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愛する夜のブルーマルガリータ 7

 一つ大きく息を吸ってから、鍵を開ける。それは掛けた時とほぼ同様の、がっちゃんという金属音をたてて、静かに開かれた。何時も通り緩やかな空気が支配した空間が出迎える。何時もと、以前の《何時も》と違うのは賑やかな出迎えの声が、一切聞こえないことだけ。硬質に響き、心地良く鼓膜を振動させる彼らの声はよく似ていたが、少しも似ていない。少々ぶっきらぼうにけれど明確な冷酷さを秘めた訳ではなく、ただ単純に不器用さを示す如く紡がれる声と。明朗に柔らかに、その向こう側ににかりと笑った顔が透けて見えるほど、鮮やかな若さと気の良さを表す声と。嗚呼、けれど、そのどちらもネーヴェに向けて発せられる時、甘ったるい色を含んでいたと気付いたのは何時のことだろう。まだ彼らが言語に達する以前の鳴き声だけしか持っていなかった頃、それはただの《母親》に対する憧憬で。明確に、徐々に、変化し続けていた。彼らの成長と同じように。戸惑ったのはネーヴェ。その急激な変化に惑って、怖くて、思わず両手で拒絶してしまったのはネーヴェなのだ。
 重たい吐息をつく。靴を脱ぎ、素足でタイルを鳴らしながら、ドームの部屋へと続く道に腰を屈めて入り込んだ。薄闇の中に自ら進んでいくのは嫌いではなかった。静かに訪れる湿気と冷たい空気の場所。鼻を擽るのは干草のような寝床の匂いで、確かに眼には見えぬ暗闇の中に密やかに二匹分の生き物の気配がした。爛々と光る金色の瞳は見えないが、しかし蛇族特有のピット器官が働いているのだろう。彼らは確かにネーヴェの気配を、感じ取っているようだった。けれど、向こうから何かアクションを起こすような気配はない。当然だった。ネーヴェは彼らを裏切ったのだから。その全ての矜持と信頼を、自らの手で粉々に打ち砕いたのだから。許されるはずもない。ひょっとしたら暗闇からネーヴェを仕留める機会を伺っているのかもしれなかったが、それならそれで構わなかった。ネーヴェは《死という不自由》を何よりも恐れていたが、それが彼らから与えられるなら仕方がないと思える不思議。臓物と血液を撒き散らし、彼らの毒牙で死ぬ瞬間は痛いだろうな、と想像するだに脚が震えてくるが、恐れているだけにもいかない。きゅ、と唇を引き結び、決して見ることの出来ない暗闇を見据えて、ネーヴェは口を開く。
「…すまない、」
 ただの一言だけ。ネーヴェの声は巣の中に静かに反響した。ぽつんとコンクリート壁から打ち返される声は、何処か自分のものでないようで、それでいて憂鬱な悲壮感を携えていて、ネーヴェを深く眼を閉じた。瞼の裏の暗闇はドームの中よりもより一層、酷い。それはネーヴェの願う闇だからだろうか、とどうでもいいことを考えた。
「すまない…夜叉、夜牙、私、は、」
 何を紡げば良いのか解らない。こんなところまで来てまだ《解らない》とは確かにアンティチークに呆れられても仕方ない。だが、本当に。真実に何かを伝えようなどと、こんなにも必死になったことのないネーヴェには、何よりもそれが困難だった。解らない。しかし、解らないだけでは意味がない。頭の中を必死で探り、言葉を選び、《想い》を伝える為に。足の裏で踏んだ真綿がきゅと軽く鳴った。そんな場所に汗をかくぐらい、自分が緊張していることに、気付く。
「本当に、すまないと思って、いる…私一人で戸惑って、お前たちを、傷つけた。お前たちが悪いことなど、何一つないのに、私が未熟な、せいで、誤ってしまった、すまない…。………、夜叉、夜牙、聴いて欲しい。私は、本当に、」
 眼を開く。
「愛しているよ、お前たちのことを」
 本当に。
 次の瞬間、視界に飛び込んできたのは漆黒の、輝かしいばかりの漆黒の鱗ときらきらと光る金色の眼だった。だから一体何処に潜んでいたというのか、今にも接触しそうなぐらいの至近距離に四つの鋭利な瞳が、それでも子供みたいな純粋な輝きを秘めて、ネーヴェを見つめている。三角形の大きな頭。尖った鼻先に刃のような牙。全ては相手に畏怖を与える為のものなのに、やはりネーヴェにはどれ一つとして恐ろしいものなどない。それどこから漸く目の前に姿を現した愛しい大蛇の姿に頬を緩めてみせた。夜叉、夜牙、と小さく呟く。
「今の、本当?」
「ああ」
「本当に?本当か、ネーヴェ?」
「ああ」
「俺たちで良いのか?腕なくても?脚なくても?」
「ネーヴェにプレゼント一つやれねぇようでも?稼いでやれなくても?」
 何処で得た知識なのか、途端に不安そうに口々に喋る二匹にネーヴェも視線を落とす。二匹の言うことは本当は《大した問題ではない》。それは人でいうならば重大なことなのかもしれないが、夜叉と夜牙は大蛇であり、ネーヴェは人であり、その辺りの差異は最早問題にするのも馬鹿らしいことだろう。最初から解っていたことだ。受け入れるとはそういうこと。当然を当然と受け止めて、ネーヴェは二匹に想いを告げた。だが、ネーヴェには一つだけまだ彼らに告げていないことがある。一つだけ。とても重要なこと。それは人でいう重要なことではなく、彼らの、獣でいう重要なことだ。両性であるネーヴェが「受けられなかった、祝福」。
「私こそ、」
「ネーヴェ?」
「私こそ、お前たちの子を成すことは、出来ない」
「…え?」
「出来ない。出来ないんだ。そういう能力が、《ない》」
 権利がない。翼を得た異形は両性である確率が通常より高い上、生殖能力も通常通り持っているのが普通だ。即ち男性の能力と女性の能力。両方持っているのが《普通》という極めて異例の異常なまでの生殖能力を保持している。それ故に育みの神による祝福、と言われるが、ネーヴェはその「祝福」をどちらも受け取ることが出来なかった。生まれてから逃げ出すまで厄介になった大病院の医師も、ネーヴェの師である彼女もそう言っていたからまず間違いない。ネーヴェに繁殖を行うことは出来ない。交じり合う異形の血と獣の血を持ってしても、彼らの子種を受け取ったとしても、それがネーヴェの中で新たな命となることはないのだ。それは、酷く、残酷な話だ。彼らの獣としての本能に逆らう。ネーヴェは良い。もう以前から自分については諦めていたし、また現実的に誰か、そう誰かと子を成すだとか成せないだとか、そんな深刻な話を交わすことになろうとは思いもしなかったのだから。予想もしなかったのだから。
 しかし、だからこそ今そのツケを払っているとも言えるかもしれない。生殖活動は獣にとって人生の最重要事項だ。それを成せないということは大袈裟に言えば、存在意義の否定であり、先祖に対しての侮辱に当たる。否定することに慣れ、侮辱することに適応した人間と違い、獣にはまだ明確な《続いていくこと》への欲求があるのだ。だから、ネーヴェが両性であることは勘付いても、不能であることまでは気付けなかった彼らが、今、この場で、ネーヴェを見限っても罪はない。それはそれで、正しいことだ。というよりは、それが当然とも言えた。
「…え、そんだけ?」
「…今にも泣きそうになって何言い出すかと思えば…」
 けれど、ネーヴェの予想を大幅に裏切って、二匹は安堵と呆れの交じり合った息を同時に吐き出しただけだった。蒼色の眼を見開くネーヴェの前で、夜叉と夜牙が、あのな、と同時に言う。金色の瞳が静かに優しく輝いた。
「確かに獣にとって繁殖するってのは重要任務だ。だけど、《最重要》じゃねぇよ。少なくとも《俺たちにとっては》」
「まあ、もしもの話として?俺と夜叉が普通に森で生まれて森で育ってたら話は違っただろうけど。でも、俺たちはネーヴェの傍で生まれて、ネーヴェに育てられて、ネーヴェを好きになった。それなら優先すんのは《ネーヴェ》だろう?本能じゃねぇよ」
「もしもネーヴェがただの男でも、俺たちはネーヴェに惚れてたぜ、きっと。そのぐらい、俺も夜牙も、お前のことが好きだ」
「そ、愛しちゃってるぜ」
「愛してる」
 口々に言い募られる言葉に、ネーヴェは、嗚呼もう何だか言いようのないもので胸を覆いつくされたネーヴェは、ただ両腕を伸ばして、二匹の大きな頭をぎゅうと抱きしめた。静かにネーヴェの両腕に抱かれた彼らは、喉の奥から、終ぞ聴いたことのないような、敢えて言葉にするならば、きぃるるる、とでも言うような高い声を発して眼を細める。柔らかで優しい旋律を奏でるその声が、何も知らなくとも、ネーヴェには愛の歌だということが解った。両腕に力を込め、彼らの艶やかな鱗に頬を寄せると、そっと擦り寄る。ひんやりとした皮膚から与えられる堪らない安堵。何時から、なんて問いは本当に無意味で、けれど、今絶対の真実として言えることがあるとすれば、ネーヴェは心の底から二匹の大蛇を愛しているということだけだった。姿かたちから、魂まで、その全てを。注がれる惜しみない想いにネーヴェの些細な全てをもって応えたいと思うぐらいに、強く強く強く。
「なあ、ネーヴェ?」
 きゅうきゅうとネーヴェに抱きしめられたぐらいでビクともしない夜牙が尾を僅かに振って、腕の中で言う。視線を落とせば、金色の瞳がじっとこちらを見ていて、何かを訴えられているようだったので、ネーヴェは静かに腕を離した。だが、夜牙はそうじゃなくてさ、と言葉を濁すと、心持ち気まずそうに視線を逸らした後、けれどすぐに目線を合わせる。
「てことは、ネーヴェさ、俺たちと交尾しても良いと思ってる?」
 え、
 「………………………………………………………………、」
 いや、いやいやいやいや、固まってる場合ではなく、そういうことになるだろう。そういう話に、なるだろう。受け入れるとはそういうことだ。交尾。生々しい単語ではあるが彼らにとっては、清浄な言葉だ。正常な、言葉だ。ネーヴェが彼らを伴侶として―そう伴侶として迎え入れる以上、それは避けられない行為となる。勿論、子を成すことは出来ないが、子を成すことだけが《交尾》の意義ではないわけで。この場合。そう、この場合。何だか脳裏に色々と一瞬で思い描いてしまったネーヴェは、一瞬で頬を染めると、しどろ、もどろで、視線を逸らした。
「大丈夫、恐らく………、経験は、ない、が…」
 そう、誰とも。ネーヴェは誰とも性的な意味で触れ合ったことがない。今まで、誰かとそこまで深い繋がりを持ったことはなく、その上、両性であり、不能であるという、恐ろしく難儀な身体が災いして、自ら積極的に欲望を求めることもしなかった。むしろ、ネーヴェにとって、誰かとそれこそ身体を重ね合わせるような行為は単なる嫌悪と恐怖の対象だ。中性的な美貌ゆえにネーヴェに浅ましい欲望を覚え、無体を働こうとした者は一人二人に留まらず。それ故、師譲りの針術と体術で街の腐臭を発する泥の川に葬り去ってきた者は星の数。正直、数えるのも億劫なほど。だが、今回は勝手が違う。夜叉と夜牙は紛うことなく、ネーヴェの愛しい人。愛してると囁いて、囁き返してあげたい人。無論、大蛇と人と、その意味でも勝手は大分違うが、しかし彼らが望むならば、受け入れることは恐怖ではない。否、本当を言えば、少し怖いけれど。嫌ではない。真っ当な欲望ぐらい、ネーヴェにだって一応ある。それは先の見えない道の先へ足を踏み出すような心許ない感覚はあったが、しかし、嫌悪は一欠けらもなかった。
 降りた沈黙に不安になってそろそろと二匹を伺う。漆黒の大蛇は何故か、ネーヴェの顔を凝視したまま固まっていたが、それが何の感情によるものか解らないネーヴェは、恐る恐る彼らに声をかける。夜叉、夜牙、とそれで我に返ったのは、夜牙が先だった。金色の瞳を輝かせ、感極まったように夜牙がネーヴェ…!と叫ぶ。首を傾げたネーヴェに漆黒の大蛇の頭が凄い勢いで擦り寄ってきた。その突撃、雷の如し。随分、気安い雷もいたものだ。
「ネーヴェ、可愛いー!!!しかも、処女!?ほんと!?俺らが初めて!?」
「その、不慣れ、すまな、」
「すまなくないない!すげぇ嬉しいって、ほんと、ああああもう夢みてぇ…!」
 ぐるぐると何故か感極まってネーヴェをとぐろの中に収めていく夜牙を呆然と見遣っていれば、漸く我に返った夜叉が何時もの調子で夜牙!と低い声を出す。途端、律儀に動きを止めた夜牙は剣呑な金色を光らせて、夜叉を睨みつけた。何時もの調子だ。それは本気の喧嘩の一歩手前なのに、何故かネーヴェは少し嬉しくなって、そっと解らない程度に微笑んだ。夜牙の頭が無遠慮にネーヴェの肩に乗せられて、更に夜叉の瞳が危なく光る。
「お前…自分でやってること解ってんだろうな…」
「んだよ、別に抱きしめる順番は決めてねぇだろが」
「そうじゃねぇよ!ネーヴェの気持ちも汲めって言ってんだろ、」
「ネーヴェ良いっつったもん」
 なー?と問う夜牙にこくりと頷けば、夜叉が踏ん付けられた蛙のような声で唸った。それがあまりに悲壮だったので、ネーヴェは片手を差し出して彼をおいでと呼ぶ。どうも、夜叉は知性や理性がストッパーになり過ぎて、こういう時、夜牙よりも損をするようだった。否、全てが夜牙のようならば良いとは流石に言わないけれど。金色の瞳を鮮やかに揺らめかせ、夜叉が複雑な心境を吐露する。良いのか、と低い声が問うた。静かに、優しい声が。
「…良いのか?俺たち、そのだな、やっぱどうあっても同時に求めちまうし、ネーヴェは、辛いと思う、ぜ?」
「ばっか、何不安にさせてんだよ!脳味噌足りねぇのはお前だろ!」
「お前は黙ってろ、夜牙!俺は真実を述べてんだよ!」
「構わない」
 すぐさま豪雨のような会話を始める二匹の間に割り込んで、遮る。夜叉と夜牙は素直すぎるくらい素直に、ぴたりと口を噤み、四つの瞳でネーヴェを見た。綺麗な瞳だ。金色が揺らめいて、慈しんで、想って、ネーヴェを見つめてくる。宝石のようで、それでいて呼吸する美しさを持っている。その色が、何よりも愛しくて、ネーヴェは眼を細めた。
「構わない。覚悟。私は受け入れたい」
 それが、真実唯一つの、ネーヴェの望み。
「一緒にいたい。夜叉、夜牙、許されるならば、」
 ―共に、
 それはまるで誓いのような緩やかな拘束によって、打ち消された。


06/08/24

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