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鳥籠の猫

 腐った吐息を吐き出す都会にオアシスなど在りはしない。それは澪川月読(みのかわつくよみ)の持論である。雑踏と二酸化炭素にまみれた路地を行く。どんよりとした曇天とスモッグが空を覆い隠し、コンクリートと空はまるで切り離されてしまったようだ。今日は夕陽も拝めぬままに、夜が訪れるのだろうと思うと、その予想は想像以上に月読を陰鬱な気分にさせた。アイボリー色をした薄いニットのハイネックになった襟元を引っ張る。それで世界が如何変わるという訳ではないが、月読の癖はこれ以上直しようもないし、直す気もない。今年恐らく二十四という特筆すべきでもない歳を迎える青年の顔立ちは酷く凡庸で、けれど、その妙に細かな褐色の髪と褐色の瞳と薄い唇が形良く並んでいる。物書きという因果な商売を生業にしているせいか、必要以上に紫外線に当たらない肌は黄色人種そのものの色をしていた。脚が長い。履いた革靴は音もたてずに剥がれかけた煉瓦の歩道の上を一歩ずつ進む。そうして辿り着くのは、常に香水と汚水と酒の匂いの弛まぬ賑やかな大通りから二本、路地裏に入った狭い店だった。掲げられた看板には『鹿苑寺』と冗談めかしてあるが、実情はただの古書店である。煤けたビルの隙間に今にも押し潰されそうに建っているこの店は、恐らく誰が見ても流行ってはいない。けれど、それ故に饐えたインクと古い紙の匂いが支配する、手狭な空間を月読は密かに気に入っていた。何しろ店主は白髪の老人で、何時も寝ているのか起きているのか解らないような、見えているのか見えていないのか解らないような白濁した瞳を茫洋と何処とも限らず向けては、古書店の最も奥まったところでじっと丸まっているだけなのだ。まるで蝉の幼虫のようだと月読は思うが、しかし彼を嫌っている訳ではない。白髪の老人は月読が、否、他にどんな客がいようとも、一切気にしない。無論、世間話を持ち掛ける事もないし、商売に熱心な訳でもない。それが酷く月読には心地良い。古い壁時計の音しかない空間で、古書に埋もれる。これ程の幸福は、澪川月読にとってはない。そしてまた酷く都合の良い事に、『鹿苑寺』の営業時間は夕暮れ時から深夜にかけてだった。午前中に行っても、拒絶するようにぴっちりとシャッターは閉じられている。老体が深夜営業とは不思議だったが、しかし日差しを厭い、昼夜逆転生活を送る月読にとっては謎よりも利便の方が勝った。
 日が暮れる。よろよろと太陽の光を通していた雲が消える。夜の闇に負けたのだ。路地裏にも心ばかりの薄暗い街灯が灯る。青白い蛍光灯がアスファルトを照らし、ビルの狭間の古書店には明かりが灯っている。何時もならそのまま一直線に店へと足を踏み入れる月読はふと留まった。古書店の隣。此方もビルに埋もれるように、古書店と互いに肩を寄せ合うように小さな店が構えてある。古臭いトタン屋根に壁。掲げられた看板には『篁愛玩動物店』とある。その名の通り、要するに横文字で言えばペットショップを篁何某は営んでいる。しかし、月読は愛玩動物というものに一切興味はないし、今まで足を踏み入れた事さえない。時折、店先に竹細工の鳥籠に小奇麗な小鳥が入っているのを見たり、鉄檻の中で動き回る巨大な鼠を見たりした事があったが、それらに手を出して愛でようなどという甲斐性はない。けれど、一体今日は如何した事だろうか。月読は引き寄せられるように、ふらりと獣臭い店先へと近付いていった。埃と油で汚れた硝子戸。換気の為か開かれた両開きのそれの隙間から、店内が伺える。中心には熱帯魚や金魚の入った水槽。壁に沿うように幾つも並べられたケージ。獣特有の臭気が月読の鼻をつく。薄暗い店内を照らすのは、丸い傘の付いた裸電球だけで、とてもではないが最奥までは窺い知る事が出来ない。しかし、それも構わなかった。月読が求めていたものは最奥に潜む深窓の令嬢ではなかったのだ。それは暗闇の一室で艶美に笑む遊女のようだとでも言おうか。否、美しく着飾り、たっぷりとその髪に香水を沁み込ませた高級娼婦とも言えるかもしれない。《彼女》は月読の目の前の鳥籠に、実に礼儀正しく鎮座していた。天鵝絨のような毛皮は深い深い明け方の空の色。ピンと立った三角形の耳は如何しようもなく正面を向き、硝子球に似た大きな瞳は晴れ渡る蒼穹の色をしていた。無駄なパーツなど一つもない、完璧に整えられた獣の造形。揃えられた前足からはほんのりと華奢な白い爪が見え、丸い形の足は柔らかそうだった。つと形の良い背骨を辿り、すとりと落ちた位置から優雅に伸びる長い尾。
 何もかもが。何もかもが奇跡のように美しい猫が、鉄製の鳥籠の中にまるで人形のように大人しく納まっているのだった。錯覚か、月読の方を見つめて《彼女》は微動だにしない。髭と鼻と全ての感覚をもって《彼女》は月読を観察しているかのようだった。
そして、また月読も《彼女》に見惚れていた。猫がこんなに美しい生き物だとは考えた事もなかった。今までの人生において、彼にとって猫とは風景の一部か、悪く言えば風景を乱す不埒な流動物に過ぎなかったのに、それがどうだろう。目の前にいる天鵝絨の毛皮を持つ、濃紺の不思議な色合いを持つ猫はこの世のものではないかのように美しい。天の御遣いだと言われれば、月読は鼻で笑おう。けれど、悪魔の化身なのだと言われれば、すぐに納得出来そうだった。元来、猫は九の魂を持つと言われるが、しかしてそれすら考え込んでしまいそうな魔性の魅力が、《彼女》には、鳥籠の中の猫にはあった。毛皮と違い、鮮やかな空色の瞳をじっと見つめる。吸い込まれそうに不可思議な色合いだった。濡れた宝玉が、月読を映し出す。
 と、急に月読と猫だけの空間に赤ら顔の中年男性が割り込んだ。
 思わず驚いた月読が彼を見つめると、不機嫌そうな顔をした太鼓腹の男性は顎で鳥籠の猫を指し示した。正確には月読の前に立ち塞がった彼の体格が邪魔をして猫を伺うことが出来なかったので、彼は彼自身の後ろを指し示した事になる。その仕草はきっと、買うのか、といった疑問のジェスチャーだったのだろう。
「幾らだ。」
 月読が訊く。男は人差し指を一本掲げた。節くれだち泥で汚れた太い指で示されたその数が、果たして十万なのか一万なのか千円なのか。解らず途方に暮れると、男は黒いゴム製のエプロンのポケットからくしゃくしゃになった何かに紙切れとボールペンを取り出し、そこに何かを書き殴った。そして、提示された白い紙には青い文字で【10,000-】とだけある。どうやら美しい《彼女》の値段は一万円らしい。コールガールですら、数千円で身体を売るこのご時世に中々の高給取りではなかろうか。月読はジーンズのポケットから財布を取り出す。何となく貰ってしまったレシートに混じって零れた一万円札。今日、古書を買おうと思っていた代金だ。名残惜しいと思う間もなく引っ手繰られるようにして、伸びてきた太い指先が紙幣を取っていった。確かめる事もしないで、男はそれをエプロンのポケットにぐしゃぐしゃにして突っ込み、片手で鉄製の鳥籠と《彼女》を持ち上げると月読に手渡した。
 どうやら彼女は鳥籠込でこのお値段らしい。反射的に受け取る。意外と鉄と美しい猫の組み合わせは重かった。ぐらりと揺れる不安定な鳥籠の中、けれど《彼女》は慌てた様子もなく、澄まして新たな自分の買い主を見上げていた。百カラットのブルーダイヤモンドでも敵わぬ、生きて濡れた宝石が月読を見つめる。しかし、その輝きに虜になっている暇も与えられず、月読は太鼓腹の男に押し出されるように店の外に追いやられてしまった。眼と鼻の先で拒絶するようにザララララとシャッターが閉まる。ピシャリとコンクリートと激突した鉄の帯の悲鳴は痛く、月読は思わず鳥籠の中の《彼女》を見下ろした。《彼女》は無言だ。ただ、何をするでもなく、美しい猫と鳥籠はこの瞬間に月読のものとなった。

 月読の住居は極在り来りなマンションの極在り来りな六階の極在り来りな2LDKである。鉄製のドアを開けるまでの道程が、実に遠く感じたのはきっと右手に下げた鳥籠と猫のせいだろう。最早、鳥籠と一体とばかりに《彼女》は始終綺麗な姿勢で鳥籠に納まっていた。暗い部屋の明かりを灯す。極度な光源を嫌う月読の性質のおかげで、間接照明のみのリビングルームの脚の短いテーブルの上に、とりあえずは鳥籠を降ろす。一息ついて額の汗を拭った。もう秋も深まる季節だというのに、思いの他良い運動をしてしまったようだ。ふらりと運動不足の身体を引き摺って、キッチンへ向かう。作りつけの小さなキッチンで、小さな冷蔵庫を開く。中身は常に乏しく、そういえば猫の餌も買って来なければなと月読は思った。【篁愛玩動物店】で《彼女》と一緒に購入してくれば良かったのだろうが、そんな事を考える間もなく追い出されてしまったのだから仕方がない。これまで動物を飼うなどという行為をした事がないが、何処かで聞き齧った知識を寄せ集めて、冷蔵庫の端にあった牛乳のパックを手に取る。期限は切れていない。次いで、鮮やかな緑色をした小鍋を棚から取り出す。それをコンロにかけると牛乳を注ぎ、弱火で軽く温めた。仄かに湯気のあがる白色の液体をスープ皿に移し変える。それを手に《彼女》のところへ戻ると、やはり、先程と寸分違わぬ姿勢で《彼女》は鳥籠の中で綺麗に静止していた。月読は一先ず皿をテーブルに置くと、鳥籠をフローリングの床の上に降ろした。そして、外側から掛かっていた掛け金を開ける。かちゃりと金属の音がして、猫一匹通れそうな分だけ鳥籠の柵がなくなった。月読はそろそろと目線を低くして鳥籠の中を覗き込む。間近で見れば見る程に艶やかさを増す毛皮と蒼穹の瞳が月読を見ている。しかし、《彼女》はその開かれた外の世界へと足を踏み出そうとはしなかった。その可憐に柔らかな肉付きの足を踏み出そうとはしない。《彼女》はそこが自分の唯一の世界だと言わんばかりに、月読を見つめているだけだった。孤高の雌豹か、触れれば焼き付く蒼色の炎か。《彼女》は《彼女》の領域を出る意志はないようだった。鳥籠を愛している訳ではないのだろう。恐らく鳥籠しか知らぬのだ。《彼女》の世界は鳥籠にしかない。閉じられた鉄の檻の中。酷く矮小な世界に押し込められた人形が知るのは、やはり矮小なものでしかない。
 酷く神妙な気分になって月読はドアの隙間から温めた牛乳の入った小皿を差し入れた。ひくりと鼻を動かした猫は、しばし警戒するように嗅覚を働かせた後、ゆっくりと筋肉を動かして蹲ると、もう一度鼻先を動かしてから、ピンク色の舌先を伸ばして牛乳を舐めた。その光景に。思わず月読はひくりと喉を鳴らして、指先を握った。よく解らない、興奮か感動か恐怖か、よく解らない感情が背筋を駆け抜けて、脳内を揺らす。何が、何かは解らないが、しかしその光景は月読にとって衝撃であった。猫が当然のように生きる為に食事を摂る様。それが、何事か衝撃だったのだ。猫があまりにも美しいからか、その場所が鳥籠の内部という異質さの為か、それとも伸びた舌があまりにも綺麗な内臓の色をしていたからか。一種眩暈のような感覚に襲われて、月読は額を押さえた。
月読は結局、猫が小皿をすっかり空にするまで《彼女》の前でじっとしていた。そして、空になってしまった小皿を取り出すと、テーブルの上にそれを置き、立ち上がる。《彼女》は食事を終えても、やはり鳥籠から逃れようとはしなかった。月読は鳥籠ごと《彼女》を抱えると、隣室へと静かに足を運ぶ。隣室は書斎兼寝室であり、元居た部屋よりもより一層照明が落とされている。その端のサイドテーブルにゆっくりと鳥籠を置くと、月読は満足したように自分のデスクの照明を点けた。デスクとベッドは対になっているから、月読から《彼女》を伺う事は出来ないけれど、確かに生き物の気配が背後にする。そんな経験は今までした事がなかったが、思ったよりはそんなに悪くもない。月読はデスクにつくと、原稿用紙とシャープペンシルを取り上げた。ぐしゃぐしゃになった用紙の成れの果てと崩れそうに積みあがった資料がデスクに幅を取り、橙の照明が真っ白な原稿用紙の升目を照らし出す。煮詰まった執筆も進むかもしれなかった。主人公が学生時代の恋人の元を十数年ぶりに訪れてその変化に驚くという場面だ。
 月読は升目に文字を走らせた。

何時間経ったのだろうか。頭の中に浮かぶ文章を書き付けるという行為の繰り返しは、時間感覚を茫洋としたものにさせがちだ。ふと頭を上げて、椅子に座ったまま首を捻ると壁に掛かった時計を見遣る。薄暗い灯りの中で時計の短針は午前二時を指していた。思いの他、集中していたようで、現実に自分を押し戻すかのように月読は頭を振るう。その拍子にちらりと鳥籠が目に入った。鉄製の頑強な檻の中、闇の色合いをした猫は先程と同じように鳥籠の中で大人しく鎮座していた。否。否、それは違った。
 猫は、笑っていた。
 “猫が笑う”などとかの奇才ルイス・キャロルの作品でしかお目にかかれない表現だと思っていたが、四方や自らの身に実地で降りかかってくる事実だと誰が予想しただろうか。しかし、それは明らかに、紛う事無く、可笑しな事実だった。猫が笑う。ニヤリといった風情で眼を細めて、唇の端を吊り上げて、笑っていた。月読は俄かには信じられぬ光景に数度瞬きをし、そして眼を擦った。夢か幻ならこれで目覚める。と、果たしてそれは夢か幻だったのか、次に月読がじっくりと猫を見た時には《彼女》は何時も通り澄ました表情で鳥籠の中に納まっていた。蒼穹の瞳はまん丸のまま。真っ直ぐに月読を見つめるようにして、鼻先をひくりと動かす。只の、猫だった。鳥籠に囚われた、美しく哀れな飼い猫。
 月読は眉間を揉んだ。どうやら想像以上に疲れているらしい。確かに今日は(否。すでに昨日か)重たい荷物を運んだ事だし、升目を埋める作業にも没頭してしまった。月読は椅子から立ち上がる。軋む骨を宥めながら、書棚からブランデーを取り出した。僅かに口に含むと、そのまますぐ傍の寝台へと転がった。うつ伏せになった月読の瞳にやはり自分をじっと見つめる美しい猫の姿が眼に入った。冷たい鉄の柵越しに温かな毛皮を持つ獣が一声もあげずに人形のように座っている。月読は、《彼女》に触れたい、と思う。そして、何時しか《彼女》の名前を考えながら、眠りについていた。

 月読は目を覚ました。常の癖ですぐ手を伸ばしてカーテンを引き開ける。だが、差し込んできたのは午後の黄色い太陽ではなくて、透き通るように冷たい満月の明りだった。おや、と眼を擦りながら、月読は身体を起こした。ブランデーを煽った夜は何時も日が高く登り、それが傾く頃まで目覚めはしないのに。恐らくまだ眠りについてから二時間と経っていないに違いない。何故、自分がこんな時間に眼を覚ましたのか解らずに、月読は月光に照らされながらぼんやりと室内を見渡した。少ない調度品。小さな箪笥にルームランプ。足の長い大きなラグにすぐ傍のサイドテーブル、鳥籠と、猫が。
 いない。
 いなくなっていた。あの美しい毛皮と美しい瞳をした猫が冷たい鳥籠から消えている。それはまるで魔法のように、確かに月読は籠の鍵を掛けはしなかったけれど。だとしたらこの部屋の中にいるのだろうか。自分の眠る寝台。床。書棚にデスク。そして、椅子に。椅子に、月読はこの世に生まれて初めて幻想の生き物を見た。それは、やはりまるで魔法のように唐突にその場所に存在していた。
 薄闇に絵画のように浮かび上がるのは、全裸の芳醇な美女。
漆黒の髪。そうそれは髪だ。例えようもなく暗闇の色が丸い頭を覆い、首筋へと流れ、ゆるやかな直線となって肩を越えるまで伸びている。白磁の肌を得た顔にきりと整った眉が引かれ、その下にある眼窩にはあまりにも美しい二つの青色の宝玉が嵌め込まれている。少しだけ高い鼻梁。肉感的な唇は嘘のように赤く、金色の複雑な細工が施された煙管の吸い口を艶めかしく咥えていた。骨と筋肉と血管の筋道が判る首を通れば、胸には豊満な丘陵を抱え、ゆらりと括れた腰骨からは再び豊かな肉に包まれた尻があり、そして脚が伸びていた。惜しげなく晒された素肌に何を隠すまでもなく、彼女は月読が眠る前まで座っていた椅子へと深く身を埋め、気だるげに金色の煙管から煙を食っていた。その視線は明後日の方向へと向けられて、月読に気付いているのか、それとも気にしていないだけなのか。それすら解らない。月読はしばし、彼女に見惚れた。欲望は感じなかった。ただ、美しすぎる彫像品を見るかのようにその美貌に釘付けとなった。目の前にいるのは、美の最高傑作だ。彼女以上のものはこの世にないし、いるとすればそれは神か悪魔だろう。否、ひょっとしたら彼女自身が神か悪魔なのかもしれぬ。その澄み切った美貌。刻まれた眼窩にある蒼穹の色をした瞳が、ふと、月読を見た。心臓が、跳ねる。
「あ…。」
 声を出したのは月読だった。間の抜けた妙に高い声に眼を細めて忍び笑いをしたのは美女の方だ。その声に急に我に返った月読は、さっと顔を赤らめる。一糸纏わぬ姿で同じ室内で、同じ空気を吸っているのは決して人形ではない。生きた、人、だ。無理矢理、彼女から視線を引き剥がしながら、月読はぎゅと拳を握る。掌に汗をかいていた。ベッドカバーの紺色だけを見つめて、ちらりと彼女を伺うと、美しい人は興味深そうに月読を眺めていた。弧を描いた唇は暗闇でもあまりに目立つ。男は乾いた喉を鳴らした。
「きみ、は…。」
口内が乾いていた。同時に襲う眩暈は煙管の煙に酔ったのか。
「君は、誰だ…?」
 搾り出した声に返ってくるのは無言。不安になった月読が落としていた視線をそろそろと上げると、彼女は別段美味くもなさそうに煙管から煙を食っているところだった。紫煙を飲み込み、そして吐き出す。にやりと笑った瞳が月読を見る。
 「お前が買ったのではないか。俺を。紙切れ一枚で。」
 彼女が、否、《彼女》がそう言った。その声は男のようでもあり、女のようでもあった。酷く心地良く鼓膜を打つ、硬質な響きを持った音色だ。は、としたように月読は《彼女》を見た。てっきり完璧に女だと思っていた《彼女》の身体には少々余計なパーツが付いている。一目見た時から奇怪だと思っていた。《彼女》は月読が今まで見た事のあるどんな女とも違う。一つの身体に男と女。そんな現象は俄かに信じがたかったが、しかし、信じられぬというのなら目の前の《彼女》はなんだと言うのだろう。そして、《彼女》の言葉。「買った」と。「紙切れ一枚で」と《彼女》は言った。鳥籠に入れられた美しい猫を月読が今日、正に紙切れで買った事を月読とあの無愛想な店主以外に一体誰が知っていると言うだろう。最早、疑う余地もない。月読は確信していた。彼女は《彼女》であり、彼は《彼》だ。
 月読は唇を閉じた。急にあの鳥籠の猫を《彼女》の言う通り「紙切れ一枚で」買い上げた事が、酷く愚かな事に思えてきたのだ。思えばあの時少なからず自分は浮かれていた。たった一万円でこの美しい生き物が自分の手に入るのかと傲慢に思い込んでいた。高がこの国が紙切れに著名人を印刷して仮初めの威厳を匂わせているだけに過ぎない紙で。買い取ったのは、どんなにも値段の付けられぬ、無類の宝石だ。
「す、すまない…。」
「何故、謝る?」
「いや…怒っている、のかと…。」
「怒る?何故?むしろ俺はお前に感謝している。何しろあの親父、俺の扱いが手荒なんだ。飯は不味いし、店は臭いし、寒いし、何よりあの太鼓腹。許せん。俺の美意識に何もかもが反する。」
 そうべらべらと不満を猫は饒舌に語る。思わずその様をぽかんと見つめていた月読に気がついた猫が、口を止めた。そして、此方を見つめて妖艶に微笑む。それは慈愛の笑みとでも言った方が良いのか、まるで拙い子供を見遣る女の顔だった。何故かその表情に月読は再び頬を染めた。静かに煙管に口を付ける《彼女》の沈黙がキリキリと胃を圧迫し、慌てて口を開く。
「あ、の…な、名前は?あるのか?」
「忘れた。好きに呼べ。」
「……じゃあ、モリーナ。」
「…ふふん。マヌエル・プイグか。悪くないな。」
 月読の提案がお気に召したのか、《モリーナ》とブエノスアイレスの独房に入り映画を語る男の身体をした女の名を与えられた《彼女》はぷかりと紫煙を吐き出した。暗闇に落ちた沈黙はしかし今度は不快ではない。月読はゆたりと笑んで、煙管を手にするモリーナを見遣った。猫のようにしなやかな身体。豊満な女性の身体に男の象徴がある。その様は一種幻想的な雰囲気を醸し出し、気持ち悪いとは不思議と感じなかった。むしろ《彼女》は極端に美しい。その宵闇の髪も蒼天の瞳も陶磁器の肌も。香り立つ紫煙の甘い香りも何もかも。纏う全てが。
「じろじろと見るなよ。いやらしいな。」
 口角を吊り上げて、からかうようにモリーナが言った。気がつかないうちに凝視していたのだろう。月読はばっと視線を引き剥がすと自分の胸元に目線を落とした。実に失礼な事をしてしまったのではないだろうか。《彼女》の性別は二つに跨っているが、それはつまり男性である月読にとっては、結局異性だという事だ。俯いた。今更ながらに頬が染まる。唇を噛んで黙っていると、ぎ、と椅子が軋む音がした。顔を上げるのが怖くて、静かに硬直しているとふわりと甘い煙草の香りが香った。指先が、漆黒で染められた冷たく長い爪先が月読の頬を撫でる。頬を撫で、首筋を通り、頚動脈を撫でて、その切っ先は、まるで剣のように。ひたりと心臓の真上で止められた。思わず顔を上げれば、相変わらずその美貌以外一切纏わぬ《彼女》がにんまりとあの鳥籠の中で見せたように笑って、月読の目の前にいた。片膝を寝台へと乗り上げて、その美しい指を剣のように鋭くさせて月読に向けている。真っ赤な唇を真っ赤な舌がちろりと舐める。捕食者の、顔だった。
「な、にを…。」
「言っただろう。お前には感謝している、と。」
「…………。何が、望みだ。」
 目前に迫った死の予感に自然に身体が震える。じっとりと背中を濡らす冷たい汗と眩む視線にモリーナは全く気がつかないのか、それとも意に介さないのか、のんびりした様子で望みねぇ、と呟いた。考え込んだ様子は少しだけ幼くて、可愛らしかったが、しかし月読にはそんな事を考える余裕もない。ただ、目の前の生殺与奪の権を握る美しい人を恐怖を持って睨みつける事しか出来ない。眼を逸らせば、そのまま心臓を抉られていくような気がした。感謝している、と言う《彼女》の真意など月読には解らない。モリーナは、《彼女》は猫だ。猫の考えなど月読に解るはずがない。
「望みったって、俺は猫だ。猫の望みなんて高が知れてる。」
「しんぞう、か?」
「は。いらんよ、そんなもの。俺は、あの鳥籠と良い匂いの真綿の寝床と温かいミルクと少しの角砂糖とライ麦パンと茹でたササミとそれから…、」
何処が高が知れているのか、つらつらとモリーナが告げる品名は中々の贅沢品だった。半ば呆れて彼女の美しい顔を見遣ると、宙を見ていた視線が突然月読の方へと向けられる。吸い込まれそうな程に美麗な煌きを秘めた瞳が月読を捉える。蒼穹の色。遠い遠い空そのもの。嗚呼。呑まれると。月読は感じた。心臓の上にあった爪が肌を軽く引っ掻く。チリと焼けたような僅かな痛みに月読が顔を顰めると、モリーナが鬱蒼と笑った。指先が羽根のように動いて、頚動脈を撫で、首筋を通り、頬に触れ、そして両の掌で包み込むように覆われた。間近に迫った見惚れる程に美しい猫が、喋る。口を開く。泣きそうな、声だった。
「月が欲しい。」
 その時、確かに月読の心臓は《彼女》に鷲掴みにされたのだ。宝石の瞳でじっと見つめ、触れる掌は仄かに温かい。
「欲しい。満月も三日月も十六夜も新月も全部欲しい。一つ残らず欲しい。ずっと、見てた。俺はずっと見ていたんだ。あの鳥籠の中から。あの檻の中から見上げていたんだ。見下ろしていたんだ。何て綺麗なんだろうと思った。何て冷たそうなんだろうと思った。でも、」
 囚われる。僅かに頬を赤らめた《彼女》は息を呑む程に美しく、愛らしかった。思わず手を伸ばした。しなやかな身体とそれを包む柔らかい肌は体温を持っている。月読の冷たい手が触れても、嬉しそうにくすぐったげに《彼女》は笑うだけだった。嗚呼。嗚呼、君は。
「お前は、温かいな。」
「モ、リーナ…。」
「なあ一緒に行こう。それとも俺はお前の好みに合わないか?」
「そ、んな事は…!」
「良かった。猫が嫌いだったら如何しようかと思った。」
 そう《彼女》は子供のように笑った。美しいモリーナは優雅に髪を振るう。すると、青白い光は《彼女》を覆い尽し、そこにはただ一匹の美しい猫がいた。夜空そのものを写し取ったような毛皮。眼の覚めるような蒼穹の瞳。ピンと伸びた三角の耳と小さな頭。しなやかな身体にゆるりと長い尾を揺らめかせて、《彼女》は鼻を動かした。可憐な爪は柔らかな足へと収納されて、月読にその刃は向けられない。
「…モリーナ。」
 呼べば耳をぴくりと動かして、《彼女》が答えた。月読はじわりと込みあがってくる正体の解らぬ感情に心臓と指先が震えるのを感じながら、静かに拳を握った。身体を屈めて、《彼女》に目線を合わせる。両性を持つ美しい猫に敬意と愛情を示して、月読は愛しい《彼女》に口付けた。触れた毛皮と鼻先は一瞬で幻のように消え、すぐに強い力で抱きしめられた腕は白磁の色をした人間の肌。感極まっている愛猫をあやす様にその背中へと月読も腕を伸ばす。抱きしめあった二人は確かに人の姿をしていたけれど、暗闇に抱き合うのは只の美しい猫とそして只の満月だった。

 数日後。夜空から月が消えたという空前絶後の天変地異にとある極在り来りな一人の青年作家が自宅から跡形もなく失踪したという話題はかき消されてしまった。月が今何処で何をしているのか、そして一人の青年作家が今何処で何をしているのか、知る人は誰一人としていない。そう、それは三日月のように笑う、蒼天の眼を持つ美しい猫以外には。

 ―誰も。



これも学内の文芸コンクールに出したもの。
上から二番目の賞受賞。

初出不明。

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