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チェス盤に赤のクイーン

 街には何時も腐臭が満ちている。太陽の関係だとか、大陸移動の関係とかで、四季は曖昧になりつつあるが、しかし、それでも冬は寒く、春になれば温かく、夏になれば茹だるように暑い、とかそういう感覚は辛うじて残っていた。コンクリートジャングルには強い照り返し。文明の大破壊と呼ばれた第九期世界大戦から凡そ数えるのも億劫なほどの、時間が経った。計算好きの先駆人によれば今年で新世界暦3051年。またの名を「死神」暦696と45年。大層な数字ではあるが、所詮未だにその百年余りしか生きられない人々にとっては抗いようもない未知の領域だ。今、この街に生きるほとんどの人は過去の栄光など記録でしか知らない。かつて大地には美しいビル郡が立ち並び、至上の楽園と謳われた美しい山々や湖や河があり、人間が溢れかえっていたあらゆる都市の繁栄のことなど。知る由もない。ただ、彼らの真新しい記憶にあるのは、崩れかけた廃墟のビルに何とか復興と銘打って立ち並んでいる建物、道の両脇に並ぶ腐敗臭のする市場、路地裏で喧しく世相について語り合う猫の姿、人間とは違う《異形》の者たちの異様、時折暗闇から響く銃声音、袋小路で死んでいる薬品臭い死体、今にも落ちそうなネオンの看板など、など、など。兎角、栄光と繁栄からは程遠い現実は、けれど生まれた時からそれしか知らねば、当たり前の日常と化す。過去は関係ない。ただ、みすぼらしくも、僅かな希望にしがみ付き、毎日を生きる。その繰り返しを、《彼》も送る、一人。
 アリスゼル・ゼムンは元よりぼさぼさの髪の毛をがしがしと掻いた。その色はまるで鮮血のようだと呼ぶ者さえいた、赤。
 皮膚の色は褐色。透き通った感じの黒色人種とも違う色合いの肌はタンクトップ一枚とジーンズという、あまりにもラフな格好のせいで思う存分晒されている。まだ目脂についた眠たげな瞳は東の空の月のように、真紅。整った顔立ちだ。今は寝起きのせいで多少歪んではいたものの、通った鼻梁に薄い唇。しゅ、と強く引かれた眉。そして、中途半端に長い火色の髪の間から覗く、長い耳。ちょうど二等辺三角形のような人間とは明らかに違う形のそれは、彼の出自が《異形》であることを示す。軽やかに筋肉の付いた青年の身体つき。背はすらりと高いが、高すぎるということもない。
 低血圧、というわけではないのだが、朝っぱらから不意の客人に叩き起こされた彼はぼうっとベッドの上で胡坐を掻いたまま、視線を落とした。街外れ、右隣には地下ラブホテル、左隣はメカニック工房、一階は中華屋、という最低の立地条件にある、彼の城。その城のあらゆるものが散らばった板張りの床には、今、一組の家族が悲痛な面持ちで鎮座していた。そう、家族。父親に母親に、それに娘が二人で小さな息子が一人。アリスゼルがそこら中に放り投げた私物に、紛れるようにして瞳いっぱいに涙を溜めた父親が訴える。アリスゼルは、無言で長い耳の先をげんなりと下げた。
「お願いです、旦那!もう旦那しか頼れる方がおりませんのです…!!」
「………つってもなぁ…」
 甲高い父親の声が聴覚鋭い耳に届く。それは決して愉快なものではなく、アリスゼルは深い吐息をついた。突然、アリスゼルの優雅な惰眠を破壊したのは、この父親による沈痛な叫び声で、それから延々と事情を一方的に、話されたところによれば、何でも昨夜から彼の長女が一階の中華屋の自称宇宙人店主に囚われてしまったとのこと。それだけ、と言ってしまえばそれまでの、はっきり言ってしまえば、全くアリスゼルには関係ないその事件。何故。何故、自分は朝っぱらから巻き込まれているのだろうか、とまだよく働かない頭で考える。目の前には家族。茶色のふかふかした毛皮と(しかし彼らの棲家は排水溝とかなので結構汚れている)長いヒゲ、小さな耳に黒い瞳と黒い鼻の、アリスゼルにはどれが娘でどれが息子でどれが母親なんだかサッパリわからない、その一家。由緒正しきドブネズミ―学名フェキシブルマウスの父親は更に沈痛な面持ち(たぶん)でアリスゼルに訴えかける。
「旦那、お願い致します…!どうかわたしらの娘を助けてやって下さい…!」
「おねえちゃん?ねえ、おねえちゃんどうしたの?」
「ママ、なんでおねえちゃんかえってこないの?」
「大丈夫よ、もうすぐ帰って来るからね。この方が助けて下さるから」
「…勝手に決めんじゃねぇよ…、つか自分らで助けに行きゃいいじゃねぇか」
「ヒィ、恐ろしい…!!あの少女、わたしらを見かけただけで中華鍋振り上げてくるんですよ!」
「ならもう今頃、娘もぺっしゃんこだろうよ…」
「!? ママ!おねえちゃん、死んじゃったの!?」
「おね、おねえちゃぁああああん!!」
「こ、これ、泣くんじゃありません!お姉ちゃんならきっと、だいじょう、う、ううっ」
「あー…煩せぇぇええええええ!!!」
 終いには家族揃って泣きじゃくり始めた一家に、アリスゼルは髪を掻き乱して絶叫する。その大声がネズミの小さな心臓にはかなりの威力を持ったのだろう。一斉に動きを止めた小動物を見遣って、アリスゼルは息を吐き出す。ベッドヘッドには小さな箱。白い革にブラウンのバンドを付けて金の金具で止めた、レトロ趣味溢れる仕様の箱に指を引っ掛け、慣れた仕草でぱちんと外す。途端に、空気がふわりと振動する音と共に、《何か》が中から飛び出した。それは鮮やかに発光する飛行物体、とでも言ったら良いだろうか。鋼色をした球体に鮮やかな赤のラインが幾筋も刻まれ、それがやんわりとしかし、はっきりと発光している。《魔道》と呼ばれる人間が生み出した新たなエネルギーと、そしてかつての遺産である機械を組み合わせた技術の産物。現在、広く世界に普及する《魔機》の一種、機械妖精のうち、戦闘用銃刀器収納型、タイプは《鉄刀》。アリスゼルが頼れる相棒に名を呼びかけると、一丁前に《自我》を持つ妖精はチカチカと発光して答えてみせた。
「行くぞ」
「え、旦那…」
「てめぇらは此処で待ってろ」
 それだけ言い残してアリスゼルは一家を跨いで部屋を出る。ドルチェヴィータが背後上空を付いてくるのを確認しながら、名ばかりのリビングを通り抜け、キッチンで冷蔵庫を覗くと三センチほど残っていたミネラルウォーターを飲み干した。狭い廊下のような場所を通り抜け、玄関でスニーカーに足を突っ込む。汚れた鉄のドアを開ければ、蒸すような初夏の気配。一瞬、不快感に眉を潜め、歩き出す。裏の狭い路地では、縞模様の猫が最近暑いわね、と独り言を呟いていた。
 玄関を出てすぐに右。二階にある自宅から一階へと下る小さな鉄製の階段を、靴を鳴らして降りる。みすぼらしい土の匂い。生え放題に伸びきったえのころ草が妙に風に揺れていた。さて、とアリスゼルは改めて自宅の景観を見渡す。傍目にもただのぼろい雑居ビルの成れの果ては正にその通りでしかない。一階にある中華屋《点々》。この店の主人が一応の持ち主、ということになっているが、彼女自身はこの店には通いでやってくるだけなので、本当のところはどうなのか謎だ。ただ、家賃さえ払えば、アリスゼルは二階、正確には中二階を除く二階を好きなように、使って良いと言われているので有難くそうしているだけだ。
 準備中の札がかかっている硝子戸を遠慮なく引きあける。暖簾の向こう、まだ照明の落とされた店の中は暗かったが、何一つ見えない、というわけではなかった。椅子が引き揚げられたテーブル。調味料の入ったトレイにカウンター。丸椅子が幾つも並んだカウンターの向こう側は調理場で、様々な金属色に輝く調理器に紛れるようにして、一人の少女が。鮮やかなアップルグリーンの髪に茶褐色の瞳。肌はと言えば、これまたまるで葉緑素を含んでいるかと思われるような緑。白いキャミソールに調理服のズボンというチグハグな格好をした彼女は、大きな瞳を一つくるりと回すと、手を挙げた。やあ、とそれは彼女の挨拶。自称宇宙人の割りに常識だけは並程度にある彼女、名を天李莱(テンリライ)というが、その彼女に答えるようにアリスゼルも片手を挙げた。そして、気がつく。煙草を忘れてきた。
「このような朝時から珍しいこともあるものだ、アリス青年。まさか、世に万と蔓延る言葉より漸く漸く、《早起きは三文の徳》という言葉を選び出すことに成功したのかい?それは何より目出度いことだ」
「悪いがハズレだ、李莱。ネズミに叩き起こされたからな」
「ネズミ…?ああ、昨夜のあれのことか」
「食っちまったか?」
「まさか。ネズミなど食って美味いものではない」
 そう言って李莱は黄緑色の髪を振るう。彼女はゆったりと調理場の中を歩くと、なにやら引き出しを探り、見つけ出した何かをアリスゼルに投げて寄越した。パシと反射的に受け取ったそれは安ライター入りの煙草のパッケージ。毒々しいピンク色の果実が描かれたこれは、そう確か一週間ほど前にアリスゼルが此処へ忘れていったものだ。礼を込めて僅かに手を挙げれば、気にするなという風に微笑まれた。微笑んだ、というか唇を歪めたというか。
「だが、籠に詰め込んだところでちょうど獣商人が店にやって来てな。気に入ったと言って連れて行ってしまった」
「ああ!?」
「何でも背中に妙な模様があって、好事家はそれを好むとのこと」
「ネズミだぜ…?物好きな連中もいたもんだ…」
 しかし、面倒なことになった。一本取り出した煙草に火を付け、毒の煙を吸い込みながらアリスゼルは肩を落とす。これなら中華屋で李莱にぺっしゃんこにされていた方がまだ面倒がなかったかもしれない。細く長く紫煙を味わった後、邪魔したな、と言い残して、アリスゼルは踵を返す。背後の少女はまた笑う。それはたぶん呆れ半分、冷笑半分。ネズミ程度に何をマジになっているのだ、ということだと思うのだが、人はそれぞれの事情ってやつを持っているだから、適当に流して欲しいものだ。大体、このまま手ぶらで帰ったらどうだ。あいつらずっと人の家に居座りそうじゃないか。それは勘弁して頂きたい。静かな悠々自適の暮らしがネズミでぶち壊し、なんて悲劇以外の何ものでもない。否、ある意味喜劇か、何てことを考えている場合でもなく。
 薄暗い店から出れば、鋭い日差し。眼を細めて背後を見遣れば、相変わらず機械妖精はしれっとした雰囲気で、ふよふよと浮かんでいた。彼らには当然ながら自我あれど、気温や不快感を感じる感覚などない。よって主人の不機嫌そうな眼差しにも妖精は何一つ構うことなく浮かび続けるばかり。まあ、当たり前なのだが。アリスゼルは暑苦しい息を紫煙と共に吐き出すと、歩き出す。舗装すらままならない道は、雑草が隅には生い茂り、過去の産物である崩れかけたコンクリート塀も余計に暑さを増幅させているようだった。
 中華屋とアリスゼルの自宅は街の外れで、そこから伸びる道は細い路地みたいなものだ。少し行けばやはり薄汚れたビルとビルの間を抜け、ゴミ箱と酒瓶の積まれた商店の裏へと差し掛かり、そこを過ぎて漸くまともな通りに出る。まとも、と言っても辛うじてアスファルトで舗装されている程度で、周囲の景色が、吃驚するぐらい一変するということはない。ただ、人通りがちらほらと現れ始め、大抵怪しい商売人が構えている店を数件、横目に見遣った後、それは唐突に現れる。
 掲げたアーチ状の看板に記された文字は《苦楽商店街》。
 何時もながら最低のネーミングセンスだが、白ペンキの剥がれかけた看板に今更文句をつける者もいるまい。アリスゼルも平然とその下を潜ると、街最大のマーケットへと足を踏み入れる。両脇に立ち並ぶ怪しい露店の数々。売られているものも様々。機械部品に古本に季節の果物、毛皮に目玉に錆びた時計、ビニール製の巨大なアヒル、どんな獣のどんな部位なのかも解らない肉に甘ったるい匂いをさせる揚げ菓子、それから蒸気をあげる点心まで。ポケットから小銭を取り出し、アリスゼルは道端の蒸篭から肉まんを買い求める。随分、腰の曲がった老婆は、頭の両脇に随分と此方も白っぽく衰えた角が二本あった。《異形》の筆頭特徴とも言える、「突出部位」か。恐らく若い頃は角も水晶のように透き通り美しかっただろうに。《異形》の寿命は人間よりも長いから、彼女は軽く、二百五十年以上生きているはずだ。それだけの人生を刻んだ皺だらけの手が、アリスゼルに紙に包んだ肉まんを手渡す。
「お兄ちゃん、格好良いから一番でかいのやるよ」
「ありがとよ、ばーちゃん」
 角の老女は黄色い歯を見せ、皺の中に瞳を埋没させて笑った。柔らかい皮と肉汁たっぷりの饅頭に齧り付きながら、アリスゼルは露店を後にする。少し生臭い肉が美味い。鼻先を掠めるのは湯気と甘ったるい果実の香りだ。それからすれ違う人々の様々な体臭。爽やかな香水を纏う者もいれば、あからさまに海水の匂いをさせる者、森林の苔むした岩の匂いをさせる者も鉄錆の匂いを纏わり付かせた者もいる。実に雑多。人間と異形とが入り混じる街の様子は人混みでこそ、如実に実感出来る。世界が人間と《異形》とそして獣と。言葉を操る種族が三種になってしまってからどれだけになるのか、アリスゼルは知らないが、しかし、これは確かに、異様な光景と言えるかもしれなかった。辛うじて人間たちは《異形》との接触を控えようと努力しているようだが、それも幾分無理な話のような気がした。この街に住まう《異形》は全人口の三十数パーセントだといわれているが、そのほとんどがこの商店を中心とした南地区に集まっている。そして、《異形》の数は年々増殖し、分布地域も広がりつつある。
 それが何を意味するのか。
 解らぬ人間ではないだろう。人間。《異形》の原型にして、かつての世界の支配者にして施政者にして蹂躙者。世界に数多と溢れ、贅を尽くし、繁栄を極めた彼らは、やがてその繁栄の重みで自ら崩れ去っていった。世界大戦。あらゆる技術が投入された戦争で、皮肉にも人間たちはあらゆる技術を失った、と言われている。
 やがて犇く商店の間に黒塗りの看板が見えてきた。どかどかと造作なく積まれた籠の中には獣の匂いが満ちていた。入り口が狭く、奥に長く取られた店の中は暗くて伺うことが出来ない。ただ、「けものとりあつかいます」という看板の下に、まるで嘘みたいに美貌の青年がひっそりと開いた本の活字に眼を落としていた。透き通るような空色の髪の毛は長い。暑苦しいほど長い髪を高い位置で結い上げ、白い肌を木綿のシャツと黒のスラックスで覆っている。瞳の色は煌くサファイア。木陰で涼む神話の世界の青年神のようだったが、実際は彼の上で日差しを遮るのは古びた七色のパラソルでしかない。背に伸びるのは退化した小さな翼。やはり青を秘めた翼は、時折小さく羽ばたきを落とす以外は微動だにしなかった。青年と同じように、静かに、そこだけ雑踏の中で時間が止まってしまったかのように。肉まんを口の中に押し込み、飲み下してしまったアリスゼルは、彼の名を呼ぶ。
「ネーヴェ!」
 男がふわりと緩やかな視線を此方に寄越した。鏡面のような瞳がアリスゼルを認め、僅かに開かれる。それは驚愕のような憧憬のような、兎に角彼が静かに感情に変化を起こしたことは背の翼が揺れたので解った。
「緋色。久しい。何事」
「ちょっと訊てぇことあってよ。お前、昨日中華屋でネズミ貰ったろ?」
 アリスゼルのことを「緋色」と呼ぶ彼は嗚呼、とでも言いたげに天を仰いだ。それから眉根を寄せる表情まで美麗に、彼は読みかけの本をぱたりと閉じる。女性と見紛いそうな美貌の彼が何故、こんな治安の悪いブラックマーケットで、商売が出来ているのか。その理由は押して知るべしというか、出来れば知りたくないというか。うん、まあ、人には知らなければ良いこと、というのが多分にあるのだ。たとえば彼の特技が《針技》であるとか、彼が愛し、養っている二匹の獣が規格外のアレであることなど。たぶん、知らなくて良い。素通りする分には。「無念。すでに在らず」
「ああ!?何で!?」
「捕食。我が美姫アンティチーク」
 嗚呼―。
 アリスゼルも今度こそ天を仰いだ。彼が美姫と呼ぶのは一匹のペルシャ猫のことで、白い毛皮の、そうつまり猫で。猫と言えばネズミを獲るものだと、古来より定められている不滅の事実。例に漏れず、アリスゼルもアンティチークという名の、彼女が美味そうに巨大なドブネズミを貪り食っているところに遭遇したことがある。嫌そうに見下ろしたアリスゼルに彼女は、ツンと高飛車に澄まして言ったものだ。ならば貴方は《焼肉》、とやらが嫌いですの?いいえ、大好きです。
「…、解った。サンキュな」
「………そうで御座いましたか…」
 突如、自分の足元から聞こえた甲高い声にアリスゼルはぎょっとして思わず足を上げそうになった。寸前で思い止まれば茶色のヒゲをひくひくさせたネズミが一匹。耳を下げ、ヒゲは項垂れ、背中は丸まって、まあ何と言うか、人間で言えば悲壮感溢れる、とは正にこのことを言うのだろう。何時の間に付いてきていたのか、最初からか。流石、隠れさせたら天下一品のネズミの気配に気が付かなかったアリスゼルは、あー、と言葉を濁す。ポケットから煙草を取り出して、一本咥え、あーともう一度唸ったところで、父親ネズミはふかりと眼を細めて見せた。
「旦那、宜しいのです。我らはネズミ。元より覚悟の上です」
「…そうか」
「はい、有難う御座います。わたしら、今夜にもあそこを出ます」
「ああ…達者でな」
「はい」
 会釈のように頭を下げて、ネズミは身を翻すと雑踏の中へ消えて行った。正確にはすぐ傍の排水溝の中へ。アリスゼルはポケットから探り当てたライターで煙草に火を付ける。ボッという音と共に白い煙が湿気た空気に混じった。
「緋色。情け無用」
「かけてねぇよ。ただネズミの恩返しは期待出来ねぇなと思ってな」
 言えば、彼は仄かに笑ったようだった。そう、世界は結局捕食と被捕食の関係で成り立っている。たとえ獣が喋ったとしてもこうして捕らえて商売に使われたりするし、獣同士で食い合ったりもする。それは世界が始まって以来のあまりに当然の世界の姿。どれだけ世界が歪んでも、歪みきれない、一本の巨大な柱。アリスゼルだって万が一、運悪く、力なければ、たった今、此処で死んだとしても何ら不思議ではない。原因はなんだって良い。だが、人は惰性で生きているのではなく、何らかの偶然と偶然の作用によって、物凄く強大な《幸運》で生かされているということ。それは、アリスゼルが幼い頃から、実感に実感を重ねた真実だ。
「赤い兄ちゃん、今日の食い扶持なくしたかい?」
 檻の中、巨大なカメレオンが皮膜瞼を上げ下げしながらアリスゼルに言う。
「おや、アンタ稼いでるんじゃないの?ほら、立派な妖精も連れてるし」
 檻の中、逆さまにぶら下がった蝙蝠が喧しく騒ぎ立てる。
「自由業たって名前だけの、所詮、浮浪者だろ?」
 檻の中、欠伸をしながら黒い耳の兎が呟いた。アリスゼルは、彼らの主人に進言する。
「こいつら今日の夕飯にしねぇ?」
「商品。食用禁止」
「お堅ぇなぁ…」
 紫煙を吐き出して、アリスゼルは青い空を仰ぐ。遙か昔はスモッグで曇っていたという空は魔機の発達で霞一つない。ただ、凶悪に夏の気配を感じさせる空気が押し寄せてくる。腐った果実の甘い匂い。苦い紫煙が喉を焼き、アリスゼルは長い耳をうしろに僅か倒すと、眼を細めた。しばらくは、壊れかけの扇風機で難が凌げれば良いのだが、とこれからの寝苦しい季節に思いを馳せながら。





フレキシブルマウス (flexible mouse)
所謂ドブネズミ。人の住まうところならあらゆるところを生息地とする。体長は三十センチ程度で「ネズミ算式」という言葉もあるように、繁殖力旺盛。家族の情愛深く、基本的に人間を恐れている為、あまり人前に姿を現すことはないが、餌を求めて台所に侵入し、罠にかかることはよくある。また排水溝や屋根裏などを棲家にする為、疫病の発生源となることも。

出現頻度:A 害獣認定ランク:B 危険度:D


06/07/16

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