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カリギュラ リンデンバウムの窓辺

 二人のバーチャドールによって創生されたこの世界では音楽といえばDTMのことで、DTMといえば音楽のことを指す。ゆえに実際の楽器を使って演奏するという文化そのものが希薄になっているらしく、それはこの旧校舎二階の片隅に設けられた音楽室とその隣にある音楽準備室の閑散とした様子を見ても明白だった。行き止まりとなった廊下の奥にひっそりと設けられた特別教室へわざわざ足を向ける生徒はほとんどいない。しかし、だからこそ人目を憚る帰宅部にとってここは都合のいい隠れ家となっていた。
 食べかけの菓子やペットボトル、山積みになった雑誌が所狭しと置かれた長机が和やかな雰囲気の余韻を残している一方で、蓋を開けられなくなって久しいアップライトピアノに譜面台、ト音記号の描かれた黒板、床に積み上がった合皮の楽器ケースなどは所在なさげに放置されている。二種の時間軸が混在した部屋はお世辞にも片付いているとは言えずある種の混沌を極め、なかでもその最奥、大きく開け放たれた窓の下に据え置かれた大型の家具は一際の異彩を放っていた。
 それは音楽準備室という空間には些か不釣り合いな重厚さを持つ二、三人掛けのソファだった。
 ひょっとしたらこの場所を拝借した帰宅部の面々が持ち込んだものなのかもしれないが、壱一はその経緯を知らない。ただその元々グレイだったのか、日に焼けて色が抜けてしまったのか判然としないソファの少しくたびれたスプリングの様子が壱一は気に入っていた。
 まるでソファに合わせて開かれたような窓も、遮光カーテンの重たくて埃っぽい束も、小脇に置かれた用途不明の小さな棚もその上の花瓶も枯れない白い花も、何もかもが壱一の心当たりのない記憶の奥底を揺さぶった。経験にないはずの懐かしい既視感を享受するのは決して嫌いなことじゃない。
 ソファはいつしか壱一の定位置になった。彼がここで本を読んでいようが、スマホを触っていようが、うたた寝していようが、誰も気にする人間はおらず、それは非日常の中の日常と化した。ただし、その判定が適用されるのはあくまでそこに壱一がただ一人でいる場合の話であって、誰か一人でも相席がいるとなればそれはまた別の話だ。
「また…随分懐かれたわね」
 その光景を目にした瞬間、柔らかく苦笑してみせたのは帰宅部のメンバーの一人である柏葉琴乃だった。明るい褐色のロングヘアに青い花の髪飾り、立ち居振る舞いも口調も優しいお姉さんという最初の印象は彼女の事情を知った今もほとんど変わらない。
 彼女は後ろ手に引き戸を閉めると、これドーナツだけどよかったら食べて、と手にした紙袋を机の上にそっと置いた。その間、少しも笑みの形を崩さないどころか心なしかますます笑みを含み、興味深そうに彼女は尋ねる。
「どれぐらいそうしてるの?」
「一時間…くらいかな」
 読みかけの本を閉じながら答えれば、琴乃は目を細めてふるふると肩を震わせた。どうやら笑いをこらえているようだが、ほとんど隠しきれていない。ダメだった?と問えば、それがトドメになったのかとうとう彼女は声をあげて笑い出した。無論、「彼」の眠りを妨げないよう気を遣ったボリュームではあったのだけれど。
 視界の隅で色素の薄い猫っ毛がさらさらと広がる。
 肩にのっているのは確かに頭一つ分の重みで、わずかに聞こえる寝息はどこまでも健やかで乱れない。背後から差し込む日差しと右腕に寄り添ったぬくもりの温度はほぼ同じで、じわじわと伝わってくるのが彼の体温だと思うとどこか不思議な感じがした。何しろ彼ときたら一瞬冷ややかとさえ思える美貌の持ち主で、その言動も含めてどこか浮き世離れした感が拭えない。ふとした瞬間に本当に血が通っているのか、確かめたくなることは幾度となくあったけれど、その度に伸ばしかけた手を引っ込めてきた。きっとそれは彼の柔らかく繊細な部分に露骨に触れてしまうだろうという配慮からだが、こうも無防備に熟睡されてしまうとそれも杞憂だったような気がしないでもない。
 なんにせよ彼、峯沢維弦に目覚める気配はなかった。琴乃の笑い声にも壱一が口を開くことで発するわずかな振動にも微動だにすることなく、ひたすら幸福な惰眠を貪っている。一体なんの夢を見ているというのだろう。視線を動かして見たその表情からは何も読み取れない。伏せられた睫毛が常より深い陰影を頬に落とし、薄く開いた唇が若干あどけない印象を与えている以外には何も。
「まだしばらくそうしてる?」
 ようやく笑いを引っ込めた琴乃が優しい声色で訊いてくる。壱一は特別逡巡することもなく小さな動きで頷いた。
「起こすのは可哀想だから」
「そう。あんまり甘やかしちゃダメよ」
 維弦君だって男の子なんだから、と意味深な台詞とともにウインク一つを残して彼女は部室をあとにした。
 ぴしゃりと扉が閉まった途端に再びざわめきは遠のき、そよ風の音すら聞こえてくるような静寂が戻ってくる。珍しく放課後になっても部室に集まってくるメンバーはほとんどいなかった。琴乃もそそくさと出て行ってしまったし、今日は帰宅部としての活動は休みかと自覚した途端に気が緩んだのか大きな欠伸が口をついて出る。
 思えばこの世界の真実に気付いてからずっと走り続けていた気がする。アリアに出会い、帰宅部の一員になり、いつの間にか部長なんてものに選ばれて、μと対面するために幾人もの楽士たちを退けてきた。来る日も来る日も賑やかな仲間たちに囲まれて、それが不満だと思ったことはまったくないけれど、こんなに静かなのは久しぶりかもしれなかった。
 短いようで長く、長いようで短い。曖昧な世界の中でたくさんの怒りを知り、たくさんの悲しみを感じ、たくさんの喜びを噛み締めてきた。きっと現実の壱一ならば一生かかっても知る由がなかった憤怒や慟哭や歓喜。知ってしまったからにはもう知らなかった頃には戻れない。きっと壱一は現実に戻ってもそれを求めてしまうだろう。求めずにはいられないだろう。あの地獄でそんな望みが叶うかどうか、それは今もまだメビウスという夢の中に囚われている壱一にはわからない。それでも己の現実を直視しようとしている仲間たちと同様に足掻いてみようかと考えるほどに壱一もまた変わったのだ。それはきっと、おそらく、よい方向に。
「…起きた?」
 昏々と眠り続けていた男が短い呻き声とともに身動ぎした。
 壱一の呼びかけを理解できるほど覚醒していないのか、盛んに瞬きを繰り返すまぶたの奥の瞳が蜜色に溶けている。細い髪ははさはさと揺れ、むずかる子供のような動きをしたかと思えば、何も言わぬまま彼はもう一度目を閉じてしまう。
「維弦、琴乃がドーナツ置いていってくれたよ。食べない?」
「……食べる」
「じゃあ、起きる?」
「………起きない…」
 会話にならなかった。どうやらまだ寝たりないのかうつらうつらと夢の中へと戻っていってしまう彼に苦笑しつつも、無理に起こす気にはやはりどうしてもなれない。
 諦めて壱一は膝の上に置いていた読みかけの本を開いた。濃紺の布張りに銀の箔押しが施された手触りのいい表紙にどこか惹かれるものがあって図書館から借り受けてきた書籍は見知らぬ国を舞台にした冒険譚だった。幼い頃から一族の道具として生きることを運命付けられ、不条理なことに直面してきた主人公がやがてその魔の手から逃れ、旅に出るシーン。道中、満点の星空を見上げながら彼はようやく自由の実感を得て呟くのだ。
「”僕はどこにだって行ける。僕の行きたいところに僕の行きたいだけ”」
 そんな台詞の引用はおそらく誰の耳にも入ることはなかった。窓の外から吹き込んできた風がゆっくりとカーテンの裾を揺らす。緩慢にやって来る夕暮れを歓迎するかのように外の空気はわずかな湿気を含んでいる。


2016/07/17

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