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幸せにはなりたくない

「無駄なのに。」
 それが彼女の口癖だった。いつも物憂げそうに、彼女は唇を開いてそう言った。囚われの彼女。囚われて、囚われて、指先と視線しか動かすことは出来ぬのに。身に迫る確実な死の予感に震え、涙を流し、命乞いをするなんてことは、一度たりともしたことがなかった。
男は彼女が囚われて以来、一時も離れることなく傍に居たが、終ぞ彼女が泣き叫ぶ様子も、己の現状を憂える様子も、確認することは出来なかった。ただ、彼女は繰り返す。
「無駄なのに。」
 壊れたテープレコーダーのように、男の眼をしっかりと見据え、徐々に掠れていくアルトの声音で言う。繰り返す。お世辞にも、ナイチンゲールのよう、とは言えない声。力を失くし、衰えていくのが手に取るように解っても、男はただ繰り返される声を聞いていた。
「無駄なのに。」
 何が、と問うたことはない。それを知っても無意味な気がしたから。無駄なのに、と男の眼を見て繰り返す彼女の眼を、また男も見返して、口を噤む。唇の皮膚を縫い合わせたかのように、男は繰り返す彼女とは対照的に一切の言の葉を紡ぐことはしなかった。別段、特別な矜持があった訳ではない。ただ、彼女の声が鼓膜に届くのを、たとえ自分の声であろうと邪魔したくなかった。

 部屋の中には一切の調度品がなかった。がらんとした正方形の部屋。小さな窓が二つ。後はクリーム色の壁とクリーム色の天井、そして、フローリングの床。小さな窓は外側に出っ張った、所謂出窓、というやつであったので、燦々と太陽の光降り注ぐ場所にはちょっとした物が置けるスペースがあった。一切のものが取り払われた部屋で。そこに一つだけの忘れ物。素焼きの植木鉢に植わったカラタチの木。緑色の青々とした葉に鋭い棘を持つ攻撃的なはずの木は今や世話する者もなく、からからに乾いた用土の上に惨めに立ち尽くしているようだった。
 彼女はカラタチのそんな孤独な様が気になるのか、稀に男の眼を見て件の台詞を呟かない折には、空ろな視線をじっと出窓の方に注いでいることが多かった。乾燥した室内に舞い散る埃の蜃気楼。その向こうに聳える乾いた死を待つ緑の剣。そして、また、彼女も乾いた死を待つ。じっくりと与えられる終わりを、男の眼を、カラタチを、見ながら待っている。

 彼女と出会ってから、一切の声を発することのなかった男ではあるが、一度だけ、戯れか気の迷いか、彼女に口を利いた。初めて聞く男の声音に彼女は驚いた様子もなく、男のあまりに厚顔無恥で益体のない問いに、何時ものように眼を合わせることなく、ぱたりと視線を外して答えた。
それはカラタチの木に向けられる。彼女の気だるげな瞳が、ほんの一瞬、焼き尽くさんばかりの熱情を持ったのを、男は見逃さなかった。そして、彼女は唇を開いて言う。何時ものアルトの旋律で。今にもふわりと千切れてしまいそうな、掠れた声で。
「出来得ることなら。」
 そして再び、また何時もの憂いを帯びた表情と瞳と声になって、何時ものように言うのだ。男にぴったりと眼を合わせて。軽蔑のような、侮蔑のような、傲慢のような、冷徹のような、そんな瞳で。
「無駄なのに。」
 そう、言う。

 彼女と出会ってから三日後。
 無駄なのに、と繰り返された三日後。

 彼女は死んだ。

 カラタチの木は彼女の死を待っていたかのように、茶色く変色して枯れていた。乾いた部屋。何も無い部屋。埃の蜃気楼。残されたのは、枯れた緑と、彼女の死骸。
 魂の抜け落ちた身体に触れてみれば、それは驚くほどに軽い。体温を失った身体は土塊のように冷たく、それでいて触った箇所からぼろぼろと崩れ落ちてしまいそうなほどに、柔かった。男は花瓶に生けられたまま枯れていった花を思いながら、彼女の指先に触れる。舌を伸ばし、彼女の皮膚を微細な味覚器官の上に乗せる。
 あまい。
 理屈などではなく、甘かった。狂ってしまいそうなほどの甘味。熱く蕩けそうな激しい感情が男の身体を支配し、神経を犯して、思わず背筋を震わせた。理性が働いた時間など一瞬だ。
 彼女の指先を口に含み、思い切り歯をたてる。くしゃ、と軽い音をたてて、彼女の指先が、ただの《食べ物》に変わる。指先から腕へ。唾液を纏わり付かせながら、男は彼女の身体を食む。貪るように、それでいて、慈しむように。薄い皮膚で覆われた身体を鋭い歯と爪で突き破り、湿った臓物に唇をつける。ずず、と体液を啜れば、甘い恍惚感が指の先まで広がって、男はぞくりと眼を細めた。
死んだ彼女を食らう背徳など、一つもなかった。死んだ彼女を食らう後悔など、一つもなかった。
ただ、取り憑かれたように男は彼女を食らう。臓物から瞳の一つまでも。全て。残さず。口の周りを彼女の全てで汚しながら、食らう。くしゃ、くちゃ、と自らの口の中から聞こえる咀嚼音が堪らなく愛しかった。嗚呼、今正に男は、《彼女と交わった》のだ。
そして、全てを。彼女の欠片、断片さえ一つも残らずに食らい尽してしまうまで、幾許の時間がかかったのだろうか。
気がつけば、彼女の姿はもう、がらんとした部屋の何処にも無く、そこにはただ一人、男だけが、立っていた。無口な男は、相変わらず唇を開くことなく、ただ己の両手を見下ろし、己の腹部を見下ろした。彼女の全てが詰まった己の身体。満ちる充足感に生臭い吐息をつく。堪らない幸福に男が吐き出した息をもう一度吸い込もうとした、その時。

 掻き毟らんばかりの激痛が、胸に走った。

 思わず、声にならない悲鳴をあげて、男はその場に崩れ落ちる。臓物の全てを焼くような、痛み。まるで体内にナイフでも転がり落ちて、その切っ先があらゆる内部を切り刻んでいるが如く、強烈な苦痛。床の上に喉元を押さえて転がりながら、男は嗚呼、と遠く彼女が居た方を見遣った。
 彼女の腸(はらわた)には、毒があったのだ。
 子さえ残せず死んだ彼女の未練か、それとも男に対する強烈なまでの憎悪なのか。ただ、男の中に強制的に取り込まれた彼女の劫火のような猛毒が、男を確実に死に追いやる。焼けるような痛み。最早、苦痛の為に指先一つ動かせず、ぼんやりと男は視線だけを動かした。彼女と同じように。何もない部屋で、彼女の死と同時に枯れたカラタチの木を見遣る。嗚呼、そこには。

 青と黒の無数の蝶。

 あれは自分と彼女の子らだ、と男は直感的に思った。そして、やがて荒い息を吐きながら、満足そうに薄っすらと微笑んで見せる。たとえそれがどんな夢想でも構わなかった。ただ、男はすでに鈍く衰えた視界をそっと閉じる。眼を閉じても尚、瞼の裏には、青と黒の蝶の群れが見えた。それだけが、男の幸福感を煽る。それだけが、男の信じたい、《現実》だった。
無駄なのに、という彼女の声が、最期に一度だけ鼓膜を貫いて聞こえたような気がしたが、男はそれでも、微笑むのを、止めようとはしなかった。

 がらんとしたアパートの空き部屋の一室。穏やかな太陽の日差しが降り注ぐ出窓に何故か置き忘れられてしまい、枯れ果てたカラタチの植木が一つと、天井の隅には破れかけた蜘蛛の巣が一つ。
 そして、床の上には、真っ黒な蜘蛛が一匹。仰向けになって死んでいた。



大学構内の文芸コンクールに出したやつ。
上から二番目の賞受賞。

初出不明。

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