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愛する夜のブルーマルガリータ 4

 二つの卵が感動的な孵化を遂げてから今週で約半年。言い換えて六ヶ月。季節は早春から初秋へ移った。しかし、年中最低気温が十七度を下回ることのない《ヤツハカ》では、秋めくと言ってもそれは路傍の草や低木のこと。確かに頬を撫でる風は涼しくなってきているが、それでもこれ以上季節が過ぎることにより、気温の低下は望めないだろう。否、低下してくれなくて幸いだ。そもそも、周囲に亜熱帯の密林が広がる《ヤツハカ》で気温の暴落などが起きれば、忽ち生態系は崩壊してしまう。夏はむあっとした湿気を含んだ熱に包まれ、冬はそれ相応に過ごし易い。そんな土地だからこそ、人も異形も獣も集まり易いのかもしれなかった。最も、夏の異様な熱気の要因の一つは、すり鉢状になった盆地の地形にもあるのだが。その事実を普段意識している者はこの街には少ないだろう。
 ネーヴェは店先で金色の鳥籠を取り外す。止まり木の無口なレモンイエローのカナリアは、異様な振動にも全く動じることなく、気だるげに翼を揺らめかせただけだった。華奢な矮躯にふわっとした羽毛。細いオレンジ色の脚など中々の美鳥であるが、カナリアだというの無口という決定的な欠点のせいで、今まで店の奥で彼女は一羽、孤独を堪能していた。よってネーヴェとの付き合いもそれ相応に長く、約一年半、ネーヴェは彼女に給仕を続けただろうか。青い小松菜が、何よりも好きな彼女(商品に固有名詞はないので常にネーヴェは牝の獣であれば《彼女》と心の中では呼んでいた)は、ネーヴェにも殊更愛想が悪かったが、今日この日を最後に店を後にし、ある一人の老女の元へと売られていく。
 老女はすっかり黒い髪を白髪へと変えてしまった人間の女性で、街の外れの小さなアパートの一室に住んでいるらしい。夫に先立たれ、僅かな貯えで暮らす彼女は死出の旅路までの短いパートナーとして無口なカナリアを選んだのだ。寂しげな微笑を皺と共に常時浮かべている彼女は件のカナリア嬢同様無口らしく、先述の情報もぽつりぽつりと、錆び付いた鋼を擦るような声で静かに少しずつ語られた次第であった。秋晴れの今日。紫色のストールをかけた老女は、杖を突きながらゆったりとした歩みでネーヴェの店へとやって来た。そして、まあ良いお天気で、と常套句を述べると、眩しそうに青空を静かに仰いだ。ネーヴェは年を取った人で、彼女ほど空を見上げる人に出会ったことがなかった。無口な老女は無口にネーヴェが差し出した無口なカナリアを見て、小さく微笑む。そして、小さな巾着袋から、封筒に入った僅かばかりの代金をネーヴェに差し出すと壊れ物を扱うようにそっと鳥籠を受け取った。持ち手が変わってもカナリアは少しも驚かない。ただ、漠然と別れを理解したらしく、やはり無口なまま首を傾げた。
「大事にします、有難う」
 カナリアではなく老女の声が雑踏から少しだけ隔離された店先で響き、深く会釈した彼女は鳥籠を下げて帰路に着く。老女の覚束ない歩みでゆらゆらと揺れながら、鳥籠の中のカナリアがじっとネーヴェを見つめていた。黄色の瞳は何か言いたいような、それでいて結局は何も発することなく、やがて人混みへと消えていった。結局、ネーヴェは彼女の歌声どころか声一つさえも聞くことなく、手放すことになった。別に特筆すべきことではない。商人であるネーヴェには、商品に手塩をかけることはあっても、愛情を注ぐことは無意味なのだから。恐らく彼女が一つ歌ってみせてくれたところで、ネーヴェには良い声だから良い値で売れる、程度の考えしか、起こらなかっただろうし、それはそれで無意味なことのように思えた。
 埃っぽい通りの風が吹き付ける。ネーヴェは何となくしばらく店先に立ち尽くしていたが、やがて身を翻すと、薄暗い店内へと戻っていった。縦長の穴倉の様相を構えた店の中。両脇に並んだケージには多様な獣たちが、息を潜めて蠢いている。無口な仮初の主人に彼らが特別な感情を抱くことはないだろうし、またネーヴェもそのように、ずっと心がけてきた。所詮は一時の共有であり、彼らは《モノ》だ。林檎を売る青果店はまさか林檎を愛するがあまり、手放したくなくなる、なんてことはないだろうし、またそうなってしまえば商売そのものが成り立たない。要するに獣商も同じことなのだろう。此処は商品が客の手に渡るまでの僅かな時間を過ごすための仮宿。その唯一の例外はアンティチークであり、彼女はネーヴェが誰かの手から買い取ったものではなく、ネーヴェ自身がその手で、道端から拾い上げてきた、真実の同居人であった。そう、《彼女だけが》。
 最奥にある扉を軽く押す。初秋とは言え、まだ午後の日差しは強く、喉が軽く渇きを訴えている。確か冷蔵庫にレモネードが残っていたはず、と意識を巡らせながらぐいとドアに力を込めた。
「うわッ」
 悲鳴が、聞こえた。
 思わず眼を見開いたネーヴェがドアに込めていた力を緩めると、その隙間から漆黒の鱗の一部が見えた。狭い廊下に金色の模様を刻んだ漆黒の鉱石がぐるりと横たえられ、ネーヴェは思わず天を仰ぎそうになる。しかし、見上げてもそこにあるのは薄汚れた天井だけである為、どうにか衝動を耐え、そっとドアを押し開いた。薄暗い照明の下、きらきらと輝かしいばかりの鱗を晒すその長い身体を眼で追えば、ゆらりと三角形の頭が、ネーヴェの頭上で揺れた。見上げれば、金色の瞳が人懐っこく細くなる。すでに大蛇と呼ぶに相応しい様相を兼ね備えた、漆黒の名を呼ぶ。夜牙、と少々咎める口調で落としてみれば、ごめんなさい、と言わんばかりに彼が頭をすり寄せてきた。すでに片腕で支えるのも苦労するような大きな頭部に、担ぎ上げるなんてとんでもなくなってしまった長躯。体長は優に五メートルを超えた。子蛇の時には紐のようだった身体自体も筋肉質に太くなっていき、揺蕩う長躯は巨躯と呼べるほど、逞しさを増している。最早、成体と呼べるのか、否か。その辺りの判断は付きにくいが、しかし、彼らも無邪気な少年時代を終えようかということは確かだろう。実際、最近知恵がついて困るのだ。
「…夜牙、」
「だってネーヴェ、《下》に居ても凄ぇ退屈だったんだぜ?テレビの調子悪いし、夜叉は小難しい本読んでるし…」
「勝手な外出、禁止」
「解ってるって。表には出ねぇから、ちょっとだけ、な?」
 駄目?と首を傾げる大蛇に思わずネーヴェは軽い吐息を零した。甘やかしてはいけないと、禁止事項を破った場合は、何らかの罰がなくてはいけないと、解ってはいるのだが。そう軽やかに言われてしまっては、何時もその気が失せてしまう。「甘い」と自分でも解っている。アンティチークにも言われた。だが、ネーヴェにはやはり彼らに厳しく当たることは出来ない。何と言うか《楽しい》のだ、きっと。彼らが引き起こす騒動も、彼らが言い出す突飛な言葉も、全てが。新鮮で、楽しい。《楽しい》なんて言葉を思ったのは、一体何時以来のことだろう、と夜牙の頭を撫でてやりながら、ネーヴェはぼんやりと考える。曖昧なネーヴェの記憶は酷く頼りない。楽しい、たのしい、タノシイ。まるでソーダ水の如き泡沫の言葉はネーヴェの頭の中に浮かんでは消えていった。
「夜牙!」
 鋭い声が届いたのはその時だ。見れば、漸く読書に没頭していた兄が異変に気がついたのか、ゆらりと巨躯を引き摺って、地下から這い上がってくるところだった。二匹は並べ立ててみてもほとんど外見ではその区別を付けることが出来ない。と、言っているのは実はアンティチークだけで、ネーヴェは二匹を明確に見分けていた。曰く、夜叉は目つきが多少柔らかく、その鼻先から腹側へのラインが優美であり、プライドの高さを示すように金色の瞳は真っ直ぐ前を見ていることが多い。一方、夜牙は目つきが夜叉よりも少し鋭く、逞しい身体を殊更強調するようにゆったりと構えていることが多い。他にも金色の模様が僅かに違っていたりするのだけれど、どうやらそれは毎日彼らと接しているネーヴェだからこそ、解る判別方法であって、稀にしか自分の《弟》たちに出会わない彼女には、心底不思議な現象らしかった。
「お前は、何度ネーヴェの言い付けを破ったら気が済む…!」
「うっせぇなーお前だって出てきてんじゃねぇか」
「それはお前が出てったせいだろう!?」
「ああ?こういう場合《喧嘩両成敗》だろ?なぁ、ネーヴェ?」
「……、正誤、不明」
 本当に不明だった。首を傾げるネーヴェの横で、鎌首をもたげて対峙する二匹の兄弟蛇は未だに何か言い合っている。だが、そこに殺気らしい殺気は含まれていないので、どうやら血を見るほどの惨事になることはなさそうだった。これも一つ、彼らの成長と呼べるのか、二匹の兄弟喧嘩は相変わらずだったが、それは主に口による言い合いで、ネーヴェが止めに入るまでもなく、何時しか立ち消えになっていく。むしろ二匹は本格的にそれをコミュニケーションとして、盛り込んでいるのではないかとネーヴェが勘繰るほど、夜叉と夜牙はつまらないことまでよく喧嘩腰で会話していた。こんな風に夜牙が突拍子もない振る舞いを引き起こした時は勿論、些細な本の記述の見解の不一致から、どちらの方がゲーム(それは主に脳内チェスだった)に優れているかまで。カニバリーパイソンは恐らく他の多くの爬虫類と同じく、単体で生活するものなのだろうが、それを歪められた二匹だからこそなのか、兎角彼らの口の悪さは眼を惹いた。まあ口が悪い程度では希少価値に響くようなものではないだろうけど。それにネーヴェには彼らより一層口の悪い知人が、何人かいたのでそこまで深刻視していなかった。むしろ、微笑ましい気持ちすらもって、彼らの言い合いを眺めている。それは本当に気の置けない兄弟がじゃれあっている様のようで、何処か羨ましくもあったのだ。彼らは確かに母親を同じくする、血の繋がった兄弟で、正に「カニバリーパイソン」という枠に括られた、確かな種族なのだと。
「ネーヴェ!ネーヴェ、いるか!?」
 遠く聞こえた声は無論、二匹の大蛇のものではなかった。ぴくりと一斉にお喋りを止め、聴覚を研ぎ澄ませた二匹が、ちろりと舌を出す。嗅覚の器官にもなっている舌を出す行為は警戒の合図だと知っているネーヴェは、彼らを宥めると、目線だけで廊下の奥へ行くように促した。二匹は不満げに金色の瞳を眇めたが、ネーヴェの強い視線に渋々従う。ドアをきちんと後ろ手で閉め、ネーヴェは薄暗い店内の中から外の明るい方向を見遣る。見れば、真紅の髪の男が。真紅の髪に真紅の瞳に真紅の妖精を連れた褐色の肌の青年が、あまりにも堂々とその場所に立っていた。咥え煙草が妙に似合う。男としてはあまり厳ついとも言えない彼は、半年ほど前にちょっとしたことで知り合った《狩り師》だ。鉄刀妖精を引き連れ、鋭い赤を秘めた彼は、口は相当に悪いが気の良い男で、今でもこうして何か用向きがある度に、ネーヴェの店に顔を出す。名はアリスゼル。夢の少女か、とネーヴェが呟けば、とても嫌そうな顔をしたのを覚えている。
「緋色、何用」
「おう、悪ぃがちょっとこいつ診てくれねぇか」
 ネーヴェが彼を緋色と呼ぶのは彼の名を知らなかった頃の名残がそのまま定着してしまったからだ。あまりに相応しいあだ名にアリスゼル自身もあまり気にならないのか、彼は包帯でぐるぐる巻きにされた右手を差し出した。眉根を寄せるネーヴェにアリスゼルは珍しく照れ隠しのように笑う。いやそんな深刻な話じゃねぇ、と。
「火傷だ。ったく、《爆炎》のドルチェヴィータの遣い手ともあろう俺が火傷だぜ?我ながら阿呆くせぇったらありゃしねぇよ」
「……何事」
「油。エビフライ。大惨事」
 そう言って彼はくゆりと紫煙を吐き出して笑った。成る程、確かにそれは冗談にもならない。というか笑い話にしかならないだろう。僅かにネーヴェが相好を崩すと、アリスゼルはというわけでよ、ともう一度右手を出す。
「針で麻痺させてくれ。別に大したことねぇんだが、流石に治りかけで気になんだよ」
「良いのか?」
「ああ。明日仕事が入ってるからな」
 あと包帯も何とかしてくれ、苦手なんだこういうの、と呟く彼にネーヴェは緩く微笑んだ。普段は《真紅の破壊》とさえ呼ばれ、ギルドの内外から恐れられる彼だが、こうしていれば何てことはない、単なる不器用な青年に見えるから不思議だ。確かに医術はネーヴェの得手であり、針治療に至っては街一番の評判さえ取る。最も、正規の医者ではないし、価格も安値とは言えないが、ちょっとした事情で病院などに駆け込めない人々のもしもの診療所ぐらいにはなっていた。アリスゼル曰く、獣臭い店より消毒臭い店にした方が儲かるぜ、とのことだが、その辺の事情はまだ保留だ。とりあえず彼の右手の治療の為に手を伸ばす。成る程、そういえば彼は右が利き腕だったので、これではさぞや不便だろう。巻いておけば良いか、と言った適当極まる包帯を解こうとネーヴェが彼の指先に触れようとした瞬間。
 漆黒が奔った。
 な、という呟きは誰のものだったのか。それを漆黒の鱗を持つ夜牙が初めて見せる獣の本能に基づいた俊敏な動きであると、判断を付けるのにあまり時間はかからなかった。しゅーという警戒音と真っ赤に開かれた口。確かにアリスゼルの身体を、一撃でしとめるべく狙った攻撃はしかし、素早くバックステップした彼によって避けられた。予想外の襲撃にも流石、と言いたいところであるが、しかしそんな場合ではない。毒牙を持つ大蛇は一匹ではないのだ。そう、《一匹では》。
「緋色!逃げろ!」
 鋭いネーヴェの声に驚愕したのは一体どちらだったのだろう。しゃりりと鱗の触れ合う音が薄闇の空間に響き、もう一匹、鮮やかな黒を纏った鱗が駆ける。それは完璧な攻撃だった。夜牙が最初の一撃、外れれば囮。そして、留めを加えに音もなく近寄っていた夜叉が飛び掛る。恐らくチーム攻撃など、カニバリーパイソンでは全くの異例。今まで確認されたこともないだろう、と咄嗟にそんなことを考えた自分が嫌だった。目の前では漆黒の鱗が翻り、
真紅がその向こう側に見えた。がぱり大きく開かれた夜叉の口は真っ赤で、アリスゼルの瞳もまた真っ赤で。それがまるで血の色のように思えて、眩暈を覚えた瞬間。そう、それは恐らく夜叉の牙が彼に突き刺さる瞬間でもあった。
 だが、それは成し得なかった。
 見えたのは真紅の妖精が輝く光。獣に勝るとも劣らず鋭くなった真紅の瞳に、右手に確かに握られる鋼の煌き。《ドルチェヴィータ》という甘ったるい名前なぞ実に不似合い。全てを薙ぎ倒す荒々しさを秘めた刀が構えられ、残影が迸る。
「―斬―」
 それは一瞬。全てが終わり、そう全てが終わった時にしか、ネーヴェは事態を把握出来なかった。気がつけば周囲のケージに押し込められた獣たちが尋常ではない殺気に慌てふためき、床に頭を垂れた夜叉と、その鼻先の寸前に突き刺さった鋼の刀身。ギラギラとした瞳を輝かせながら、アリスゼルが不気味に笑う。それは、獣を怯ませるには十分な、そう店内の全ての生き物を絶対零度の死の予感に包ませるのに十分な笑みだった。
「図体ばっかでけぇガキのくせに勘は鋭ぇな…」
 凄みのある声がぎろりと底光りして全てを射抜く。夜叉は彼を見据えたまま、動けない。夜牙も同様のようだった。それほどまでにアリスゼルに、《真紅の破壊》にステージ上の全てが支配されていた。ステージ。それは戦場。
「引け。串焼きにされてぇか」
 思わずと言ったところだろう。全身を振るわせた夜叉に、沈黙が満ちる。ネーヴェが静かに声をかけた。此方へ、という声を、何とかネーヴェのものだと判断したのだろう。僅かに金色の瞳を背後に向けてみせた夜叉に、アリスゼルも鼻を鳴らして、刀を引き抜く。ゆっくりと、静かにネーヴェの元へ戻ってきた夜叉とあまりに不安げにネーヴェを見上げる夜牙を、二匹一緒にドアの向こう側に押しやり、地下へ、とだけ告げて閉めた。向こう側ではしゃりりりとしばらく鱗の擦れる音が続き、どうやらネーヴェの言葉通り彼らは地下へと戻っていったようだった。大きく息を吐く。頭が、混乱していた。何が起きたのか、よく解らない。ただ、信じられないようなことが起こって、それに彼を巻き込んでしまったということだけが、静かにネーヴェの脳裏に浮かんでいた。あれは、正に命の遣り取りだった。一歩、何かが間違っていれば、確実に死んでいただろう知人は、しかし、やはり鼻を鳴らすと、鉄刀を左手で携えていた鞘に丁寧に仕舞いこみ、何時の間にか落としていた煙草をつま先でぐりりと消した。
「ネーヴェ、ペットの躾ぐらいしてくれ」
「…すまない」
「しかし、何だあいつら。やけに凶暴じゃねぇか。俺が何かしたってのか」
「すまない。外を知らぬ子ら、予測するに緋色を敵と認識」
「ああ?」
「卵より養育。あれらは私を母と思う」
「母親だあ?」
 ますます怪訝そうな顔をしたアリスゼルはポケットからくしゃくしゃになった煙草を取り出し、一本火を点けながら、眉根を顰め、髪を片手で掻き回した。あーとか何とか呟く彼の左手の中、漸く警戒を解いたのか、刀が妖精の姿に戻る。ちかちかと明滅する真紅の光は相変わらず、アリスゼルの真っ赤な頭の上にこてんと乗っかった。
「そういやお前、浮いた話の一つもねぇし………鈍そうだし、なぁ…」
「…何の話、」
「いや?俺は馬に蹴られんのは御免だからよ」
「………緋色、」
「だから、恨めしそうな眼で俺を見んなよ…まあ、青臭ぇ悩みを受け止めんのは年長者の役目だから、今回ばっかりは噛ませ犬未満ぐらいやってやるって、ヤツラに言っといてくれ」
「………………意図、意味、不明」
「自分で考えな」
 そう、ネーヴェより余程年下の彼は鬱蒼と微笑むと、とりあえずこれ、と言って先程と何一つ変わらぬ仕草で右手を差し出した。ネーヴェは彼の手を取る。今度は、漆黒の疾風が乱入してくることはなかった。





アリスゼル・ゼムン。先日の昼食、エビフライ五尾。
熱された油で右手を負傷。人間ならば通常一週間のところ、二日でほぼ完治。
念の為、塗り薬を付与。針で痛覚を一時的に麻痺させる処置を行う。

―紺色の手帳 十の第一周期六日目より抜粋―


06/08/21

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