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現代帝都 触らぬ悪魔に祟りなし

 ガス燈がぼっぼっと鳴いている。
 帝都は霧に包まれていた。指先を動かすことも億劫なほど重たい湿気を含んだ空気はじわじわと身体にまとわり付き、肺を満たす空気は雲でも飲み込んだかのように湿っている。
 日没からしばらく経って、どこからともなくやって来た濃霧はあっという間に街から視界を奪ってしまった。路面電車は運休になり、道路のあちこちは閉鎖され、信号機は定期的な赤の点滅を繰り返す。警告灯となったそれが白く煙る水の粒子に反射しては、より妖しい光を四方八方に拡散した。人々は背中を丸めて家路へと急ぎ、やがて通りから人の気配はなくなった。足音は霧が吸い込んでしまうせいか、コツとも響かずかき消えて、猫の尾の影さえ見えやしない。
 それは石造りの重厚な西洋建築が並び立つ帝都の繁華街、日本橋も例外ではない。
 重苦しい霧に溶けた瀟洒な石橋の欄干には青銅製の麒麟が霊獣とは思えぬ禍々しい翼を広げ、濁った空を睨め付ける。その艶めく緑青色の足元をひらりと駆け抜けていくのは恐れを知らぬ白い指先。悪戯をけしかけるような気安い仕草からも、それが子供のものであると容易に知れた。
 等間隔に点在する街灯の下を跳ね回るように、光と影の狭間を出たり入ったりするその背格好から年の頃は七つ、八つと推測する。紺色のベレー帽には校章なのだろうか、翼を象った銀のブローチが留められ、栗色の柔らかそうな髪は襟足でおとなしくまとまっていた。ぱっちりと見開かれた目、白皙の肌は一見日本人と思えないほど白く、その顔立ちを見れば、やはり欧羅巴と極東の血が混じり合って流れているのは疑いようもなかった。
 染み一つない白いカッターシャツに螺鈿の釦、臙脂色のループタイ。仔猫の後頭部のような膝小僧が覗く半ズボンのポケットは銀のリボンで縁取りがされ、紺色のソックスには帽子ピンと同じマークが銀糸によって施されていた。
 飴色の革靴は軽やかに石畳を鳴らす。この濃霧の中、怯えて泣き出してもよさそうなものなのに、かの少年にはちっとも恐怖を感じる素ぶりがなかった。それどころかまるで鼻歌でも歌い出しそうなほどに上機嫌である。通学に使っているぱちっという留め具の音が心地よい鞄はどこに置いてきたのだろう。少年は身軽で、自由で、とにかく自在だった。
 いつも賑やかな往来が昼夜問わず続いているはずの日本橋のど真ん中でスキップをして、くるりと一回転する。霧をかき分け、霧の手を取り、霧にエスコートされて、でたらめなダンスを踊る。気が触れた狂人の振る舞いのようにも見えるそれも、少年が行うとなぜか神秘的な儀式のように思えた。霧夜に一人、一人、一人?
「よお、坊ちゃん。こんなところで迷子かい?」
 下卑た笑いに折角のダンスホールは無残にも砕け散る。
 少年は緩やかに動かしていた手足を止めて声のした方を見遣った。一人、二人、三人。決して身なりがいいとは言えないゴロツキがぞろぞろと揃いも揃って野犬のように群がって来る。少年が振りまく金の匂い、またはこの年頃の男の子特有の瑞々しい未成熟の性の気配を嗅ぎつけて。唇の端に浮かべた卑しい欲望を隠そうともせず、彼らはゲラゲラと笑う。
 ゲラゲラお父ちゃんとお母ちゃんが心配してるぞゲラゲラ。
 ゲラゲラ俺たちが送っていってやろうかゲラゲラ。
 ゲラゲラ怖いことはないぞ菓子もあるぞゲラゲラ。
 少年は澄んだまなこでそれを見る。醜悪な怪物を、否、取るに足らない不潔な虫を見下すまなこでそれを見る。少年は機嫌が悪かった。せっかくの霧中のダンスを中断せざるを得なかったからだ。それは幼稚な怒りによって発露する。それは厳格な驕りによって発動する。人にあって、人でなきもの。そんなモノにあふれたこの世においても異端中の異端。見る者を狂わせる緑眼の魔性。少年は「それ」を飼っている。または「それ」に飼われている。世に名高い魔術師の名家に生まれた少年は好奇心によって死んだ。もっと正確に言えば、狂乱の獣によって一度死に、今一度生まれ変わってしまった。
「殺して、オゼ」
 凛と響く少年の声。応えるような唸り声。それは一瞬、刹那の殺戮。気が付けば石畳を赤々と濡らす鮮血、呆然と見開かれた目。転がる三つの生首は踏み出された前足によって踏み潰され、黄色に茶の斑点がある毛並みをわずかに濡らした。大きな瞳がまばたきをする度に美しいピーコックグリーンが明滅し、それを見た人間は一瞬たりとも正気を保ってはいられない。
 緑眼の狂王、オゼ。
 レメゲトンにその名を刻む悪魔の一柱は人間だったモノを狩るのでもなく、食らうでもなく、踏み潰し、捻り切り、ぐしゃぐしゃに散らかして、一通り蹂躙が済むと満足したように少年へとすり寄った。巨大な豹が王冠をかぶった姿の悪魔の顎を少年の指がくすぐれば、ぐるぐると鳴らす喉の振動が羽のように軽い身体を揺らす。君は僕で、僕が君。少年は歌うように囁く。慈しむように、恨むように。嗚呼、許すまじ、我が魂喰らいし悪魔。
「巳王(みおう)!」
 どこからともなく聞こえてきた声に、ぱっと少年が顔を上げると同時に巨大な悪魔は夢のように消え失せた。にいさま、とか細い声が少年の喉から漏れる。記憶はふつりふつりと蘇り、心臓へと血を送る。京(かなどめ)家の三人息子。三男は内気で引っ込み思案、まだ魔術師としての片鱗も見せぬ少年、名は巳王。次男は眉目秀麗、齢僅か十四にして堕天使を従える魔術師、名は雀王(じゃくおう)。
 ああ、そうだ、思い出した。僕のにいさま、「たった一人」のにいさま。
 少年はふらりと霧の中を歩き出す。深い乳色の空気にその背中はあっという間に見えなくなった。そこにはただ無惨に転がる死体が三つ。はみ出た内臓をこぼれさせたそれにいつの間にやら無数のカラスが群がって、夢中で死肉を啄ばんでいる。


2017.06.29

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