ibaraboshi***

home > 小説 > > カリギュラ 月桂樹の葉のひとひら

カリギュラ 月桂樹の葉のひとひら

 ある晴れた春の日だった。
 気候さえ完璧に制御されたこの世界では天候が荒れることなどまずないのだけれど、中でもとりわけ素晴らしく過ごしやすい昼下がりだった。そよそよと吹く春風が草木を柔らかく揺らし、花の香は風に乗ってどこまでも運ばれる。光は四面を校舎の高い壁に囲まれた中庭へも平等に降り注ぎ、満開となった月桂樹は折に触れてはらはらと繊細な細工物のような黄色い花を地面へと落とした。昼の時間を告げるチャイムが数分前に鳴り響いた校舎は授業から解放され昼食を求める生徒たちの賑やかな声に満ちていたが、そんな喧騒もここまでは直裁に届かない。すぐ傍のざわめきに寄り添いながらも薄紙を一枚隔てたような穏やかな静寂を守る中庭の片隅にはぽつんと据え置かれたベンチが一つ。常ならば無人のまま中庭の風景に溶け込んでしまうその場所に今日は珍しく二人分の人影があった。
 一人は端麗な顔立ちに鉄壁の無表情を張り付かせ、立てばざわめき座れば吐息歩く姿は皆が振り返ると専ら噂の学校一のイケメンこと峯沢維弦。もう一人はよく見れば整った容姿ながらもどこか穏やかな気性が滲み出ているせいか取っ付きづらい印象は微塵も感じさせない、ごく普通の一般生徒にして知る人ぞ知る帰宅部部長こと花巻壱一。
 二人の座るベンチはちょうど壁と月桂樹の茂みに挟まれて校舎からは死角になっている。よってどこにいても何かと注目の的になってしまう維弦も誰の視線を集めることもなく寛いだ雰囲気で膝の上に広げた弁当を口に運んでいた。
 自宅で作ったものを持参しているのか、染み一つない真っ白なクロスに包まれた長方形の箱に隙間なく詰まっているのはサンドイッチだ。真っ白でふかふかな薄切りの食パンにハムやきゅうり、たまごやレタスなどがちょうどいい圧力でサンドされ、切り口も鮮やかに行儀良く鎮座している。それを維弦の細く長い指が淀みのない仕草でつまみとっては間断なく口に運んでいた。食べている最中も彼の表情は大きく変わることはないが、ゆっくりと味わうように噛み締めるように食べる様から美味しいと思っているのは間違いないだろう。彼は感情を表現するのが特別苦手だ。だからといって当然といえば当然なのだが、決して何も感じていないわけではない。
「…なんだ、人の顔をじっと見て」
「サンドイッチ、好きなのか?」
「ああ…好き…と言えば好きかな」
 美味いと思う、と拙く漏らされた言葉にこちらもなぜか嬉しくなって無意識のうちに頬が緩む。帰宅部に入って、帰宅部の皆と共に過ごすようになって、維弦は格段に言葉数が多くなった。表情はまだ固いことが多いけれど、それもきっと時間の問題なはずだ。春になって綻ばぬつぼみがないように、きっとその花が大輪を咲かす日もそう遠くはない。
「あんたは何が好きなんだ?」
 唐突に疑問文を突きつけられてはたと我に返る。瞬きをすれば眩いほどの美貌がこちらを真っ直ぐに見つめていた。アーモンド型のまなこを縁取る睫毛は飴色にきらめき、薄い唇はきゅっと形良く結ばれている。
 呆気にとられたのは一瞬で、すぐに質問の内容を読み解き、理解し、思考するに努める。先程の会話の流れからしてどうやら好きな食べ物のことを尋ねているらしいと判断。
「うーん…好き嫌いはあんまりないんだよな」
「ないのか」
「食べ物はね。好きなものは結構あるよ」
 虫とか、と言うと彼は、彼にしては大袈裟に目を見開いて驚いてみせた。虫、と反芻する声があからさまに異文化に触れた恐れに満ちている。それでもそこで拒絶せずにおずおずと進んでくるのは彼の隠れた美徳ではなかろうかと常々壱一は思っているのだが、きっと本人は腑に落ちない顔をするに違いない。
「虫…昆虫のことか?」
「そうだよ」
「それは…このアリなどもか」
 彼が指さした月桂樹の根元には小さな黒い粒のようなアリたちが忙しなく歩き回っていた。どこかに餌があるのか、一直線上を乱れることなく行き交うものもいれば、どこか退屈そうに草葉の合間を右往左往するものもいて、巣穴と思しき土の中へ盛んに出入りするものもいる。この世界でも現実と変わらずどこでも普通に見られる光景だ。
「そうそう。って言ってもこの世界の人間以外の生き物はみんなニセモノらしいけどね」
「ニセモノ?」
「アリアに聞いたんだ。魂を持つ者じゃないとこちらの世界には来られないんだって」
 それを聞くと維弦は口元に指先を当てたまま黙ってしまった。深い思索の海に沈んでしまったのか、それきり会話は途切れてしまう。しかし、壱一はそんな彼の様子にすでにもう慣れていたので、口元を緩く苦笑の形にするに留め、のんびりと彼が帰ってくるのを待つことにした。
 持参した弁当に入っている冷めた唐揚げと卵焼きを口に運び、もぐもぐと咀嚼すれば風は髪を撫でるように吹き、日差しはどこもかしこも優しく抱きしめるよう照らしあげている。春だなあと場違いとも思える牧歌的な独り言がこぼれた。永遠に高校の三年間が繰り返される常若の世界に春も何もなかろうに、というのは壱一も十二分に理解しているが、それでも思わず口をついて出たほどにいい陽気だった。
「あ、」
 ふと視界の隅をうろうろする赤色に目を留めれば、それは春を代表する昆虫だった。壱一と維弦のちょうど間にあるベンチの背もたれ部分を小さな脚を使って歩き回る楕円のドーム型の体はツヤツヤと光り、鮮やかな赤色の上には黒い七つの紋が点々と描かれている。
「ほら維弦、ナナホシテントウ」
 指先を進行方向に差し出せば、赤色の虫は素直に指先にのってきた。壱一の呼びかけでようやく白昼の世界に戻ってきた維弦も興味深げに覗き込んでくる。テントウムシは男二人に注視されているとも知らず、気ままに小さな脚を動かして壱一の手の中を歩き回った。
「ナナホシテントウは集団で冬眠して春になると活発に動き出すんだ。アブラムシを食べるから農家なんかには珍重されてる。所謂益虫ってやつだね」
「…それもニセモノか?」
「この世界ではね。…どうしたの、維弦」
 そんなむすっとしちゃってと言えば、間髪入れずに僕はそんな顔していないと返ってくる。それはもう肯定しているも同じなのだと思うのだけれど、しかし彼がどうして不機嫌なのかその理由はわからず、壱一は首を傾げる。何か自分は彼の気に障るようなことでもしただろうか。
 しばらく考え込んでいると痺れを切らしたのか、それとも単に自分の中で言うべき言葉がまとまったのか、おそらく後者だろうが、維弦がゆっくりと口を開く。あんたは、と紡がれたその言葉の先を壱一は想像できない。目を見開いたまま待っていると彼は思いもかけない台詞を紡いだ。
「ホンモノの僕より、そんなニセモノの昆虫の方がいいのか」
「へ?」
 思わず変な声が出た。否、この際変な声が出たことくらいは許して欲しい。
 二人の間に妙な沈黙が落ちる。ナナホシテントウは壱一の手の中を三周ほど周回すると、やがて親指の先からぱっと飛び立った。青い空へ小さな点となって消えていく虫をなんとなく二人分の目線が追う。そうしてやがてその姿形も見えなくなったとき、ふっと思わず噴き出したのは壱一の方だった。
「どうして笑う」
「あ、ごめん。馬鹿にしてるんじゃないよ?」
「それぐらいはわかる」
「そっか」
 空はよく晴れて、風は優しく、どこからともなく花は香る。アリたちは今日もせっせと働いてはサボり、テントウムシは空を行く。彼の髪はきらきらと輝いて、彼の目はゆらゆらと揺らめいて、この閉じられた世界でも唯一自由なものがあるとしたら、そうしてそれがこれから行くべき未来へと続いているとしたら。
「お昼食べちゃおうか、維弦」
 その先で待っているものは地獄でも絶望でもない、まったく別の何かだろうと壱一は思うのだ。


2016/07/09

新しい記事
古い記事

return to page top