ibaraboshi***

home > 小説 > > FGO 世界の袋小路より愛をこめて

FGO 世界の袋小路より愛をこめて

 放課後を告げるチャイムも白い校舎の壁も抜けるように晴れた空も何もかもが平凡なある春の日だった。
 揚上真(あげがみ しん)の新生活は概ね順調と言ってよかった。
 区内の公立高校に無事進学を果たして約一ヶ月。休み時間に気安い会話を交わす友達もでき、部活動の見学も済ませ、心配していた授業もなんとかペースについて行くことができている。 進学祝いに買ってもらった新しいスニーカーはほどよく足に馴染み、学校指定のカバンには早くも友人たちと連れ立って入ったゲームセンターで取った珍妙なキャラクターのキーホルダーが我が物顔で揺れていた。学ランは新品特有の艶やかな黒を放ち、校章が彫り込まれたボタンの金色は誇らしげに輝く。何もかもが理想の高校生活だった。なんの不満も、なんの不安もなかった。眠ることで今日が終わってしまうことが何よりも惜しく、明日が来ることが何よりも待ち遠しかった。それは幸福と思い至らぬほど当たり前の日常だったのだ。
 そう、確かにその日までは。
 校門から徒歩十五分。十字路で友人と分かれ、帰路へとつく。真が家電量販店の販売員をしている父と専業主婦である母と暮らすアパートは築三十年。昔ながらのトタン屋根に煤けた外壁の木造二階建て。大家さんが階段下に放置したヘデラが旺盛に赤錆の手摺りに絡みつく様は些か陰気だったが、物心つく前からここで生まれ育った真はとっくに慣れてしまっていた。
 今どきこんな時代がかった賃貸住宅に住む人間は大抵何かしらの事情があって、お互いにそれを承知した隣人どうし不干渉を貫いている。それでもすでに十年以上の付き合いとなる店子の面々はなんとなく察してはいるものだ。二〇一号室の住人は四十を過ぎた化粧の濃いソープ嬢でひどいヘヴィスモーカー、一〇四号室は数人の男たちが入れ替わり立ち替わりやって来てどうやら共有のアトリエである様子で、二〇三号室は口数の少ない翁が一人。盆栽が趣味の老体が玄関先にぎっちりと並べた植木鉢を器用に避けながら通り抜けると、真は自宅のドアへと手をかけた。自宅は二〇四号室。外階段を昇って一番奥のドアがそれだ。
「ただいま」
 なぜか鍵は開いていた。
 今思えばこの段階で異変に気が付くべきだったのかもしれない。けれど、今日は土日が繁忙期となる父親の数少ない休日で、彼は頻繁に自宅の鍵をかけ忘れることから真は殊更その事実に関心を寄せることはしなかった。いつも通り薄暗い玄関先でスニーカーを脱ぐ。泥の付いた長靴、骨の折れた傘、母が買い物に使うサンダルなどが雑多に散らばったタイルの上は常と変わらなかった。そこには家族全員分の履物があり、それは即ち今この家にはすべての住人が揃っていることを意味していた。
 それなのにこの静けさは一体なんなのだろう。
 いつも当たり前に返ってくるただいまの声も、テレビの暢気な音声も、母が台所で腕を振るう調理の音も、父がめくる夕刊の乾いた紙の気配も、何も聞こえない。何もない。擦りガラスのドア一枚を挟んで、終ぞこの家で体感したことのないような沈黙がじっと息をひそめていた。
 訝しく感じながらも一つ足を踏み出す。恐ろしいほどに軋む傷んだ床板を踏み鳴らし、廊下と居間を繋ぐドアをゆっくりと開く。ぎいっとこれまた古ぼけた蝶番が悲鳴のような音をあげてみせた。薄く開いたドアから覗く景色。それはあまりにも見慣れた光景であり、あまりにも見慣れぬ光景でもあった。
 卓袱台、ぺしゃんこの座布団、焼けた畳、遮光のカーテン、プラスチックの電灯の傘、そんなものが、そんな日常の調度品すべてがどす黒いほどの赤に染まっている。どこを見回しても赤、赤、赤、赤赤赤赤。そして、時折赤色の沼の中にこびりついた肉塊のようなもの。否、それが比喩などではなく、正しく肉塊と理解するよりも早く、堪えきれないほどの鼻を突く異臭に嘔吐感が襲う。血生臭いなどまだ生ぬるい。まるで腐肉の中に直接鼻を突っ込んでいるかのような腐敗臭、悪臭、死臭。そうだ。これは人が死んだ臭いだ。これは人が「殺された」臭いだ。誰かが、誰を、そんなの、決まっている。原型を留めないほどに切り裂かれ、千切られ、ぶちまけられたこの成れの果ては。
「と、うさん…母さん…っ」
「………真…?」
 もうとっくに二人とも亡き者になっていたと思い込んでいた真はその声に心底驚いた。けれど、確かに声は真の耳に届き、何かの影が視界の隅を横切ったかと思うと、冷蔵庫の陰から這い出してきたのは紛うことなき真の母だった。
「母さん!!」
 先程まで断続的に続いていた吐き気も忘れて慌てて駆け寄る。長い黒髪に目鼻立ちのはっきりした相貌が自慢の母は死人のように青褪め、震える手を必死で真に伸ばそうとしていた。その腹には大きな傷がある。可愛らしいネコのイラストがプリントされたピンク色のエプロンをじっとりと濡らす赤黒い染み。もう助からない、と真の直感が告げていた。今までただの一度も人間の死などに直面したことがない少年でもわかるほど、母の息は絶え絶えだった。彼女の喉の奥がひゅっと隙間風のように鳴る度に真の心が寒々と冷える。握りしめた母の手は驚くほど冷たく、骨と皮だけしかなかった。皮膚の微細な皺の一本一本までに鮮血と死が染み込み、赤く、黒く、濡れていた。
「真、真、無事だったのね……よかった本当に…」
「母さ、俺……!」
「わた、しがいつも、言っていたこと、おぼてる…わね…?」
「うん、わかってる。わかってるから」
「橋向こう、の路地を入った、小さな神社の、お社の…」
「わかってるよ。裏手に回ったら、壁に向かって真っすぐ。そうしたら別の神社に通り抜けるから」
「大門をくぐって……玉浪亭を、目指しなさい…そこなら…きっと…助けて、もらえる…」
「わかった。わかったから、もう喋らないで…!」
 あからさまに母の命の炎は燃え尽きようとしていた。唇の動きは緩慢になり、横倒しになった身体はどんどんと氷のように冷えていく。最早瞼を動かす気力すらないかと思われたが、一瞬まなこがくっと見開かれる。
 そのとき、真は悟った。嗚呼、母は死ぬのだ、と。
 果たしてその通り、母は最期に微かな声で息子の名を呼ぶと速やかに眠るように息絶えた。
 真はしばらくそこにじっとしていた。
 母親の骸を抱いたまま、どれほどの時間が経ったのだろう。実際は数分の出来事に過ぎなかったとしても真には永遠のように感じられていた。そっと彼女の身体を横たえる。魂が抜け、血流が止まり、母であって母ではなくなったものを真はこれから見捨てなければならない。それは母に限った話ではなかった。部屋中に散らばって原型をとどめない肉塊となった父も、物心ついてから十数年暮らしてきた我が家も、友人も、学校も、愛すべき日常もすべて。真は置いていく。弔いもしない。振り返りもしない。ただ、己が生きるためにすべての情にふたをして、今はただ逃げる。
 放り投げた鞄から財布とスマートフォンだけを取り出して、玄関へと向かう。スニーカーに足を入れ、玄関を閉めて、鍵をかける。すっと息を吸い込んで走り出す。ただの一度も背後は見ないと決めていた。ただの一度も思い出すまいと誓っていた。母の約束を守るそのときまで。日常から急転直下の暗転の中を少年は生きるためにがむしゃらに走った。

 その日からおそらく揚上真には消せない死臭が染み付いている。その臭いを辿り、地の果てまで追われることになった少年はなんの因果に導かれてか、やがて「ここ」へと辿り着いた。真実、世界の果ての果て。標高六千メートルを超す雪と氷の真白に閉ざされた魔術の核心、カルデアへ。

「おい…おいこら起きねぇか!」
「ふぁ!?」
 ぺしぺしと優しく頬を叩かれて急激に意識が覚醒する。開いた視界には見慣れた青い蛍光灯の光、空調が吐き出す風は前髪を一定の頻度で揺らし、やがて焦点があったその先には呆れた顔をしたキャスターの姿があった。
「こんなとこで寝るんじゃねぇよ」
 クラスはキャスター。真名をクー・フーリン。ケルトの伝説における最も偉大な英雄はなぜか此度の現界において槍を捨て、杖持つ賢人ドルイドとして現れた。本人も些かその事実に困惑気味のようだったが、とはいえ知恵で人々を導く英霊としての力は劣るどころかより顕著で、真にとって大いに心強い存在となっていた。
 屈みこんでこちらを見つめる彼の真紅の瞳をぼんやりと見つめるうちにようやく前後の記憶が薄らと蘇る。ここはカルデア。人理継続保障機関フィニス・カルデアの本部にして世界の、歴史の、人類の最後の砦。日常から遠く遠く離れた最果ての地。その廊下に据え置かれたベンチの上で真はすっかり寝こけてしまっていたらしかった。
「ごめん。召喚ルームから出たら急に眠くなって…」
「ふうん。それで、こいつが新しい英霊か?」
「そうだよ。メドゥーサだって、ランサーの」
 彼の目線が指し示す辺りを見下ろせば黒いフードを目深にかぶった少女が真の腕にしっかりとしがみついて健やかな寝息をたてていた。ゴルゴン三姉妹の末妹、魔眼キュベレイの持ち主、恐るる女神メドゥーサ。彼女は本来であればライダークラスでの現界がデフォルトなのだが、また何かイレギュラーが発生したのだろう。まるで姉たちのように小さく可愛らしい姿で受肉した彼女はその姿に相応しく無垢な寝顔を無防備にさらしていた。
「とりあえず嬢ちゃんを部屋に運んでやるのが先か」
「そうだね…っと」
 少女の身体を抱きあげて、一緒に立ち上がれば思っていたよりも随分重い。こんな幼い姿のどこにそんな重量が?と首を捻れば、その答えを指し示すかのようにズガン!と勢いよく鎖の付いた鎌が床へと落ちて肝を冷やす羽目になる。
「怖っ!」
「武器の具象化か…まだ警戒してんだろ」
「その割にはよく寝てるけど…」
「そりゃまあ女神だからな」
 言うこと成すこと矛盾だらけだろうよ、と格言めいたことを呟いてクー・フーリンが鎌を拾ってくれる。じゃらりと鳴る鉄の音、きらめく白刃に思わず身がすくみそうになるのを必死に誤魔化す。その抜き身の刃が真を傷付けることは絶対にない。なぜなら、真は彼らのマスターだから。この世界における最後の一人。世界を救う最後の可能性。ゆえに。
「おい、」
 それとなく鎌を真から遠ざけながら唐突にクー・フーリンが空いている方の手を伸ばしてくる。凶器ではなく杖を握る手は真の頭を乱暴に撫で、ぐらつく視界の中で目を見開けば彼は真剣な色をその瞳に帯びていた。
「無理はするんじゃねえぞ。アンタはマスターだ」
「うん」
「世界の、じゃねえ。俺たちの、だ。そこを努々忘れるな」
 そうすりゃお前さんは無敵よ。そう告げられた言葉は意外で、そう笑った顔はどこか好戦的で楽天的で不敵で。面食らってしまった真は数秒言葉を失ったあと、やはりゆるゆると笑みを浮かべるとうんと頷いた。
 この世界を救っても真には帰る場所などない。
 そんなものとっくに失われて久しく、それはおそらく世界中の誰のせいでもないけれど、それでも真は世界を救いたいと思う。それがこの手でできるのならば。それがこの手でできる唯一であるならば。己をマスターと呼ぶその声に、応えてやりたいと思うのだ。たとえその果てに何が待っていたとしても。たとえ、それが真にとって追い詰められた末の仕方のない終着点、そして決して先の見えない袋小路だったとしても。


2017.03.25

新しい記事
古い記事

return to page top