「たとえば…昨日、マッドハッターの店主が大量のさーもん?とやらを買い付けた話だとか…」
「…その話、本当か?」
 すっと声色の変わったアリスゼルの雰囲気を感じ取ったのか、全身を緊張させたギムレットがこくりと一つ神妙に頷く。さーもんを知っているのか、という問いにアリスゼルは勿体ぶったため息で答えた。
 そう、その名を知る者はこのヤツハカでは少ない。
 内陸に位置し、川といえば汚泥と排水で汚れきった運河のみである街において、魚というのはあまり一般的な食物ではない。勿論、発達した輸送路の中途にあるという地理的特徴によって街に流れ込んで来る多くの商品の中に魚介類が皆無だというわけではない。しかし、サーモンとなれば話は別だ。なぜなら、それは。
「とんでもなく美味い」
「…美味い…」
「ああ。サーモンというのは北の寒い地方の川にしかいない大型の魚だ。体長は八十センチにもなるらしいが、こっちに輸送されてくるのは大抵切り身で冷凍だな。だがな、そんなことより大事なのはその美味さだ。煮てよし、揚げてよし、焼いてよし。何しろ巨大な魚だから骨もでかいし、切り身にすればほとんど取り除ける。身は綺麗なオレンジ色でな、そりゃもう脂がのって美味いのなんの…」
 両手で図鑑に載っていたサーモンの形を描きながら力説するアリスゼルを食い入るように狼が見つめる。その脳裏にはきっと見たこともない巨大で美味なる魚、「さーもん」がびたびたと泳ぎ回っているに違いない。その証拠に尻尾はぴーんと立ち上がり、鼻はいつになく、つやつやと光っている。
「それは…それは私たちも食べられるのか、アリスゼル」
「おうともよ。ちょっと帽子屋を締め上げればすぐだ」
「私はそれが食べたい。貴方と一緒に食べたいぞ」
 まずは風呂か。そうハッとした様子の狼が慌ててバスルームへと向かうのをアリスゼルは目を細めて見遣る。
 彼との付き合いは半ば偶然の連続で、今もなおアリスゼル自身どうして彼と一緒にいるのかわからないところもある。けれど、まあ、こんな他愛もない幸せとともに毎日を過ごしていけるのであれば。
「悪かぁねぇよなあ」
 俺はサーモンフライかなあ、という呟きにやはりギムレットは機敏に反応してみせた。


2017.09.10

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