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FGO 十番目の愛弟子

-朱花、朱花。こっちへいらっしゃい。

 どこからか己の名を呼ぶ声が聞こえた気がして、藤間朱花(とうま しゅか)は庭いじりの手をとめた。
 軍手をはめた手の甲で鼻の頭についた土を拭う。ボリュームのある赤茶けた色の髪は飾り気のない紐でどうにかひとまとめにされ、ぱっちりと開いた瞳はパンケーキにたっぷりと注ぐ蜂蜜の色をしていた。年の頃は十五、六か。少女と呼んで差支えない頃合いの彼女は虚空を見つめ、じっと耳を澄ませる。南から春の訪れを告げる風がゆったりと雲を流し、菩提樹の梢はさわさわとざわめいていた。黄色や白の蝶々たちは花から花へと自在に飛び回り、冬眠から目覚めた蜥蜴は苔むした煉瓦の上で大口を開く。この世界のすべてが祝福される季節。白い太陽の輝きに目を細め、先程のそれが聞き間違いではないことを確信した朱花は手にしたシャベルを放り出した。
 それは空気を震わせて届く類の「音」ではないけれど、ほぼ音声と同等であるがゆえに便宜上「声」と呼び習わす。「魔術師たちの声なき声」または「魂の反響」。そう、この声の主は魔術師だ。高名にして、けれども名声も地位も求めずにひっそりと穏やかに暮らすことだけを切望した敬愛すべき魔女。
「お師匠様」
 彼女は全身を覆い尽くす黒いローブをまとい、黒いフードをかぶり、春の陽だまりにそっと置かれた安楽椅子の上でまるで沈黙を愛おしむように静かに呼吸を繰り返していた。背もたれにとまっていた小鳥が少女の気配に驚いて飛び立つ。芽吹き始めたばかりの下草を踏みならしながら近寄れば、伺えぬ影の下で彼女は笑みをたたえてみせたようだった。
「ああ、朱花。よく来たこと」
「はい、お師匠様」
「こちらへ」
 招かれるままにその手を取る。骨に張り付いた皮膚は深い皺が幾重にも刻まれ、どこか乾いた樹皮の手触りを思わせた。ひんやりとした体温も枯れ枝のように華奢な手首も、まさしく老婆のそれであるのに、唇は艶やかな血色を発し、まるで少女のように瑞々しかった。
 彼女には二つの時が流れているのだと朱花は考える。一つは人間が、生きとし生けるものすべてが逆らえぬ道理の時。そしてもう一つは彼女のような世界の理を解する者たちだけが到達できる常春の世、ティルナノグの時だ。
「花を植えていたのね、朱花」
「はい。ペチュニアと…あとヒマワリも」
「素敵ね。きっと素敵な花が咲くわ、私の可愛い十番目の弟子」
 そう言って魔女はそっと少女の手をさすった。
 彼女には十人の愛弟子がいる。最も優秀な一番目から末席にあたる十番目まで、彼女は等しく慈愛と教育を施していた。
 だから、朱花は。
 魔術の素養の欠片も伺えない少女は殊更己を卑下することなく、今日まで健やかに過ごすことができていた。魔術はできなくとも種を植えることは得意だった。花の名前も虫の名前も誰よりも多く知っていた。薪割りはいつの間にかふらつかずに斧を振るえるようになり、鍋の焦げを落とすのだってお手のものだ。編み物も刺繍も手先を使うことはなんでも人一倍上手にこなす少女はただ一つ魔術だけが扱えなかった。
 魔女の弟子においてこれは異例のことだった。
 魔術師ではない者が本来魔女の館にいることは許されない。しかし、天涯孤独の少女にはここをおいて他に行くべき場所もない。結局のところ、朱花は彼女の優しさに甘えていた。すべてを愛し、すべてを許す魔女の元でただぬくぬくと柔らかいだけの日々を送り続けていた。
「そうだわ。大事な話があったの」
 突然彼女が何かを思い出したように朱花の手をぽんと撫でる。魔女の大事な話はいつものことで、とりたてて身構えることもなく少女は彼女の次の言葉を待った。七番目の姉弟子のローブに春の花を刺繍する提案だろうか。それとも庭に鈴なりに実ったイチゴをつんでジャムを作ろうか、それともジュースにしようか悩んでいるのだろうか。
 おとなしく座して待っていた朱花は、けれど次の瞬間自分の耳を疑った。彼女の口から放たれたのはまったくもって思いも寄らぬ言葉だったから。ぽかんと間抜けに口を開けてどれほど経った頃だろう。魔女は再度同じ言葉を繰り返す。常と変わらぬ平然の声で。
「今しばらくののち、この世界は滅びます」
「………え?」
「次の春を迎えることはもうないでしょう。いえ、ないと断言しましょう。何しろこの私の予言ですから」
「お、師匠様…冗談は…」
 やめてください、と続けようとして口を噤んだ。それはローブの下の魔女の瞳が恐ろしいと感じるほど黒々と輝いていたからでは決してない。師が、偉大なる魔女が冗談でもそんなことを口走る人物ではないと思い直したからだ。
「朱花、私の可愛い十番弟子。恐れることはありません。この世界は救うことができます。救うことができるように、できています」
「…それは、どういう…?」
「あなたが救うのです、朱花。それがあなたにできる唯一。そして、あなたの唯一こそが我々の希望」
 魔女の台詞を朱花はすぐに理解することができなかった。なぜ、私が。脳内をぐるぐると狂った猪のようにその言葉が走り回る。なぜ、誰よりも勇敢で冷静な一番目の兄弟子ではないのか。なぜ、誰よりも美しい魔術を描く四番目の姉弟子ではないのか。なぜ、私なのか。疑問は幾筋も駆け抜け、いずれも堂々巡りをして、終ぞ口から発せられることはなかった。混乱を極める少女に魔女の声が降り注ぐ。私の可愛い十番弟子。何度となく聞いたその音が不思議と少女の心を落ち着けた。魔術師見習いとも呼べぬただの少女は、それでも次の魔女の言葉を解する。だからこそ、素養がないとは言い切れぬ。まだ芽吹く前の大樹と、魔女は言う。
「私の可愛い弟子たちは最早私の力を素直に受け入れることができぬほど、立派に成長していたのです。だから、私の力のすべてを受け入れ、守られることができるのはあなただけ。朱花、あなただけがこれから訪れる災厄を退ける魔女の魔法を受け取ることができる」
 魔女の声は濡れていた。凛と気高く響き渡りながらも、この世の不条理を恨み、弟子に与える艱難辛苦を憂い、言い知れぬ静かな憤怒に満ちていた。少女はこんなにも穏やかな怒りを初めて見た。ただ、ただ、彼女は怒り、泣いていた。今にも世界の命運などかなぐり捨て、十人の弟子たちを順繰りに抱きしめ、キスをしたいと考えていた。
 だからこそ、少女は立ち上がる他の選択肢など結局思いもしなかったのだ。
 柔らかな若草を踏みしめ、背筋を伸ばしてしっかりと立つ。彼女が教えてくれた正式な礼をし、できるだけ厳かな声が出るように胸を張る。
「魔女マーヤの十番弟子、藤間朱花。その任、承りました」
「…朱花」
「任せてください、お師匠様。私、結構頑丈なんですよ。兄さんや姉さんの分まで頑張って、それから」
 それから、きっとここに戻ってきますからね。
 その言葉は嗚咽交じりの九人の兄弟弟子たちにもみくちゃにされてかき消えた。頭を撫でられ、抱きしめられ、ぐらぐらと揺れる視界の中、黒いローブの端が風にはためく。その奥に見えるまなこの色を、煤けた灰色の髪を、まぶたの裏に焼き付けると、少女はゆっくりと目を閉じた。
 やがて来るという世界の崩壊など何一つ感じさせない、ある穏やかに晴れた春の日のことだった。


2017.03.03

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