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スニーキングスネークアヘッド 前

 太陽は限りなく頂点に近い位置にあり、そよそよと吹く風は満開のアカシアの花を優しく揺らす。甘い匂いは緩やかに辺りを漂い、まるでそれと戯れるかのように一人の幼子がきゃっきゃっと笑い声をあげていた。辺りに人影はない。父親も母親も真新しいベビーカーを放置してどこに行ってしまったというのだろうか。けれど、取り残された赤ん坊はぐずるどころか先程から楽しそうにするばかり。人の目には風が吹く度揺れる花と踊る木陰に喜んでいるだけかに見えるだろうが、その事実は少し異なっていた。幼子には聞こえているのだ、彼女の声が。幼子には見えているのだ、彼女の姿が。
「上がり目、下がり目、ぐるっと回って…」
 繊細な金糸雀の鳴き声を砂糖でコーティングしたような甘やかな声だった。柔らかく空間を打ち鳴らす秘めやかさは心地よく耳朶を打ち、誰もがうっとりと聴きほれるような少女の余韻を残す音を響かせて、彼女は何の前触れもなく唐突に現れた。
 キャメル色の革靴に紺色のハイソックス、膝丈まであるレースのスカートをふわりと翻し、白いブラウスには虹色を反射する小粒な貝ボタンが光る。肩甲骨を覆うほどに伸ばされた黒い髪は艶やかで、形の良い耳にかけられている一束だけが小さくたわんでいた。ふくらとした小さな唇にも長い睫毛にも化粧の気配はない。染み一つない陶磁器の肌は頬だけがわずかに上気して桃の色を秘め、はめ込まれた瞳は琺瑯の鍋で丁寧に溶かされた飴の色をしていた。
 彼女はベビーカーの中を覗き込みながらぐっと目を見開く。花がほころぶように開いた唇からは手遊びの続きが当たり前のように飛び出すかに思われたが、その瞬間彼女から立ち昇ったのは明らかな異形の気配だった。すべての人間が人の姿とネコの姿を持って生まれてくるこの世界で例外中の例外。ネコを持たぬゆえに「オナシ」即ち「尾無し」と呼ばれる者たちの中でもとりわけ忌避すべきモノ、疎まれしモノ、恐るべしモノ。
「ネコの目かと思った?残念!蛇の目ちゃんでしたぁ」
 彼女の軽やかな声とともに赤ん坊の声はぴたりと途絶えた。悲鳴すらなかった。断末魔さえ幼子はあげることができなかった。彼女が手にした銀色に光るナイフは赤ん坊の心臓を正確無比に貫いていた。目にも留まらぬ速さで振るわれた凶器は小さな身体を一思いに蹂躙し、思い出したかのようにあふれ出した鮮血が白い産着を徐々に染める。
 その光景を愛おしげに目を細めてじっと見ていた彼女はゆったりと微笑む。柔らかく優しげに慈しみともいえる顔でうっとりと。短く、あまりにも短い生涯を一方的に奪われた幼子の硬直した表情を眺めるその横顔に憂いはない。痛みはない、悲しみはない。ただそこには一匹のヘビがいた。ぬらぬらと光る真紅の鱗をうねらせ、剣に似た一文字を刻んだ瞳を蠢かせ、本来あるべき姿へと変じた彼女は優に五メートルはあろうかという長躯を中空で踊らせるとあっという間に空へと溶けるようにその場から消えた。後には最早真っ赤に染め上がった産着にくるまれた赤子をのせたベビーカーが物静かにあるばかり。
 程なくして、ほんの数分赤ん坊から目を離しただけだった母親が戻ってくる。だが無論彼女はもうその手に温かい我が子を抱くことは叶わない。絶望の絶叫が平和だったはずの昼下がりを叩き起こすように轟いた。

***

 少女の名は二階堂うつつという。
 年齢は十八歳、都内の生まれで家族構成は両親と三つ年の離れた妹だった。
 だったと過去形で語るのは当然それが今はなき彼女の関係性だからだ。彼女が初めて人を殺したのは四歳の頃だ。その対象となったのはそろそろ一歳になろうかという彼女の実の妹で、ベビーベッドの中で健やかに眠るその胸に果物ナイフを突き立てたのか最初だった。両親に泣きながらどうしてこんなことをしたのと尋ねられ、彼女は平然とこう答えた。だってそうしてみたかったの、と。思えばこのときからすでに彼女の人生は人としての道を踏み外し、シリアルキラーとしてある意味真っ当な外道を歩み始めていたのだろう。表向きは事故として処理された事件のあと、彼女はしばらく密やかに生きた。しかし、その身にネコを宿さず、なんの躊躇いも罪悪感もなく妹を刺し殺した娘を両親はどう扱っていいのかわからなかった。母親はやがて家を出て、父親は家へは帰らなくなった。家族は壊れ、彼女は一人になった。けれども彼女は悲しまなかった。そもそも悲しむという感情自体持っていなかった。
 彼女は孤独を好機と受け取った。
 ある夜のことだった。彼女はよく磨かれたナイフ一本を手に家を出た。向かった先は暗闇の中に寝静まったように見える産婦人科病院。少女は闇夜にまぎれて幸運にも、否、無垢な魂にとってはあまりに不幸にも難なく新生児室への侵入を果たしたのだ。
 あとの惨劇についてはわざわざここに記すまでもないだろう。これが世を震撼させ、子を持つ親という親を恐怖のどん底に叩き落としながらも迷宮入りした「I澤産婦人科病院新生児大量殺戮事件」の真相だ。殺された赤子は実に二十一人にものぼり、皆ナイフで胸を一突きされて即死だった。不思議なことにそれだけの数の新生児が犠牲になったにも関わらず誰一人として悲鳴も泣き声もあげることはなく、ゆえに事件の発覚は遅れ、犯人の目撃者も皆無だった。それは彼女にとって初めての完璧な犯罪だった。ネコではなくオナシでもない、ヘビとしての己の能力と才能を遺憾なく発揮した記念すべき最初の完全犯罪だった。
 とはいえ今はもう少し上手にやれるかしらね、とヘビの姿で優雅に空を泳ぎながらうつつは思う。見下ろした街並みには数多の人間、いやネコがうろうろと無様にひしめいていて、眺めるだけでうんざりする。あの流れに身を投じるのが嫌だからとただそれだけの理由で本性をあらわにするヘビは割合多い。ヘビにとってネコは圧倒的多数主義に胡座をかいた愚者であり、捕食の対象であり、愚鈍な物言う毛玉でしかない。己の欲望を成就するために「食らう」ならまだしも進んであの波に埋もれようなんて気が狂ってるとしか思えなかった。
 うへえと二股に分かれた舌を盛んに出し入れさせながら、足早に帰路につこうとしたときだ。ふと目に入った雑居ビルの屋上に立ち昇る細い煙と慣れ親しんだ鱗の気配。迷わずそちらへ舵を切れば案の定、薄汚れたコンクリートの床に腰を下ろし紫煙を燻らせているのは一匹のヘビだ。ぱっと見た瞬間に彼だとわかる憎らしいほど人目を引くその容姿。くっきりとした目鼻立ちに薄い唇、白い肌にすらりと伸びた手足、少し長めにカットされた髪は彼の中性的な容姿に何より似合うように計算し尽くされている。身にまとっているのはなんでもないティシャツにジーンズなのに嫌味なほど清潔感があって、どこか知性や品位さえ増幅させているように見えるのは彼の持つ独特な雰囲気のせいに他ならない。
 アキラちゃんという女の呼び声に気付いたのだろう。世に密かに蔓延るヘビの一匹にしてうつつの同居人である海棠(かいどう)アキラは咥え煙草のまま、こちらに視線を寄越した。
「二階堂」
「何やってるの、こんなとこで」
「そりゃお前、愚問だろ」
 そう言ってつまらなさそうに煙を吐き出した男の隣に両足を下ろしたうつつの目に投げ出された人間の脚が飛び込んでくる。ビル内から屋上に通じる突起物のような建造物の影にまるで捨てられたマネキンのように死んでいたのは一人の女だった。衣服を剥ぎ取られ、血と体液でぐしゃぐしゃになった下半身をさらし、顔や身体には散々殴られた跡と思しき鬱血がどす黒く広がっている。死因は窒息死だろうか。その首にはくっきりと男の掌の跡が残っている。
 うつつは単なる興味から来る死体の観察を終えると可愛らしく小首を傾げた。
「アキラちゃん、男の人専門じゃなかったんだ」
「両方イケる。女は気が向いたときだけ」
「ふうん。それも相手はネコだけなの?」
「ヘビ相手にチンコ勃つかよ…気持ち悪」
「ふんふん。両刀の強姦魔兼殺人鬼かぁ。ブタ箱待ったなしってかんじだね」
「勝手に人をムショ送りにすんな、よっ」
 立ち上がった男はうつつよりも頭一つ分背が高い。長い脚を持て余し気味に繰り、煙草の火を壁で揉み消すと大きな欠伸を放つ。
 海棠アキラは先程言った通り男女問わず強姦した末に殺す殺人鬼だった。その頻度は最早セックス中毒、殺人中毒と言っても過言ではない。稀に合意の上のこともあるようだが、最終的にはすべて殺してしまうのでその真意が明らかになる日は彼が生きている限り一生やって来ないだろう。しかもその相手となるのはあくまでネコに限られていた。当然世の中にごまんとあふれているのはネコなのだから効率の面を考えてもネコを狙う方が都合がいいのだけれど、彼のようにヘビという存在を認知しながらあくまでその欲望の相手をネコに限る者も珍しかった。かといってそれは同族意識や仲間意識などでは決してなく、あくまでも性癖なのだから特に褒められたものでもないのだけれど。
「お?待てよ…お前がここにいるってことは今うちは慎一郎と吠崎(ほえざき)だけってことか?」
 伸びをした直後そんなことを確認した彼はそうねと答えたうつつにニヤニヤと笑ってみせる。享楽主義者にして自ら楽しみを奪取しに行くことに労力を惜しまない彼にとって四匹のヘビが様々な事情によって同居するシェアハウス内で起こるいざこざは恰好の娯楽なのだ。
「早く帰ろうぜ。あいつらまた喧嘩してるぞ」
「アキラちゃん、趣味悪い」
 ため息をついたうつつの前で男は見る間に姿を変える。仄暗い夕暮れ時にも似た紫色の鱗に黒々とした目。その禍々しい色合いに似つかわしくない晴天の下でずるりと長躯をうねらせたヘビは牙を剥き出しにして笑ってみせた。
「趣味のいいヘビなんていてたまるか」


2016.04.29

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