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カリギュラ レインツリーの箱庭

 大気を鳴動させて雷鳴が轟く。霞がかった碧空はいつの間にか鼠色の曇天と化し、空気はたっぷりと湿気を含んで無闇に重たい。獣の唸り声にも似た雷電を蓄えていた空が堪えきれぬようにぽつぽつとしずくを落とす。新緑にも無機質な校舎の外壁にもアスファルトにも平等に降り注ぐ驟雨は郷愁を誘う匂いを立たせ、やがて自らの雨脚によって押し流していった。
 常とは異なる空気にか、時折まぶたを貫く閃光にか、はたまた腹の底を震わせるような轟音にか、それともそれらのすべてによってか。
 長らく優しい夢の中にいた峯沢維弦はようやく深い眠りから目を覚ました。
 しばらくぼんやりと淀む思考と記憶を持て余す。どうにか開いた視界には薄闇に溶けかかって、どこか見慣れぬ部室の様子が映っていた。部員たちは皆帰路についてしまったのかすでに人影はない。ただ自身の左側にだけはしっかりとした人肌のぬくもりが現在進行形で寄り添っていて、背後から吹き付ける冷ややかな風との対比を強めていた。
 不審に思いながら視線を動かせばそこには黒い髪が差し掛かった白皙の肌に呼吸に合わせて上下する薄い肩。その姿を眺めるうちに維弦の脳裏へと徐々に記憶が蘇ってくる。
 そうだ、思い出した。午後三時過ぎだったろうか。維弦が部室にやって来たとき、すでに彼はここに座って本を開いていた。こちらが声をかけるよりも早く、人の気配に気付いた彼が顔を上げて緩く微笑む。今日は早いね、とその平坦で揺るぎない声色はどうしたって維弦にとって好ましい。
 彼は、帰宅部の部長を務める花巻壱一という男は変わった人物だった。そもそもこのメビウスという世界の綻びに気が付くという時点で異質であることには変わりないのだが、それを差し引いても奇特な人物であることは間違いないだろう。
 何しろこの変わり者揃いの帰宅部の面々をなんだかんだいってリーダーとしてまとめあげているのもさることながら、現実で浅からぬ傷を負ってこの理想郷にやって来た人間たちの繊細な心の領域に踏み込むことを躊躇わない。それはきっと彼にとっても簡単ではないことで、軽いことではないはずで、それでも彼はその行為を止めようとはしなかった。次々に人の心を解きほぐしていく様はさながら敏腕カウンセラーのようだったが、話を聞く限りそういった専門職でもないらしい。かといって、ならば何者なのかと無遠慮に尋ねるのは目に見えて憚られた。彼は自身のことは多く語らない。生い立ちも、家族のことも、どうしてこのメビウスにやって来たかも、何も。
 ぱたぱたといよいよ強くなり始めた雨粒が窓枠を打つ。
 弾けた水飛沫が後頭部を直撃し、さすがに黙ってずぶ濡れになるわけにもいかず重たい腰をあげる。ソファに深く沈み込んでいた身を起こし、片膝をつくと腕を伸ばして両開きの窓を閉める。思っていた以上に大粒の雨は制服の袖にまだらの染みをつくったが、その感覚はどこか新鮮だった。思い返してみればこの世界で雨が降ることなど滅多にない。
「…維弦…?」
 隣の男が微かな声を発しながら目を覚ます。雨音と雷鳴と窓を閉ざす鈍い音。そのどれが彼の覚醒の兆しになったのかはわからないけれど、壱一は一つ欠伸を噛みしめたあとの薄ら涙で滲んだ目をゆっくりとこちらに寄越した。
「俺、寝てた?」
「ああ」
「起こしてくれてもよかったのに」
「僕も今起きた」
 そう言うとああと納得したように壱一は微笑した。膝の上に置かれた濃紺色の本の表紙を指先が撫で、振り向いた視線の先で曇天が唸る。強くなる一方の雨粒は強く窓を叩き、外の気温が急激に下がったのか透明なガラスはすぐに白く曇った。
 壱一はしばらく無言で外を眺めていたが、ふと首を傾げた。雨が降るなんて珍しいなという独り言のような呟きにようやく維弦もこの異常事態に確信が持てた。ここは常若の世界メビウス。天候さえも完全に制御された理想郷に嵐など来るはずがない。
「この世界でも雨降るんだ?」
「誰かが望んでいるのか…?」
 誰の願いも叶い、誰の望みも現実になる理想の世界。バーチャドールμが作りあげた世界では様々な事象が万事人間の望みによって起こり得る。それこそが自分に歌を与えてくれる人間たちの真の幸福であると信じた彼女の手によって。そして、この世界の創造主である彼女にとって世界の気象を操作することなど造作もないことだろう。
 それを聞いた壱一は納得して頷き、やはり外へと再び視線を戻した。
 空は戦き、大気は震え、紫電は水平に雲間を這い回ったかと思えば、唐突に地へと落下する。鼓膜までタイムラグなしで届く轟音は幾筋も垂直な道を描き、降り注ぐ光の柱のように見えた。今日の夕立はまた随分と激しい。まるで誰かの怒りをそのまま体現しているかのようだった。
 日暮れ間近に夕闇を覆い尽くした曇天のせいで外はすでに夜のように暗く、電灯を付け損ねた部室の中もまた深い闇に沈んでいた。稲光が時折大きな音とともに走る度に窓から苛烈な光が差し込み、隣の男の整った顔立ちを必要以上に照らしあげる。薄灰色の虹彩はまるで雷に魅入られたようだった。
 穏やかな雰囲気を絶やさぬ彼の常ならぬ表情、まるで魂を抜かれた幼子のような、なんとも言えぬ顔に反射的にひゅと細く息を吸ったのも束の間、ソファの背もたれを掴む指先が微かに震えていることに気付いたのは維弦がそれでも彼から目を離さなかったおかげだろうか。
「維弦、傘持ってる?持ってないよなあ…雨が降るなんて思わないし」
「……あんた、」
「夕立だからすぐ止むかな」
「雷が怖いのか?」
 きょとんとした男の顔を見て、維弦は初めて言いようのない不安に駆られた。この人間は一体どうしてここにいるのだろうか。どんなに辛い現実があって、どんな叶えたい望みがあって、そしてどんな理由があって現実に帰りたいのだろう。維弦は知らない。何も、一つも。彼について知っているのはこの架空の世界で高校生であること、架空の学年、架空の性別、架空の見た目、そして心の有り様が顕現したというカタルシスエフェクトの形。両手に携えた漆黒の巨大な拳銃。過たず敵を討つ彼の武器。彼はそれを握りしめていつも前線に立つ。どれほど強大な敵を前にしたって膝を震わすことなく、後退りすることなく、完璧な照準で引き金を引く彼の指先は今、無残に震えが止まらない。
「え?」
「震えている」
「え…あ、ほんとだ」
 本当に今正に気付いたように彼は己の両手を見下ろした。おそらく意志に反して震えは止まらないのだろう。両手を自ら振りながら不思議そうに彼は首を傾げる。怖い?という声はその口の中でひどく頼りない発音のまま消えていった。
 その様子をじっと見つめながら維弦は徐々に己の眉間に皺が寄っていくのを自覚する。別段彼に苛立っているわけではない。ただ、彼が自身の恐怖も自覚できないこの世界に、その生い立ちになぜか無性に腹が立った。彼をそうさせる何かとそうなってしまった彼をすぐさま救い出す手段も知恵も持たぬ己がほとほと嫌になる。
「ごめん、止まらないみたいだ」
「僕に謝る必要はない」
 思っていた以上に冷たい声が口を突いて出た。驚いたようにこちらを見る彼の顔がやんわりと困ったように歪む。ああ、違う。そんなことを言いたいんじゃない。だからといって代替の言葉も見当たらず、しばらく居心地の悪い沈黙が二人の間を支配した。
 雨は止む気配は見せず、しばし小康状態となっていた雷も再び猛威を奮い始める。唸る空、走る稲光。無感情な眼差しで輝くそれを見上げながら、指先と言わず全身を震わせ始めた彼に維弦は緩く息を吐いた。
 もう他に維弦に思いつく手立てはなかった。肩に掛けていたコートを脱ぐと彼の頭から無遠慮に被せる。う、わと驚いた声をあげた彼の耳を塞ぐように両腕で拘束し、小さな頭を引き寄せれば、ようやくその意図に気付いたのかもぞもぞと暴れていた身体が急におとなしくなった。心なしか彼の全身を蝕んでいた震えもわずかながら治まった気がする。こんなことはただの気休めにしかならないとわかっていても、それでも。
「ありがとう、維弦」
「……礼を言われるほどのことじゃない」
 ぼそりと呟いた言葉に小さな振動が返ってくる。それが彼の笑った気配だということを維弦はもう知っていた。
 誰かの望みである雨と雷がこうして彼を苦しめていることには憤り以外の何も感じない。けれど、腕の中に閉じ込めた温度は想像していた以上に温かく、ささやかな脈拍のリズムは殊更安堵を誘う。こんなところに匿ったところで何から守れるわけでもないし、彼が誰かから守られるような人間ではないということは十二分にわかっている。けれど、維弦はその両腕にほんの少し力を込めることを止めることはできなかった。
 彼を蝕む恐怖が一刻も早くこの場から去ることを願う。そう思って見上げた空からは相変わらず絶え間なく雨が降り注ぎ、しばらくは止みそうもなかった。


2016/07/20

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