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スニーキングスネークアヘッド 後

 思えば吠崎叶(ほえざきかなう)の人生には最初から不運という名の悪夢がまとわりついていた。
 本来ならば吠崎家の祝福すべき初子は双子の兄妹のはずだった。しかし先に生まれ落ちた兄は心肺停止状態で程なくして死亡が確認され、叶自身も生死の淵を三日三晩彷徨った挙げ句にようやく呼吸することを許されたような有様だった。たった一人生き残った娘を両親は玉のように溺愛したが悲劇は続く。叶が四歳の誕生日を迎えた三日後、父が死んだ。雨の夜に信号を無視して横断歩道に侵入してきた乗用車に跳ね飛ばされ、宙を舞った身体は身元の判別もつかないほど損傷していた。母は悲しみに暮れ、それでも女手一つで娘を育てていこうと奮起した。しかし、大学の卒業と同時に結婚し、一度も社会で就労したことのない彼女にとってそれは全く容易い話ではなかった。夫を失った傷も癒えぬまま身も心もぼろぼろにして働く彼女にとって娘とは唯一の心の拠り所であり支えであり、娘の存在こそが彼女を母としてなんとか確立させているようなものだった。
 だが、それゆえに母の目は霞み、真実を見抜けなくなっていたことは否めないだろう。
 娘にはネコがなかった。
 とっくに己のネコを自覚してもいいはずの頃合いになっても予兆らしきものすら見えなかった。ネコがないということは即ちこの世界において不運なマイノリティに属するという意味になる。その数の少なさから真剣に議論されることも、問題視されることもほとんどない。「オナシ」とは要するに体の良い迫害の対象であり、忌避から来るタブーであり、社会のはけ口だった。わずか七歳にしてそれを悟った叶はけれどもこの段階ではまだ自分自身の呪われた人生をそれほど確信しているわけではなかった。兄は死に、父は死に、私にネコはないけれど、母はいる。母に愛されている。そんな自覚だけが彼女を「人間」としてどうにかこの世に繋ぎ止めていた。
 しかし、今にして思えば知らぬということは幸福だったといえるだろう。もっといえば娘の真実を知らずに死んだ父や妹の顔すら見ぬまま死んだ兄は不幸の中で小さな希望を抱いて死ねただけ幸運だったといえるかもしれない。
 吠崎叶はヘビだった。それもヘビの中でもとびきりたちの悪いヘビだ。
 むっとするような夜気がアパート全体を包み込んでいるかのような夜だった。ふと気が付けば辺りは血の海と化していた。卓袱台も小さな鏡台もへたった座布団も花柄のカーテンもすべてが赤く濡れている。噎せ返るような鉄錆の匂いの中でぼんやりと視線を巡らせれば、無残な肉塊と化した人間の身体が部屋のほぼ中央にごろりと横たわっていた。窓から差し込む月明かりが部屋を照らし、真っ赤に染め上がった六畳間の現実を暴く。虚ろな眼窩、痩せこけた頬、ぱさぱさには見間違うはずもない。その死体は、母だった。
 叶は何が起きたのかもわからず、ぼんやりと己の手を見下ろした。掌は爪の中まで真っ赤に染まり、口の中にはごろごろとした異物感がある。ほぼ無意識の行為でそれを口から吐き出せば、唾液にまみれ歯形のついた女の指がごろりと床へ落ちた。
 瞬間。
 彼女はすべてを理解した。胃の腑の辺りにわだかまる重みと目の前に転がる母親の死体から削られた肉はちょうど同じぐらいだ。途端こみ上げてきた吐き気を抑えきれずに嘔吐する。胃液にまぎれて落ちる赤黒い塊は人間の指であり、腕であり、耳である、骨である、内臓だ。てらてらと光る吐瀉物を呆然と眺めながら叶は察した。自分はもう人間ではないのだ、と。化け物なのだ。ネコではない人間は結局人間にはなれなかったのだ。

 吠崎叶、奇しくも十四歳の誕生日を三日後に控えた夜のことだった。

 あれからもう十年が経とうとしているだろうか。叶は相変わらず衝動的にネコを食らう化け物ではあるが、この化け物にはちゃんとした名前があり、姿があり、同族がいるということを知れたのは大きな収穫だった。
 化け物の名はヘビといい、その姿も生き物のヘビのそれに似る。しかして実体はといえば自然界においては不自然なほど鮮やかな色をした鱗を持ち、自在に空を飛んだり姿を消したり、まるで架空の生物としか思えない。世界にわずかしかいないオナシの中でもほんの一握りだけがなるというヘビ。叶がその本質に目覚めたのは何を隠そうあの夜からで、以降まるでタイミング見計らったかのように現れたヘビによるヘビのためのヘビの組織で生かされている。
 都内の住宅街にあるこのシェアハウスも組織の斡旋であり、なにゆえ叶にこんな立派な住居が与えられるのか、どうして他のヘビと同居しなくてはいけないのか、結局何も知らぬまま叶は今日も当たり前のように生きている。不運に愛された化け物の行き着く先がこの場所なのか未だにわからぬまま、抑えきれぬ衝動のままネコを食らっても誰も咎めないどころか、いつでも誰かが血の臭いをさせているようなこの場所で。わずかな違和感に蓋をして、今日という平穏を享受する。
「…おい。聞いてんのか、おい木偶の坊!」
 思索に耽っていた叶の意識を現世に戻したのは荒っぽい声だった。目を開いて焦点を合わせればそこには鋭い目つきの男がソファに片足をつく恰好でこちらを睨んでいる。身長百七十センチと女性にしては長身を誇る叶を木偶と呼んだ男は更に彼女より背が高い。百八十五センチを超えようかという恵まれた体躯に短く刈り込んだ髪。全体的に引き締まったスマートな印象とは裏腹に銀フレームのレンズの奥の瞳は飢えた動物のようにぎらついていた。喉仏から唸り声の幻聴まで聞こえてくるようなドスのきいた声で彼、同居人のヘビである財前慎一郎(ざいぜんしんいちろう)は口汚く彼女を罵る。
「さっきから話かけてんだろうが。アキラの野郎がどこに行ったか知らねえか」
「知りません。脚をどけてください」
「あ?」
「不愉快なので脚をどけろと言っています」
 空気がピリッと張りつめた。時計の秒針が時を打つ音と最新式の冷蔵庫が静かに唸る音しか聞こえぬ空間に冷ややかな沈黙が落ちる。男が頭に血を昇らせるのはいつだって一瞬で、だからといってそれを知っている叶は特段慌てることもない。胸倉をつかまれ至近距離でメンチを切られても極めて冷静に身体の力を抜いておく。無理矢理顔を上向かせられ、いつの間にか伸びたセミロングの髪が後ろへさらりと流れる。嗚呼またうつつに切ってもらわなくては。鬱陶しくてしょうがない。
「てめぇ今なんつった、木偶!」
 どうやら「鬱陶しい」の部分だけ口に出して言っていたらしい。一瞬で逆上した男が拳を振りかざすのを見て叶はため息をつく。仕方がない。言って聞く男ではないし、聞いて学習する男でもない。とにかく身体におぼえさせるしかないのだと一人納得して叶は座ったまま右足に履いたスリッパの爪先を思い切り男の股間に向かって振り上げた。
 悶絶。声もなく崩れ落ちた男はあえなく本性をあらわにした。鬱蒼と茂る夏草の色をした鱗を持つ大蛇はフローリングの上で無様にびたびたとのたうちまわる。コロスと口から絞り出される声はか細くて最早威圧にもなりやしない。
「喧嘩は売る方が悪いんです。少しは反省することですね、財前」
「ち、くしょー…!」
「…帰ってきましたね」
 玄関のチャイムが高らかに鳴り響くとともに開錠音とただいまの声。痛みに耐えるヘビを取り残して廊下へと通じるドアを開けばもう二人の同居人、二階堂うつつと海棠アキラが出て行ったときと変わらぬ姿で立っていた。
「あれ?慎ちゃんは?」
「そこで苦しみ悶えてます」
「何したんだ、吠崎」
「売られた喧嘩を買っただけです、海棠」
「やっぱり喧嘩してたんじゃん!あー遅かったか-!」
「慎ちゃんは本当学習しないよね」
 素早くソファに駆け寄ったうつつはヘビを拾い上げるとまるで動物園の見世物のようにその長躯を首にかけた。それが最も彼が屈辱を感じる姿だと知っているからだ。
「反省」
「二階堂、ナイス!」
「二階堂…コロス…!」
「うつつ、おやつにしますか?プリンまだありますよ」
「食べる!」
 彼女の声だけを忠実に受け取って叶はキッチンに立つ。実のところ叶は自分自身でもあるヘビという存在そのものをどうしても好きになることができなかった。彼らは傲慢で残虐で享楽的で狂っていた。少なくとも叶にはそう見えた。そんな中、ほぼ同時期に組織に保護されたのだという少女だけが叶の心を慰めてくれた。彼女は叶の食人行為をすごいわと心から素直に感心した。殺した相手を食べちゃうなんてすごいわ私にはとてもできそうにないし、けれどもとても合理的だわ、まるで野生の蛇みたい、ねえ貴女のこともっと教えて、初めてネコを食べたのはいつ?誰を食べたの?どんな気分だったの?そう興奮した口ぶりでまくしたてた彼女の表情をはっきりとおぼえている。彼女はそう。
「叶?」
 私の顔じっと見てどうかした?と首を傾げる女はきっと知らない。その返り血を浴びたような鱗に恋い焦がれるヘビがいるだなんて。一生、彼女は知らなくてよい話なのだ。


2016.04.29

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