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愛する夜のブルーマルガリータ 6

『ネーヴェねぇ…難儀な名前』
 開口一番、彼女がそう言った言葉のアクセントまでも、ネーヴェは正確に覚えている。紫煙を燻らせ、ツンと尖った顎が女性らしからずスタイリッシュな彼女は《ネール》という名を持っていたが、ネーヴェは結局彼女を名前で呼ぶ機会に恵まれることはなかった。何しろ彼女が言ったのだ。名乗るよりも早く、私のことは《先生》と呼びな、と。家出同然で家を飛び出し、生きる術は何一つ持たず、三日でボロ雑巾に成り果てた、哀れと呼ぶには愚かな異形の少年を、彼女が何を思って救い上げたのか、それは今でも解らない。ただ、彼女は街の片隅で小汚い診療所を構え、そこにやって来るやっぱり小汚い患者の面倒をみて、そのついでに何となくネーヴェの面倒もみていたような、そんな感じだった。ネーヴェは確かに彼女によって命を救われたが、全てを救われた訳ではなかった。何とか脱水症状と栄養失調から回復したネーヴェを待っていたのは、眼が回るような重労働。診療所、というのは意外に忙しいもので、それが闇医者となれば尚更だった。彼女はネーヴェが少年だから、異形だから、と、何一つ手加減することはなかった。あれをやって、これをやって、次はあれを、その次にはこれを。遠慮なく飛ぶ命令は絶え間なく、ネーヴェは何度逃げ出そうと思ったか知れないが、しかし逃げ出したところで、行く場所などない。だから、ただ黙々と数多の失敗を繰り返し(彼女は一度も《教える》ということをしなかった)、ネーヴェは何時しか治療の手順を覚え、知識を得、やがて彼女から患者の処置を任されるまでになった。
 彼女は医者としてはかなり優秀だったと言えるだろう。針治療という古い技も完璧に使いこなしていたし、何より明朗活発な彼女の性格は患者に生きる元気を与えていた。しかし、彼女にはもう一つの仄暗い側面があった。ネーヴェがそれを知ったのは、彼女のところに世話になって何ヶ月経った頃だろうか。夜中にひたりと足音を響かせ、帰宅した彼女は全身に鉄錆の匂いを纏わり付かせていた。その周囲を覆う、計三十六にも上る瑠璃と銀の針。それが風の魔道を宿した魔機であると、その当時のネーヴェには理解出来なかったが、しかし鬱蒼と笑う彼女が、何処か尋常でないのは理解出来た。人の命を救うのが生業の医者は、人の命を潰すのが何よりも巧かった、なんて。呆れるくらいの矛盾だ。しかし、彼女は何を気に留める様子もなく、次の日には何時も通り診療を開始し、夕食の時間に酒を飲んで酔っ払うと、何時もと同じ台詞を吐いた。
『あなたは祝福を受けられなかったのね』
 そんな彼女だったから、ネーヴェは彼女が自分に好意を抱いているとは微塵も信じていなかったし、何よりも、それが当然だと思っていた。当然。当たり前。だから、彼女が死んだ時、正直、ネーヴェはどんな感慨を抱いたのか、あまり覚えていない。ただ、目の前が白くなって、しばらくぼんやりと天井を眺めてしまったことだけは覚えている。それは《悲しかった》、というよりは《途方に暮れた》といったほうが断然正しい。
 彼女は殺されたのではない。病死だった。
 医者の不養生とはよく言ったもので、人間が、まだ様々な病魔に脅かされている人間がかかる一般的な重い病だった。適切な時期に適切な処置を施していれば、それでも一命は取り留められたはずなのに、彼女自身がそれをしなかった。気がついていたはずだ。しかし、敢えて彼女は無処置という、緩やかな自殺のような方法を選んだ。彼女が何を考えていたのか、昔のネーヴェにも今のネーヴェにも少しも理解することは出来ない。だが、彼女は、最期の日、大量の睡眠薬を投与する寸前、ネーヴェをベッドの脇に呼び出し、三十六本の針が入った箱を差し出した。消毒薬の匂いがきつく香る真っ白な部屋で、ネーヴェは箱を抱えたまま無言だった。彼女は、力なく笑って、言った。
『あげるわ。もういらないから』
 それが、最期の言葉だった。
 残酷な遺言と取るか、横暴な命令と取るか。それは人それぞれの感性というものなのかもしれないが、ネーヴェはそれを確かに《命令》と受け取った。何時もと同じだ。あれをやって、これをやって、次はあれを、その次にはこれを。繰り返すことしか、ネーヴェには道は残されていなかった。三十六の針は、血の匂いが染み込んだ立派な凶器。風のように、影のように、証拠一つ残さず相手を殺す。《殺戮絡繰》ネール・オヴェ・バレシア。やれるかどうか解らなかった。だが、殺らなくてはいけなかった。青い瞳に冷たい氷を携えて、ネーヴェは《彼女になった》。殺して、殺して、殺して。繰り返される毎日は退屈で、茫洋で、それでも《生きなくてはならなくて》。それが彼女の言葉だから、命令だから。最早、何に突き動かされているのか、彼女の言葉にか、それとも己の心情にか。それすら曖昧になってきた時、一つ舞い込んだ大きな依頼。それを片付けた帰り道、ネーヴェはとある裏路地でボロ雑巾みたいな、かつての自分のような、一匹の猫を偶然にも見つけ、そして唐突に決めたのだ。《彼女を演じるのは今夜が最後だ》、と。
 金色の満月が明るい夜だった。

*****

 金色の満月が明るい夜だった。
 天窓から降り注ぐ青白い月光がテーブルの上に四角い図形を描くのをぼんやり眺めながら、ネーヴェは黙していた。口を閉じているのは何時ものことだ。開く必要がない。月光とネーヴェと部屋には一つと一人。何かを思考しているようで、頭の中は真っ白だった。何も、考えていない。ただ、つらりつらりと思い浮かぶ記憶と現実、過去。《あれ》から地下には一度しか行っていない。それも餌を与える為に必要業務として降り立っただけで、タイル張りの大きな部屋に大きなボウルを放置してきただけだった。大蛇の姿はそこにはなく、どうやらドームの巣に、引き篭もっているようだったが、敢えてネーヴェも彼らとの接触を求めることなくそのままその場を後にした。数時間後に再び訪れた時もボウルが空になっている以外はやはり何の変化もなかった。ひんやりとした空気に包まれた地下室に漆黒の鱗の姿はなく、ネーヴェは来た時と同じようにドアに鍵を掛ける。
 あれから三日。
 明日にはバイヤーが二匹を買取に訪れる予定だ。手練の売人によれば、彼らはオークションにかけられるようだった。あのカニバリーパイソンの、それも二匹同時の出品。さぞや高値が付くだろう、と年を取ったバイヤーは、自分のことのように自慢げに言ったが、ネーヴェはぼんやりとそれを聞き流しただけだった。そうか、と思っただけだった。何がそうか、と思う。手塩にかけた、一時は愉快な感情も与えてくれさえした大蛇―夜叉と、夜牙が売られていくのだ。何処の誰とも知れぬ買い手。ひょっとしたらそれは嗜虐趣味の残忍な金持ちかもしれないし、生き物を宝石かアクセサリとしか思わぬ傲慢な貴婦人かもしれない。否、そんなことを言い出したらきりがない。得てして《売買》とはそういうもので、それは金銭と交換に全ての権利を譲り渡すということだ。二匹の全てを手放す代わり、ネーヴェは巨額の、恐らく巨額の金を得るだろう。今までだってそうだった。言わば繰り返し。何時もと変わらない。それに、ネーヴェが良き《持ち主》だと、嗜虐趣味の金持ちや傲慢な貴婦人よりもまともな主かどうかと言えば、そんなこともないだろう。ネーヴェだって、彼らと変わらない。存分に嗜虐的で傲慢で、その上、嘘つきで裏切り者で。
 《酷いものだった》、《本当に酷い》。
 ネーヴェが今までしてきたことで許されるものなど何一つない。異形として生まれ落ちたこと。父母を失望させたこと。両性であったこと。「祝福を受けられなかったこと」。逃げ出したこと。先生と出会ったこと。受け継いだこと。受け継いで、殺したこと。全てが、恐るべき悪行。自分で解っていて、解らなかった。では、どうすれば良いと言う。異形として生れ落ちなければ良かったのか?父母を失望させなければ良かったのか?両性でなければ良かったのか?「祝福を受ければ」良かったのか?逃げ出さなければ良かったのか?先生と出会わなければ良かったのか?受け継がなければ良かったのか?受け継いで、殺さなければ良かったのか?解らない解らない解らない。もしもそれが本当になるならば、ネーヴェは、此処にいるネーヴェはネーヴェでなかっただろう。だから、解らない。ネーヴェはネーヴェ以外のものにはなりたくない。当然だ。何故ならば、ネーヴェはネーヴェなのだから。しかし、存在が、世界が、解らない。ネーヴェは、どんな《正しい選択》をすれば良かったのだろう。どんなことを、選べば、正しく生きられたのだろう。誰も悲しませず、誰も苦しめず、誰も殺さず、誰も、裏切らずに。どうすれば、どうすれ、ば。
「ご主人様、」
 鈴の鳴る音のような声がすぐ足元から聞こえた。ゆっくりと視線を落とせば、何時も通り優美な姿のペルシャ猫が、愛猫であり、同居人であるアンティチークが静かなグリーンを湛えてネーヴェを見上げていた。彼女は、ネーヴェが大蛇を売り渡すと告げた時、何も言わなかった。何一つ、反することなく、深く眼を閉じただけだった。ネーヴェは何時も通り腕を伸ばして彼女を抱き上げるなんてことはせず、無言で落ちる月影に眼を戻した。猫はゆるやかに尾を振るい、ぱさりという音が僅かに沈黙の部屋に響く。外の雑踏は届かない。此処は月光の部屋だった。
「ご主人様が、わたくしを拾って下さったのもこのような夜でしたわね」
 唐突にアンティチークが言った。彼女の声は微笑んでいるのか、それとも哀れんでいるのか。僅かな湿り気を帯びて、ネーヴェの耳に届いた。ネーヴェは静かに相槌を打つ。ああ、と。猫は続ける。
「何だか夢のように月が大きくて…貴方はそれを背に立っていらっしゃった。噎せ返るような鉄錆の匂い。黒く乾いた血の痕は、すぐに貴方のものでないと解りましたわ。けれど、わたくし、不思議と貴方のことが怖くなかったんですの。ふふ、どうしてでしょうね。《貴方は確かに怖い人であったはずのなのに》。怖くなかったなんて。可笑しいですわね」
 彼女は笑う。
「どうして―どうして、わたくしのことを拾って下さったの?」
 彼女が、問う。
「………酷似」
「…哀れんで、下さったのね」
「…解らない」
「…ご主人様、」
「解らない。解らないんだ、アンティチーク」
 解らないと繰り返す主にアンティチークが悲痛そうに耳を下げた。今夜のご主人様は可笑しいですわね、という声にも、何処か緩やかな覇気がない。月のせいでしょうか、と見上げる瞳も潤って、まるで涙を湛えているように見えた。何故、彼女が悲しむのか、それすらネーヴェには解らない。ただ、彼女がそんな感情を吐露するのが、何故か痛く、そう痛くて、自然とネーヴェの瞳は硬直し、一点しか見据えることが出来なくなる。月光の図形。窓の形に切り取られた、枠。白い光は眼を焼くほどに白く、冷たい雫が何時しかネーヴェの頬を滑り落ちた。それが涙だと、理解するのに数秒。あ、と零したのはアンティチークだった。するすると落ちる塩辛い雫は嗚呼もう何時以来かも解らぬ、ネーヴェの涙だ。何故、落ちるのか解らない。やはり《解らない》ことに、ネーヴェは肺の空気を重く吐き出す。
「どうして泣いてらっしゃるの、ご主人様」
「………わからな、」
「《解らなくはありませんわ》。考えて下さいませ。どうして、泣いていらっしゃるんですの?」
 ぴしゃりと言い放ったアンティチークに内心少し驚き、戸惑いながらもネーヴェは静かに思考を探る。どうして、泣いているのだろう。何かが悲しいのか。何かが悔しいのか。何かが怖いのか。何かが嬉しいのか。少なくとも最後の選択肢は消去しながら、ネーヴェは考える。思考について、自分について、そう他ならぬ自分について、考える。ネーヴェという存在。感情。過去。今。選択。言葉。アンティチーク。―夜叉と、夜牙。二匹について考える時、殊更ネーヴェの胸は痛んだ。眼球の奥が熱く、それでいて氷を押し当てられたように痛い。全ての神経が痛みを受け取っているかのような、じくじくとした腐敗。ネーヴェは思わず、右手でぎゅと自分の左腕を掴んだ。
「…私、は………酷い、ことを…」
 そう、だ。それは、後悔。
「私は、本当は、私は私で、それはもう、それで構わなく、」
 そう、本当はとっくに受け入れてしまっていたことだった。気にしていない訳ではない。胸が痛まぬわけではない。だが、ネーヴェはすでに異形として生まれ落ち、父母を失望させ、両性であり、「祝福を受けられず」、逃げ出し、先生と出会い、受け継いで、受け継いで、殺した。それはもうネーヴェがネーヴェとして歩んだ道だと。幾ら思っても、嘆いても、引き帰せぬ過去なのだと。何度も考えて、何度も踏み均して、何度も言い聞かせたはずなのに。どうして、ネーヴェは粉々に崩れ落ちてしまったのだろう。何かに惑って、何かに迷って、何かに、囚われて。嗚呼、そうだ。彼らに―そんなことよりも、《彼ら》に酷いことをしてしまったのだ。ネーヴェ自身の惑いから、彼らを傷つけるような、ずたずたに切り裂くような(それも心を)、手酷い、ことを。
「酷い、ことを…」
 本当は傷つけたくなんてなかった(出来うることなら健やかに)。
 本当は慈しみたかった(護りたい心も身体も全てを)。
 本当はずっと共にあれれば良いと思った(永遠なんて言葉を夢見るくらい)。

 本当は、

 本当は愛していると微笑んで、囁いて、あげたかった。
 応え、たかった。その心に。
 その心。指先が震えるぐらい、綺麗なこころ。

「…やしゃ…やが…」
 まるで氷が溶けたように。熱い雫が次から次へと瞳から零れ落ちた。自分でも留めることの出来ない感情は、最早留める必要もないように思われた。アンティチークが軽やかに跳躍し、テーブルの上に飛び乗ると、月光が。四角く切り取られた無機質な光が揺れ、代わりに彼女の影がくっきりと刻まれた。誇り高きペルシャのプリンセス。
ネーヴェの唯一無二の姫君はグリーンの瞳を鮮やかに煌かせると、高らかに宣言する。
「さあ、ご主人様、もう思索の時間はお終いですわ。あとは成すべきことのみ」
「………しかし、」
 しかし、とは言っても何をどうすれば良いと言うのか。あれだけのことを言っておいて、しておいて、何を募らせれば良いと。言葉を濁らせたネーヴェに心底、呆れた感情を滲ませて、アンティチークが尾を振る。
「そんな《死ぬほどどうでも良い時間》はお終いだと言っているのですわ」
「………………………」
「取り返しの付かないこと、などという言葉は迷信ですわ。お忘れなさい。貴方の望みは何?貴方はそれを叶える為に何をなさったらいいの?簡単ですわ」
「………望み、」
 アンティチークの静かな気迫に押されるようにネーヴェは繰り返す。そう、望み。ネーヴェの望むこと。それならば確かに、もう決まっていた。叶える為に成すことさえも、勿論、叶うかどうかは解らないけれど、兎に角、今すべきことならば、すでに。ネーヴェの足一組さえあれば、できることだ。ネーヴェは美しい愛猫を見て厳かに告げた。
「………地下へ行く」
「はい」
「アンティチーク、」
「はい」
「…有難う」
「………はい、ご主人様」
 彼女の微笑に見送られてネーヴェは椅子を立った。足を動かす。震えそうな体の全てを叱咤して。嗚呼、確かに簡単なことだ。ネーヴェはこれから、ネーヴェの望みを、叶えに行く。


06/08/23

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