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蝶が死んだ。

 蝶が死んだ。
 黒と青の斑の蝶だ。硝子張りの室内で一匹だけで飼っていたから、特に子孫を次に残すということもしなかった。処女のまま死んだ柔い命をそっと掌で掬う。蝶が死ぬのを待っていたかのように、白い花を付けていた橘の木も枯れた。彼女の次代を残す宿り木として与えていたわけではない。単純にその芳しい香りが、男は好きだったのだ。
 掌にある蝶はまるでその存在が初めからないかのように、軽い。男の微かな呼吸で容易く吹き飛んでしまうほどに、易い亡骸だ。鱗粉がごそりと落ちて、男の掌の筋にいやらしく入り込んだ。黒と青が混ざり合って、出来上がる混沌の色彩。チリチリと眼の裏が焼けるような色に眩暈を覚えつつも、男は露骨な欲望を感じていた。
 喉が張り付いたように渇く。一滴しかない甘露と知りつつも、飲み干さずにはいられない、その衝動。否、衝動と言うにも相応しくない。男の成すべきことは最初から決定していた。それを、男のあるまじき意識が先延ばしにしていただけのこと。
 男は大きく口を開けた。白い歯列、赤い舌、真っ暗に開いた咽喉。ゆっくりと腕を持ち上げれば、黒と青の斑の蝶は空気の動きによって、ふわりと羽根を散らせた。まるで最後の羽ばたきのように。そして、そのまま男の昏い口腔へと消える。
 くしゃ、と空洞の魂を噛み締めた軽い音。
 くしゃ、くしゃ、と数度噛んで、咀嚼した。満足感は何一つ得られなかった。ただ、軽くて空しくて、甘い痛みだけが胸をいっぱいにした。男は改めて掌を見下ろした。黒と青の鱗粉で汚れた、皮膚。眺めれば眺めるほど、それは歪んで、空にも雲にも橘にも石楠花にも見えた。
 男は掌に残った鱗粉を舐め取ろうと、真っ赤な舌を伸ばした。唇を近づけ、鼻先で青臭い生き物の気配を感じた瞬間、まるで刺すような痛みが、胸を貫いた。
 嗚呼。
 男は小さく呻く。蝶の腸には毒があったのだ。子さえ残せぬ恨みを抱いて死んだ小さな命の小さな復讐。対価は男の命。
 男は胸を掻き毟り、喉を圧迫するような苦しみに強く唇を噛んで倒れた。とさっと床が鳴る。身体中が焼けるように熱かった。臓物の全てが悲鳴をあげているかのように痛い。死とは果たしてこのようなものなのか、と理解した瞬間に背筋が震えた。黒と青の歪みを見ながらも、透明だった視界が白く濁っていく。ゆら、ゆら、ゆら、と。茫洋とした世界で無数の蝶が飛んでいた。黒と青の斑の蝶。
 嗚呼、あれは彼女と自分の子らだ、と直感的に男は思った。

 空き部屋となったアパートの一室。がらんとした部屋の中には、枯れた橘の木が植わった鉢と一匹の蜘蛛の死骸があった。



部活動で書いたもの。
「幸せにはなりたくない」の原型です。

初出不明。

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