ibaraboshi***

home > 小説 > , , > 愛する夜のブルーマルガリータ 5

愛する夜のブルーマルガリータ 5

 今まで地下に降りるに当たって、憂鬱な気分になったことなど、ただの一度もなかった。だが、現在、ネーヴェは憂鬱だ。しくしくと何か得体の知れない棘が引っ切り無しに心臓を苛み、指先が痺れてくる。階段の上から下までは僅かな距離。一歩一歩踏みしめて降りれば、僅か五秒ほどで到達してしまうだろう。それが解っているからなのか。ネーヴェは階段の上でしばらく薄暗い階下を眺めながら立ち尽くしていた。無論、立ち尽くしていようが、歌を歌っていようが、何一つ解決しないことは解っている。解決。そうネーヴェには、どうにかしなくては問題が今両手に山のように抱えられていた。何から手を付ければ良いのか。何を話せば良いのか。何を思えば良いのか。何を告げれば良いのか。ネーヴェにはどの問いにも明確に答える術はないように思えた。それはネーヴェにとって会話が不得手な分野に当たるということではなく(否、それも一因ではあるが)、全ては迷っているせいなのだと僅かながらの自覚はある。迷う。本来ならば、ネーヴェとは無縁であるはずの言葉。言い換えれば、何を迷うことがあろうか、ということ。問題は明確だった。
 即ち《商品》である二匹の大蛇が成体と呼ぶに相応しき成長を遂げ、また彼らが《商品》でありながら何らかの要因により他者へと危害を加えようとし、《商品》としてネーヴェの手元で扱うのには若干の無理が出てきたと判断、ならば本来あるべき《商品》の扱いに戻すべきではないか。
 要するにそういうことだ。馴れ合いも養育も潮時だった。彼らには他ならぬネーヴェの店の《商品》として、そろそろ売却の手続きをしなくてはならない。しかし、その前にこれより人間に扱われる《獣》のさだめとして、なんとしても、解決しなくては問題が一つ。何故、彼らはアリスゼルに攻撃を仕掛けたのか。それが謎のままで、問題のままだった。巨躯と毒牙を持つ人食い、カニバリーパイソン。その名を返上しなければ、人の手で育て上げられた意味がない。その《大きな問題を解決すべく》、ネーヴェは重たい脚を引き摺った。階段を降りる音は常より空虚に響いて聞こえる。それは恐らくネーヴェの心持ちの問題であって、階段自体に一向に非はないのだろうけれど。かつんかつん、という足音に見えてくる両開きの扉。少しだけ隙間が空いていて、その向こう側の二匹の獣の気配が伺えた。ネーヴェはドアノブに手を掛ける。白いタイル張りの広い部屋に、二匹の大蛇が大人しくとぐろを巻いていた。ぴくりと気配を感じて二匹が同時に頭をもたげる。漆黒の煌きを持った堂々たるカニバリーパイソンの若者であるはずの彼らは、少々ばつが悪そうに、首を竦めて金色の視線を落としてみせた。ネーヴェ、と遠慮がちに夜牙が零す。夜叉は何も言わずに尾の先を揺らしただけだった。白と黒と金色と。それだけしか色がないような世界に滑り込む。
「怪我は、」
 簡潔に問えば、二匹が二匹とも頭を振った。一撃目の攻撃手だった夜牙は兎も角、アリスゼルに事実上刃を突きつけられた、夜叉の方もどうやら何処にも裂傷などはない様子。恐らくアリスゼルが本気で彼らを相手にしたならば、彼自身が言うとおり二匹分の大蛇の串焼きが出来上がっていただろうから、存分に手加減してくれたのだろう。そうでなくては。そうでなくては、彼らは今頃誰かを殺していたいた。その《人食い》の名に相応しき獰猛さを明らかにして。ネーヴェには解らない。何故、彼らが急にそのようなぎらついた刃を顕わにしたのか。今まで、彼らは実に大人しく、そして賢い優秀な《商品》だった。それなのに。何故、という問いは、ぽつんと独り言のように部屋に落ちたので、思わずといった風に二匹は顔を上げてみせた。金色の瞳がネーヴェを見る。鋭いながらも、それは戸惑う子供の眼だった。
「何故、襲撃」
「………、何故って…」
「あ、れはあの赤いヤツが悪ぃんだぜ!?ネーヴェに近付っから!」
「夜牙!」
「煩ぇな、キれたのは夜叉だって一緒だろうが!それに今更黙っとくのか!?《待つ》って、何時までだよ!」
「…だから、それはだな…!」
 二匹の間で繰り返される言葉からネーヴェが何か一つでも情報を得ることは出来なかった。ただ、喧々囂々と飛び交う言葉に頭が痛くなりそうで、それを必死で堪えながら、二匹の間に口を挟む。夜叉、夜牙、と微かなはずのネーヴェの声に二匹はぴたりと喧しい口を閉じた。ずっと、そうだ。ずっと以前から二匹はネーヴェの言葉に真摯に耳を傾けてくれる。それはネーヴェは饒舌な方ではないし、発する言葉も限られてはいるけれど。二匹はそれに批評をつけるだとか、不満を垂らすなどということはなく、ただネーヴェの言葉をネーヴェの言葉として受け止めてくれる。それが。それがそう、心地、良かった。
「解るように、話を」
「………………」
「………ネーヴェ、あのな、」
「夜牙、待て、」
「お前は黙ってろよ」
 ぎろりと夜叉を睨みつけた夜牙が神妙に前へ進み出て、ネーヴェと視線を合わせる。巨躯の大蛇はその凶悪な本性に似合わず、静かに金色の瞳を煌かせると、あのな、とまるで子供のように言い淀んだ。もたげた鎌首も少しも怖くはない。それは悩み、迷い、戸惑っている子供の姿そのもので、否、もう子供とは呼べなくなった青年の姿そのもので。そう実感した瞬間、ネーヴェはほんの少しだけ身構えたが、それが一体何の警戒なのか、ネーヴェ自身にも解らない。ただ、真っ赤な口を開いて夜牙が声を落とす。硬質な響きを含んだ透き通った声。刃のようで、美しい。
「ネーヴェ、俺はお前のことが好きだ」
「………………………………、私も、好き、だが?」
「ちっがうって、そうじゃねぇよ!ああっ、もうお約束のボケじゃねぇか!お約束過ぎて突っ込む隙もねぇよ!!ってか、すっげ可愛いぜネーヴェちゅーして良い、」
「良くねぇよ」
「いってぇ!!」
 後ろで控えていたはずの夜叉が反動を付けた頭部を夜牙のそれにミラクルヒットさせた。強烈な頭突きを食らった夜牙は、思わず痛みで呻いて崩れ落ちたが、夜叉は一向に気にした風もなく堂々とネーヴェの前に進み出た。一方、ネーヴェは堂々とするどころか完全に混乱して、頭の上に疑問符を幾つも浮かべている。というか浮かべるしかない。何が、一体、どうしたというのか。夜牙は「好きだ」と言ったが、そんなの言うまでもなく、ネーヴェだって夜牙が好きだ。明朗で気の良い夜牙。少々喧嘩っ早いところもあるが、それでももしも彼が大蛇ではなく、人であったとしても、純粋にネーヴェは彼のことが好きになっただろう。いや、そんな妄想を繰り広げている場合ではなかった。目の前にはもう一匹。理知的な金色を輝かせた夜叉が、やはり神妙に告げる。
「ヤツの二番煎じってのが気に入らねぇが…、俺もお前のことが好きだぜ」
「………………………、」
「ああ、この場合《好き》ってのは友愛・親愛の意味ではなく、愛情・恋愛・情愛の方の意味だ」
「………………………………………、」
「悪ぃな、今まで黙ってて。なんつぅか、俺ら、ネーヴェと違ぇだろ?それにネーヴェは《育ての親》でもあるわけだし、タイミング逃してだな…」
「ああ!?ビビッて腰引けてたのは夜叉じゃねぇか!俺は別に、」
「お前には配慮というものが足りねぇ」
「ああ!?」
「ついでに脳味噌も足りなかったか」
 やはり目の前で繰り広げられる喧嘩のような言い合いをネーヴェは呆然と見遣った。しかし、今度は彼らの言葉の、ただの一つも頭に入ってこない。《好き》?何だそれは、どういう意味だ?どういう、言葉だった?愛情?恋愛?情愛?違う。何だそれは。彼らはネーヴェが育て上げた、卵から生まれた二匹の子蛇の今の姿であって、決してそんなものではなくて、違う、そうではなくて、そうじゃなくて、嗚呼、そもそもネーヴェは《愛されるべきではないのに》。そうあってはいけないのに。それは、ネーヴェにとって全ての崩落を意味する、全ての崩壊を意味する。築き上げてきたもの全ての破滅。がくがくと脚に震えが走るのが解った。それはもう自分で止めることなど出来ない。ただ―怖い。けれど、どうにかそれを露出することなく取り繕おうと、ネーヴェは口を開く。ポーカーフェイス。心臓を、締め付ける。
「―私は、私は違う。私は、夜叉と夜牙の、…違う、なれない」
「ん?え、何で?」
「…ネーヴェってさ、《男》じゃねぇだろ?」
「!」
「でも、《女》でもねぇってか、どっちも、かな、正しいのは」
 驚きのあまり肩を跳ね上げたネーヴェに夜叉は緩く苦笑したようだった。気付いていたのだ。気付かれて、いたのだ。獣の嗅覚の鋭さ故か。確かに羽毛を持つ異形には通常より多いパーセンテージで《両性》のものが生まれることがある。男性性と女性性の共存の神秘。更に背に広がる翼と美しい容貌から、かつての神話の名残よりこう呼ばれることもあるか。
 《エンジェル》。神に祝福された翼の人。
 嗚呼、けれどネーヴェは違うのだ。そんなものでは、ない。そんな美しさなど一片もネーヴェは秘めてなどいない。師は―ネーヴェに生きる術を教えてくれた《彼女》は言った。「あなたは祝福を受けられなかったのね」、と。それは全く持ってその通りで、憤ることもなく、悲しむこともなく、ネーヴェはただ、そう思っただけだった。愛されなくて当たり前だ。ネーヴェには愛されるべき要素など一つもないのだから。そして、ネーヴェもそれを望まない。《彼女》がネーヴェに《それ》を与えず逝ったように、ネーヴェも何一つ望むべきではなかった。そう、言い聞かせて、そう信じることで、ネーヴェはこれまで生きてきたのだから。だからこそ、生きていけたのだから。温かい《受容》を一度も夢想したことがないと言えば嘘になる。けれど、だからと言ってそれを安易に望むことも、求めることも、ネーヴェにとっては背徳とも言えた。否、それは意思の蹂躙、と言った方が正しいか。
 非道で、なくてはならない。
 冷徹で、なくてはならない。
 謙虚で、なくてはならない。
 無味で、なくてはならない。
 簡単なことだ。彼らは《商品》だ。彼らの感情にネーヴェが応えることに、何の意味があるだろう。やがては売られてゆく。此処から、ネーヴェの知らぬ何処か違う場所へ。一時の馴れ合い。全ては終わるための児戯。彼らは勘違いしているだけだ。卵の時から共にあったネーヴェを唯一人の運命の相手として。それは多大な間違いで、それは多大な《迷惑》、で、ネーヴェは唇を噛み締めると、頭を振った。潮時。全てが。
「戯言、」
「え?」
「ネーヴェ?」
 嗚呼、そうだとも、ネーヴェ、否、《殺戮絡繰(さつりくからくる)》ネール・オヴェ・バレシア!
 裏切るのなんて容易いだろう?踏みにじるのなんて簡単だろう?
 何を躊躇う。何を悲観する。
 全ては予定通りで、全ては計略通り。
 彼らを育て、彼らを売り飛ばし、その金でネーヴェは生きる。
 ただ、それだけだ。
「戯言、だと言った。私は商人。お前たちはその《商品》―笑わせる」
「―な、」
「ね、ネーヴェ!?お前、本気で言ってんのか、」
「無論」
 獣でもこれほどまで明確に表情が変わるのだな、と人事のようにネーヴェは思った。それを引き出しているのは自分だというのに。その、全幅の信頼を裏切られ、尊厳を踏みにじられ、世界が今正に崩壊したような、その表情を。もう何度も、何度も、何度も、見てきたはずなのに。その何度も、何度も、何度もに、いい加減、飽き飽きして、《やめよう》と誓ったはずなのに。所詮は全てを薙ぎ倒すことでしか生きられぬのか。血塗れた掌を血で拭うように。青い瞳が氷のようだと誰かが言った。誰だったろう、何時かネーヴェが殺した相手、なのかもしれなかった。
「後日、売人が来る。それまでは静寂を」
「ネーヴェ!なんだよ…なんだよ、俺らが悪ぃのか!?」
「…何、言ってんだ、全然わかんねぇよ…説明しろよ、ネーヴェ…!!」
 言い募る彼らの言葉を背中で聞く。激情のままに無防備な背後に攻撃してくるかと思ったが、それはなかった。否、実際攻撃されたとしてもネーヴェには彼らをその場でぴくりとも動けなくさせられるような術があるのだが。積み上げられた情という情と、絆という絆ががらがらと崩れ落ちていく瞬間は、やはり気分の良いものではなかった。気にしないようと思っても、非道であろうと願っても、何かがネーヴェの心の隅に突き刺さる。それは決して命に関わるような傷ではないのに、触ればちくりと痛んで、ネーヴェの身を苛んだ。もう、そんな棘が幾つも幾つも幾つも、ネーヴェには突き刺さっているのだ。そしてまた今日、それが一つ増えた。
 がちゃんと扉を閉め、一度も掛けたことのなかった鍵を掛けた。まだ扉越しに彼らの低い声が聞こえてきていたが、ネーヴェは構わず階段を上り始める。声は、遠のく。空虚の音を響かせる階段の音が、妙に心臓に響いて、口からは獣みたいな呻き声が漏れた。
 涙は、出なかった。





《殺戮絡繰》ネール・オヴェ・バレシア またの名を《見えざる者》と呼ばれた、凄腕の暗殺者。
《風》の魔道を宿した暗器(それは針のような鋭利な棒状のものだったと推測される)を扱い、 依頼一つ、報酬次第で、どんな強固なガード下にいる要人でも殺してみせた。 しかし、二つの名の通り、《彼を直接目撃したという生き証人はいなく》、 外見上の特徴も何一つ情報は得られぬまま、当時WRO;16の分団長だった、 リオット・カスラ暗殺事件―通称「静謐なる惨劇」(新世界暦3044年)を最後に《彼》は姿を消した。
懸賞金額:10,000,000W 提供条件:DEAD OR ALIVE

―世界復興機構ギルドによる賞金首リスト 3049年発行版より抜粋―


06/08/21

新しい記事
古い記事

return to page top