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祝福すべきは平々凡々たる僕らの日常

 夏だ。夏休みだ。学生にとって夏といえば夏休みであり、夏休みといえば夏といっても過言ではないくらい、愛すべき季節が今年もやってきた。
 連日の猛暑を諸共せず部活動に励む者もいれば、涙ぐましい労働でお小遣いの底上げを狙う者もおり、キャンプ場海水浴場バーベキューに花火大会とひたすらに芋洗いが如き人混みにまみれる物好きもいる。この世に何万といる学生たちが思い思いに今しかない夏を謳歌する中、相模透真(さがみ とうま)は空調の効いた自宅のリビングルームのソファに寝転がりながら愛すべきアガサ・クリスティの『そして誰もいなくなった』を再読するという幸福な時間を過ごしていた。
 結末のわかっている推理小説など塵芥に等しいと考える人も世の中には少なくないようだが、透真はそうは思わない。哀れな被害者、巧妙なトリック、クレバーな犯人、身勝手で残忍な動機。それらを噛み砕いて咀嚼し、すべてを把握した上で始めから物語を嗜むというのもまた推理小説の乙な楽しみ方の一つだと透真は考える。強烈な午後の日差しが照りつける窓の外では庭木に張り付いた蝉の独唱が続いている。紙面の上では偽の誘いによって島に招かれた十人の男女が罪の告発に慄き怒り戸惑い、やがて童謡になぞらえた第一の殺人が起こるー
「透真ぁ、ちょっと手伝ってちょうだい」
 絶海の孤島で起こった予期せぬ緊迫の場面から急に現実へと引き戻したのは母の間延びした呑気な声だった。いやいや顔を上げれば薄水色にガーベラ柄のエプロンをしてキッチンに立つ母が両手にザルを抱えて息子の返答を待ち構えている。
「なに」
「空豆のさや剥くの、やってくれない?天ぷらにするのよ」
 一応お伺いをたてているようにも聞こえるが、その語感からは最早彼女の中に息子が空豆のさやを剥かないという未来はどこにも残されていないことを明確に悟らせるだけの何かがあった。しかし、それでも透真は万が一の可能性にかけて抵抗を試みる。書物の中の諸氏は人生何事もチャレンジが重要だと常に口を揃えて言うものだ。
「本、読んでるんだけど」
「あとでいいでしょう?本は逃げないわよ。すぐ済むことなんだから早くやっちゃいなさい」
 こういうときの母はぐうの音も出ないほどの正論を言う生き物へ成り果てるのだと息子は嫌というほど思い知らされていた。最初から勝ち目のない戦いもまた数多この世にはあふれている。
 透真は一人呻くと渋々本を閉じ、ソファから立ち上がった。裸足の足裏にひんやりとしたフローリングが心地よい。黒々とした髪を一つに束ね、我が母ながら若々しい風貌の彼女は絶やさぬ笑みでずっしりと重いザルを息子へ手渡した。中身にそぐわない巨大なさやをもつ豆を剥くのはお手伝いの定番で幼い頃からエルリスと二人よくやらされたものだった。青臭い匂いが指に染み付くのも更に言えば中身の豆もそれほど好きではない透真と違い、エルリスは黙々と小さな指を動かしては次から次へと豆を取り出していた。彼は今でも兄のように無駄な抵抗を試みることもなく母の手伝いを二つ返事で引き受け、何なら手伝い好きが高じて料理そのものにも興味を持ち、学校では調理部というすこぶる地味な部活動に所属している。活動日は第一水曜日と第三水曜日の月二回。帰宅部の透真はその日だけ図書室で時間を潰し彼の帰りを待つことにしていた。
「そういえばエルはどこ行ったんだ?」
「あら、確かにさっきから見かけないわ…またどこかで寝てるのかしら」
「クーラー効いてるのこの部屋だけだぞ…」
「暑ければ起きてくるでしょう?透真はエルのことになると心配性ねえ」
 勢いをつけて南瓜を切りつつ呆れたように言う母に透真はむすっと唇を歪めてみせる。確かに透真は弟に対して過保護だろう。それは認める。
 同い年の弟としてエルリスが相模家にやって来てから今年で早十一年になろうとしていた。特に小型の猫獣人であるエルリスは人間のそれより心身の成長が早い。まだ辛うじて身体に少年の名残がある透真とは異なり、彼のそれはすでに完全な成体といえるようになっている。ゆえに本来あるべき成長の度合いで「兄弟」を決め打つなら透真はエルリスの「弟」であるべきなのだが、それには断じて意義を申し立てたかった。エルリスは、あのふわふわほわほわした弟は心根が優しく、疑うことを知らず、驚くほどに真っ正直で、要するに見ているこっちが不安になるほどのお人好しなのだ。猫獣人の中で最も一般的で凡庸なリリキャット種とはいえ、非力で小柄な彼らを誘拐して見世物や奴隷として売りさばこうという「人間」がいないとも限らない。それなのに彼ときたら人見知りは別として警戒心は希薄だし、そういった事態そのものをまったく自分とは無縁の、他人事として見ている節さえある。これが過保護にならずしてなんとしよう。
「…探してくる」
「えっ!?」
 慌てた母の声を尻目に空豆を放り出し、キッチンを出ようとしたところでふと冷蔵庫の脇に置かれた大きな段ボールが目にとまった。確かに朝はなかった気がするそれは大胆な筆致で巨大なスイカのイラストが描かれ、産地直送を示す表記がでかでかと踊っている。
「母さん、この段ボール…」
「え?ああ、それ?今年も新潟のおばあちゃんから届いたのよ、おっきいスイカ!冷蔵庫で冷やしてあるからあとでみんなで食べ…」
 そこまで喋って母も気づいたのだろう。目元のよく似た母子は二人目配せだけを交わし、そっと物音を立てないように段ボールへと近づいた。
 細心の注意を払ってふたの部分に手を掛けると、案の定そこには狭い箱の中にぴったりと納まるようにして寝こけているエルリスの姿があった。僅かに残ったスイカの残り香に太陽の匂いが混ざり合って鼻先をくすぐる。きゅうと閉じられた瞳に濡れた鼻、呼吸を繰り返す度に上下する背、弛緩しきった柔らかな体躯は安らかな惰眠を余すことなく貪るように真四角の形に溶けている。猫の獣人の習性はこの世界でいうネコ科の生き物のそれに似る。エルリスも例に漏れず狭いところを好み、おそらくほとんど本人の意思とは関係なく手頃な箱やら小さな隙間やらに入り込んでそのまま眠ってしまうことがしばしばあった。
「起こす?」
「…寝かしとく」
「まあ優しいお兄ちゃんだこと」
 母は嬉しそうに笑って踵を返し、透真はエルリスの寝顔をそっと見下ろした。
 エルリスがこの家にやって来たばかりの頃、彼は泣いてばかりいた。背を丸め、手足を震わせ、堪えきれない嗚咽を漏らしているのを毎夜透真は聞こえないふりをして過ごした。最初は弟なんて、と思っていた。それも違う世界から来た人間じゃない弟だ。当然外見は異なるし、もちろん言葉も通じない。そんなわけのわからない生き物が弟だなんて冗談じゃないと、思っていたのは今から考えれば本当に短い間だった。
 いつしか、いつの日からか。エルリスは透真の中で特別になった。茶トラの模様も日だまりの匂いもアップルグリーンの宝石みたいに澄んだ瞳も何よりも誰よりも可愛らしく思えたし、同時に狂おしいほどに愛おしくなった。初めて握った彼の手は熱い体温がじわりと溶けるようで、それでいて気を抜けば掌から消えてなくなってしまいそうなほど柔らかかった。小さな口が開き、高く透き通った声が透真の名を親愛の情を込めて呼ぶ。答えれば褐色の毛並みに埋没するように目が細められるさまは、なにものにも変えがたい甘ったるい感情を透真の胸に呼び起こす。
「…エル」
 どうか、どうかいつまでもその君の愛おしさを隣で知り得るのが僕だけであるように。ありふれた今日という夏の日にただそれだけを願う彼の横顔は家族のそれとは違う深い情愛で鮮やかに彩られているように見えた。


2015.08.06

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