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愛する夜のブルーマルガリータ 2

 地下室の改築に要した時間は約三日だった。元よりネーヴェが保持していた膨大な量の書物やガラクタは、三つあった地下室の中の一つに集められ、階段を降りてすぐの最も広い部屋は総タイル張りの床が漸くお披露目となり、アンティークの棚を二つ残して、後は小さな水場を設置した。そこから繋がる二つの部屋。一つはガラクタを押し込んで、厳重に扉に鍵がかけられ、もう一つは扉を取り壊して入り口を縮めると、中をドーム状の穴倉のように成形した。これはカニバリーパイソンが樹の洞などを棲家にすることを慮ってのことだが、実際そのような配慮が必要だったかは不明だ。何しろドームの部屋の中。敷かれた真綿と水苔の寝床にむっつりと鎮座している二つの卵は沈黙を保ったまま。保温用に照射される橙色の照明で艶やかに黒光りする卵の気持ちなど、ネーヴェに解るはずもなく、また耳を当てれば時折がさがさと動く気配からとりあえず、《彼ら》が死んではいないことを確認して、胸を撫で下ろす日々。通常の業務を店先で行う時と食事を摂る時以外、ほぼ卵の部屋に通い詰めの主に苦笑を零して愛猫は言った。
 ご主人様はどうなさってしまったのでしょう。そんなに《何か》を気になさるなんて。
 それはネーヴェ自身にも解らぬ現象だった。ネーヴェが四時六中張り付いていなければ、大事な商品が死んでしまう、ということは全くない。自然の状態では母蛇が暖め、保護するはずの卵には真綿と照明が代わりを務めている。何を気遣う必要もない。むしろ今手をかけてやらねければいけないのは、店先の鸚鵡や鼠の方だろうに。しかし、ネーヴェの意識は気がつけば卵の方へと向いていた。早くも三ヶ月。そんな生活が続いている。
 まだ生まれぬ命を封じ込めた硬質な輝き。言わば母親の胎内がそのままそこにごろんと転がっているような卵が二つ。彼らを包み込むドームの部屋は、不思議な緊張感と穏やかさを持ってネーヴェを迎える。柔らかな湿気に、皮膚に纏わり付くような温度。それは人にとって決して快適な環境とは言えなかったが、ネーヴェはこの部屋を、殊更嫌っているわけではなかった。ばさりと背中の翼を小さく振るわせる。僅かな風が巻き起こり、体温と空気を混ぜ込んだ。靴を脱ぎ捨て、真綿の巣へとそっと入り込む。棘一つない柔い感触が足の裏を包み、心地良かった。二つの卵はネーヴェの来訪にも何ら変化を催さない。当たり前だが。静かに卵の傍で腰を降ろし、ネーヴェは手を伸ばす。ひんやりとした温度は指先から伝わり、それが確かな《殻》だということを伝える硬質な重みが感じられた。
 二個の卵を分け隔てることなく、存分にその感触を確かめたところで、ネーヴェはそっと両腕を伸ばして、卵を二つまとめて抱きしめる。そして、片方ずつ耳を当てて確かめるのだ。生命の鼓動の音。確かに聞こえるそれは、まだ卵が卵である証。視界は長い髪のカーテンで遮られ、その時、ネーヴェの眼に映るものは青い色以外なくなる。サファイアの瞳を閉じれば尚更。とくりとくりと脈打つ心臓の鼓動だけが、まるでネーヴェの鼓動と混ざり合うことを、望んでいるかのように。とくり、とくり。重なっては、離れて。ほぼ毎日のようにそれを確かめているネーヴェは気付いていた。最近、穏やかな鼓動の音に混じって聞こえるのだ。コツコツとドアをノックするような音。否、実際それはノックなのかもしれない。殻というドアを開いて、世界へと入る。卵という部屋から出ても尚、世界という部屋だというのは何かの皮肉にもならないが、実際、世界はバームクーヘンのように何処まで行っても限りなく、否、限りある部屋の連続みたいなものだ。外へ外へと望んでも、あるのはまた何かの《内》。それは別に悲観すべき真実ではなく、ただの真理だ。
 成長とはノックすることなのかもしれない、と多少詩的なことを考えたところで、ネーヴェは卵に寄り添うようにして身を縮めた。もしもこの背の翼が大きければ、母蛇のようにはいかなくとも、母鳥のようには包んでやれるのに、と益体もないことを思い、耳から伝わる鼓動の音に擦り寄る。冷たくて、温かい。その微妙な温度に何時しか、ことりと意識は揺らいで、ネーヴェはそのまま真綿の匂いが香る夢の中へと落ちていった。

*****

「……ごしゅじんさま……ご主人、様、!起きて下さいまし!」
 柔らかな肉球がぺしぺしと頬を叩く感触でネーヴェは鬱蒼と眼を覚ました。見れば、目の前にはアップルグリーンの瞳。呆れてヒゲをそよがせたペルシャ猫が人間で言うなら、腕を組んでそっぽを向く、ぐらいはやってのけそうな様子で口を開く。
「全く。卵が気になるのは解りますけれど、こんなところでお眠りになっては風邪をひきますわ」
「………すまない」
「…ふふ、そう殊勝な顔なさらなくても宜しいですわ」
 そう言うアンティチークはすでに言葉の端に笑みを滲ませていて、どうやら態度ほど怒り心頭というわけではないようだった。ずっと同じ体勢で眠っていたネーヴェはまだ抱きしめたままだった卵から、そろそろと身体を離す。流石は大きさも規格外の、大蛇の卵だけあってネーヴェが抱いて寝たぐらいでは罅一つ入らない。否、ここはそろそろ罅の一つも入ってほしい頃だが。残念ながらその気配もない様子にネーヴェは青い瞳を巡らせてから、静かに伏せた。
 カニバリーパイソンの人工飼育下での孵化の事例はない。それどころか卵が母蛇と共に発見された例も、生きたまま回収された例もない。専門の文献も幾つか洗ってみたが無意味だった。一応、一般的な蛇と同様の環境で、孵化を試みてはいるが、それがどんな結果をもたらすかは今のところネーヴェにも解らなかった。ひょっとしたら、全て無駄に終わるかもしれない、という悲観的な見通しの方が今ははっきり言って強い。確かに静かな鼓動を繰り返している二つの卵ではあるが、しかし、何時その音が弱まり、消えていってしまうかは、解らないのだ。全ては、鍵のかかった部屋の《内》での出来事なのだから。手を入れることさえ出来ない、世界の密室。
「…あら?」
 卵に触れたままぼうっと物思いに耽っていたネーヴェに愛猫の鈴の音のような声が届いた。見れば、彼女は不思議そうに、そのグリーンの瞳を見開いて卵の一つを見つめている。主人の視線に気がついたのか、顔を上げて彼女は言った。ひびが、と。ひび?と一瞬何のことやら意識が違う方向に飛んでいたネーヴェは首を傾げたが、しかし、こつん、という音で、はっきりと我に返る。罅、ノックの音。部屋の鍵が開く。世界へと開け放たれる。黒い卵の殻がピシリと罅入った。思わず一人と一匹は顔を見合わせ、息を呑んで卵を注視する。罅が入ったのは、ネーヴェが左腕で抱いていた卵だ。こつん、こつん、と確かに殻を突き破らんと繰り返されるノック。それに応えるかのように徐々に破れていく強固な殻。繰り返される音はやがてリズムを刻むように忙しなくなり、時折数秒の休憩を挟みながらも、休むことなく続いた。それは何分か、何十分か、時間さえ緩慢にさせるような音の連続が漸く止む時には。割れた殻の隙間から、卵の部屋を優しく満たしていた羊水が溢れ出し、黒い濡れた鱗が覗く。まだ柔らかそうな三角形の頭が少しだけ見えた。鼻先にある恐らく爬虫類の中でも有鱗目特有の卵角が誇るようにくいと伸びて。
 キューイ。
 甲高い音が初めての呼吸の声なのだと気付いたのはしばらくしてからだった。金色の宝石みたいな瞳が、ぱちくりと世界を認識するように動き、そしてネーヴェを捉える。鮮やかな色彩。魅入られて動けなくなりそうな確かな魔力が、生まれて数秒にも満たない獣にも確かにあった。それは人では決して得られぬ野性の鋭利。すでに掌ほどもある頭を、緩やかに動かして、大蛇は全身の筋肉を振るわせた。卵はぱきぱきとすでに用を終えて、彼の下で崩れ落ち、黒い殻の上でそれよりもずっと美しい黒い鱗がうねる。生まれたばかりの子は初めての移動を開始した。世界の上。殻よりも確かに広い、この部屋で、彼が最初に目指すもの。
 アンティチークが思わず、ご主人様、と声をあげたのも無理はない。子蛇とは言え、漆黒の鱗を持つ彼らは毒蛇だ。その牙にはすでに毒素が備わっており、噛まれれば恐らくネーヴェは今日明日とも知れぬ身となるだろう。しかし、ネーヴェに不思議と恐怖感はなかった。それどころか、まるで子の誕生を待ちわび、そして漸く訪れた邂逅に、歓喜している母親のような心情で彼を迎える。小さな金色の瞳がネーヴェを捉えて離さない。小さな硝子球のようなそれに、一体何の力が宿っているというのか。真綿の寝床を這って来た子蛇は漸くネーヴェの膝元にまで辿り着くと、どうだと言わんばかりに鎌首をもたげて見せた。ちろりと二股に分かれた舌が覗き、ネーヴェは緩く笑む。手を伸ばして、指先で黒い頭をそっと撫でた。子蛇はそれを心地良さそうに受けて、目を細めてみせた。それどころかもっと撫でろと言わんばかりにネーヴェの手に擦り寄ると、腕に絡みつくようにして甘えてくる。
 確かな親愛の表現を受けて、微笑するネーヴェに心底驚いたようにアンティチークが呟きを落とす。常に優雅な姿勢を保つことを美徳としている彼女もこの時ばかりは、色々なことが起こり過ぎて、言葉を捜す術をなくしたらしい。まあ、という真実、彼女の感情を表した鈴の音はやがて聞こえてきた次のノックの音と一緒になってネーヴェに届いた。もう一つ。卵は一つではなくて、二つ。すでに登場を終えた兄蛇(ということになるだろう)とネーヴェが見守る中、徐々にノックの音は大きくなり、やがて罅入る黒い殻。覗く黒い頭に、やはりキューイと高い呼吸音がして、金色が現れる。世界を感じ、匂いを得て、音を拾い、外を認識する子蛇はやはりというか、最終的にはネーヴェにその視線を寄越して、移動を開始する。彼らに卵の内部からネーヴェの姿が見えていたとは思えない。しかし、彼らは確かにネーヴェを、《他とは違うもの》として認識しているようだった。その証拠に、先程から蔑ろにされているアンティチークがちょっと、面白くなさそうだ。無論、彼女も体液でべとべとの子蛇に纏わりつかれたくはないようなので、その辺胸中複雑なようだが。
 兄蛇と同様にしてネーヴェの元に辿り着いた子蛇がゆるゆると三角形の頭を腹の辺りに押し付けて、甘える。その心情を汲むように顎をくすぐってやれば、彼は心地良さそうに金色を揺らめかせた。ネーヴェの片腕にすっかり巻きついていた兄蛇がおもむろに頭を伸ばして、弟蛇に触れる。別々の卵に納まっていた彼らに、一体どんな絆があるのか知れないが、しかし彼らは警戒する様子もなく、互いにこつんと鼻先を合わせた。まるで儀式のようだった。同じ母親から生まれながら、別々の世界で過ごしてきた二匹が始めて同じ世界を共有する。その始まりをネーヴェの体の上で行った彼らはどうやら完全に異形の青年を《身内》だと認識しているようだった。母親とまで思っているかどうかは解らない。何しろネーヴェが持つのは羽毛の翼であって、決して漆黒の鱗ではないのだから。
「ご主人様、名前をお決めになったら如何?」
 アンティチークが子蛇二匹に纏わりつかれている主人に進言する。ネーヴェは基本的に商品に特別な感情と愛情をもって、接することがないので、その象徴とも言える名前は付けない。しかし、今回に限っては同じ姿のものが二匹もいることだし、何より《特別な商品》として扱うことに名前は必要なことのように思えた。……まあ全ては詭弁かもしれないけれども。全ては、傲慢なのかもしれないけれど。そして、それら全てを見透かしたように微笑する愛猫は恐らく促してくれただけなのだ。小さなずるい愛情にそれでもネーヴェは感謝して、しばし思案するふりをした後、小さく指先で兄蛇を小突いた。
「夜叉(やしゃ)」
 それからまだ腹の辺りでぐるぐるしている弟蛇を小突いて言う。
「夜牙(やが)」
 命名が終わるとアンティチークが白い尾をたっぷりと揺らして眼を細めた。思えば、彼女に名を与えたのもネーヴェだった。以前の飼い主に捨てられ、野良猫同然、白い毛皮を蚤とごみでずたぼろにされた灰かぶりのプリンセスを、アンティチークと名付けたネーヴェは、彼女を生まれ変わらせた親と言っても良かった。あの時、確かに彼女は、新たな世界の扉をノックしたのだ。古い殻を踏み潰し、顔を覗かせ、恐る恐るながらも肺で呼吸し、眼を開いて、耳をそばだて。そして生まれる。新たな世界。穏やかにサファイアの瞳を落としたネーヴェに金色の瞳が四つ応える。
 キューイ、と甲高く同時に鳴いた彼らのその声が、甘えているのだと知ったのもこれよりもう少し後の話になる。





場所 孵化用卵室(ドーム状・真綿と水苔を使用・樹木の洞を再現)
温度/湿度 25℃/68%
孵化日数(推定) 100日
備考 インプリンティング現象を越える刷り込みを確認。詳細不明。

―紺色の手帳 六の第二周期三日より抜粋―


06/08/19

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