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夜話にウォッカマティーニを

 アリスゼルは半眼になって目の前の惨状を見下ろした。
 惨状。そう正しくそれは惨状と言っても良いだろう。ドーム状に繰り抜かれたみたいな部屋にはふかふかの真綿と水苔が、いっぱいに敷き詰められ、ともすれば足が取られて転んでしまいそうだ。しかし、《彼ら》にはそんな悪条件など無意味。艶やかに光る漆黒の鱗に金色で不可思議な模様が刻まれ、金瞳は親の仇でも睨み付けんばかりにアリスゼルを見ている。二匹だ。三角形の頭と部屋に恐るべき存在感を与える大蛇が二匹、明らかな威嚇の体勢を取って、目の前にいる。そして、とぐろを巻いた二匹の間には、まるで護られるように(否、実際護っているつもりだろう)一人の青年が眠り―、否、眠ってなどいない。青い髪はぞわりと乱れ、アリスゼルと違い元々白い肌は今や蒼白なまでに顔色が悪い。薄く開いた唇からは今にも死んでしまいそうな微かな呼吸音だけが聞こえ、晒された素肌には何も纏わず、ただ少し痛々しいばかりの赤く変色した痣や、どう見ても、どう考えても、どう頑張ってみても、情交の痕としか見えぬ、白い液体とか白い液体とか白い液体とか。アリスゼルは、それらを半眼で見下ろす。
 どうしろってんだこの野郎。
 現在、時刻は正しく真夜中。古い言い方を敢えて引っ張り出すなら、《草木も眠る丑三つ時》。夜遊びの趣味などないアリスゼルは、今日も規則正しくベッドの中で誠実な眠りを貪っていたが、夜半過ぎ、己の顔をふにふにと押してくる柔い感触で目を冷ました。もしも、アリスゼルに悪戯好きの恋人、なんてものがいたら、それは一瞬で甘ったるい時間に変わっただろうが、幸か不幸か、そんなものはそもそも存在せず、薄っすらと真紅の瞳を見開いたアリスゼルが眼にしたものは、グリーンの瞳のペルシャ猫。口にはドブネズミ。場所はアリスゼルの胸の上。不覚にも悲鳴をあげそうになったアリスゼルが、何の嫌がらせかと怒鳴る前に、猫は切羽詰った声で告げた。「ご主人様を助けて下さい!」、と。ぽかんと口を開けたアリスゼルに更に言い募ること、「この上物のネズミを差し上げますわ…!」。
 いらねぇよ。
 しかし、どういう訳か。どういう訳だか、アリスゼルは彼女に急かされるまま、獣商の家に招かれ、現在に至る。必死だった猫に比べて、向けられる敵意は不条理なほど。彼女が言うご主人様は正に目の前なのだが、助けようにも助けられない。何しろ、金色の瞳を持つ二匹の大蛇は悪名高きカニバリーパイソンだ。その牙に人間一人殺すのに容易い毒素を持ち、性質は残忍、狡猾、凶暴。獣商であり、友人でもあるネーヴェが、彼らを飼い養っていたことは知っていたが。しかし、やれやれ。本当に《やれやれ》だ。ペットに口説き落とされていれば訳はない。彼も血と魂の通った人だったという訳だ。ちょっと感性がずれているが。それにしても、初夜でヤり殺さるとなっては笑い話では済まない。アリスゼルはネーヴェと誓いを立てあった盟友、という訳ではないし、死んでもらっては相当困るという訳でもないが、しかし助けを求められておいて、目の前で死なれるのも、大層後味が悪い。しかも、好き合った者と漸く交わったその夜にぽっくりなんて、最近じゃドラマでも流行らない。まあ、実際、ネーヴェが本当に死にそうかどうかは兎も角。元々、青い髪に青い瞳に青い翼なんて、儚げな容貌をしているせいで、二匹の屈強な大蛇に囲まれているネーヴェは殊更、弱りきった動物に見えた。《やれやれ》。
 アリスゼルは一歩踏み出す。《敵》の接近を感知して、大蛇が二匹同時に威嚇の声をあげる。掠れた呼吸音のようなそれも、しかしアリスゼルは気にせずにずんずん進む。元々、彼らはアリスゼルにこっ酷くやられているのだ。否、実際に手を出してはいないが、あれ程の力の差異を見せ付けられたら、本能的にアリスゼルを警戒する―恐れる。だから、アリスゼルは恐れない。恐れず、ずんずん近付いて、背後でネーヴェの愛猫が止めるのも聴かず、ずんずんずんずん歩いて、口を開いた二匹の大蛇に向かって両手を突き出すと。
 勢い良く、両手で拳骨を食らわした。勿論、二匹の大蛇の頭に。
「「いってぇ!!」」
「ッたりめぇだ、この馬鹿蛇共が!!このでけぇ頭は飾りもんか!!てめぇらの只でさえ規格外、二本ぶち込まれて平気な人間が何処にいる!!」
「「………………」」
「交尾だろうがセックスだろうが結構じゃねぇか。けどな、物には限度ってもんがあんだよ。てめぇらの一物でそんなにネーヴェのこと殺してぇのか」
「「………………すいませ…、」」
「ああ!?聞こえねぇ!!」
「「はい!すいません、兄貴!!」」
 声を揃えてびしっとした二匹に、両手を腰に当てたアリスゼルは解りゃ良いんだよ、と鷹揚に頷いた。とりあえず、気を失っているネーヴェを清めてやらなくてはならない。更に足を踏み出せば、二匹は不安げに刃の瞳を、揺らめかせる。だが、向かって来ることはしなかった。漸く学習したか、とアリスゼルは初めて口元に笑みのような、柔らかいものを乗せると、安心しろ、と告げる。二匹はしばらく躊躇っていたが、結局自分たちでもネーヴェがこのままでは、拙いということが解っているのだろう。しゃりりと鱗を鳴らして巨躯のバリケードを解いた。ぐったり、と。やはり、何度見てもぐったりと意識のないネーヴェをアリスゼルは両腕で何を迷うことなく抱き上げた。ネーヴェの方が長身だが、しかしこれぐらいの差であれば怪力のアリスゼルにはどうということはない。まるで濡れたスポンジのように柔らかく生ぬるく頼りない彼の身体を不快そうに見下ろしながら、アリスゼルは背後で心配そうにこちらを見ていた猫に問う。水場は?彼女ははたと我に帰って歩き出した。
 その白い尾を追って歩き出す。二匹の大蛇もその後を追ってついてきた。まあ、ついてくるなと言う理由もないので、好きにさせる。水場は意外と近くにあった。タイル張りの地下室の隅。ちゃんとお湯も出るようだったので、とりあえず、ぬるま湯程度になるまで水を溢れさせ、それからゆっくりとネーヴェにかけてやる。彼の血色の悪い肌が、それで漸く、幾らか温かみのある色を取り戻したようだった。黙々と情交に疲れた男の身体を洗ってやるアリスゼルを、心配そうに背後から黒い蛇が二匹と白い猫が一匹覗き込んでいる。何と言うか、可笑しな夜だ、変な、状況だ。だが、アリスゼルはそんな奇妙な真夜中過ぎの状況に、少しも胸を躍らされることなく、ただ無言でネーヴェを清める。慣れた手順だ。慣れた手際だ。敢えて言うならば、《少し子供の頃のことを思い出す》。
「俺、母親が筋金入りの娼婦でよ。…あ、娼婦って知ってるか?」
 戯れに何となく口を開きながら、背後を振り返れば、意外にも漆黒の大蛇は二匹揃ってこくりと頷いた。白い猫は当然とでも言いたげにアリスゼルを見上げている。まあ、元野良のお嬢さんは兎も角、箱入り蛇が知っているとは。どんな教育をしてるんだネーヴェ、と自分で振っておきながら眉根を寄せたアリスゼルに、彼らが口を開く。
「本で読んだ。金を貰って男の相手をする女のことだろう?」
「意味解んねぇよな…何で子供を生むでもねぇのに、交尾すんだ?」
「好きでも、愛してるわけでもねぇのにな?」
「金払ってまで交尾する男も解んねぇけどな?」
 口々に告げる大蛇にやはり形がでかくてもまだ子供か、と吐息を零したアリスゼルは続ける。
「…人には色々事情があんだよ…まあ、それは兎も角、俺は娼館生まれの娼館育ちでな。その娼館ってのがいかれてやがって、男娼館と女娼館ってのに分かれてる。女娼館の女は女しか相手にしない。つまり、皆して《処女娼婦》って訳だが、そのせいでたとえ娼婦の子だろうと男は一切立ち入れてくれねぇ。しょうがなく、俺は横の男娼館で育った。男娼とか向いてなかったからよ、客なんて取らなかったが、小せぇ頃はよくこうやって手伝いさせられたもんだぜ…気絶した野郎の身体なんか洗っても面白くも何ともねぇ」
 そう言ってきゅ、と水道の蛇口を閉める。何か拭くもんねぇか、と問えば、大蛇の一匹がアンティークの棚を鼻先で指した。アリスゼルは最初と同じようにネーヴェを抱き上げると、手早く棚から取り出した大きな木綿布で彼の身体を拭き、覆った。恐らくアリスゼルが娼館出身だという話をしたからだろう。少しだけあった大蛇たちの警戒心も薄れて、感じられない。それどころかアリスゼルにも遠慮なく、抱き上げたネーヴェを覗き込んでくる。残忍・凶悪と言われている、密林の大蛇だが、ひょっとしたら同族なんかには甘いものなのかもしれないな、とアリスゼルはぼんやりと思った。それともネーヴェの教育が、余程宜しいのだろうか。それは謎だが、しかし、彼らがネーヴェを見下ろす瞳は、本当に柔らかく、優しく、そして、愛しげだ。視線だけで匂いたたんばかりの甘さが解る。愛してる、と言わんばかりに。愛してる。アリスゼルとは、縁遠い言葉だ。
 結局、長い髪まで一つ残らず水滴を拭き取ってやれば、ネーヴェは随分マシな体裁となった。彼を抱え上げ、アリスゼルは白い猫に彼の寝台までの道案内を頼む。道案内と言っても、地下室を出て、階段を上り、廊下に並んだ扉に続くまでの短い間。当然のように後ろを静かに、二匹の大蛇もついてきた。流石に、狭い。だが、何となく文句を言う気にもなれず、アリスゼルは片手でネーヴェの自室へと続くドアを開けた。香る古い本の紙の匂いと僅かな消毒薬の香り。質素だが、片付いた部屋は、成る程、ネーヴェの部屋らしかった。重厚な木製のベッドの生成り色の布地の中に、そっとネーヴェを横たえる。翼ある異形は仰向けに寝る、といった、人間としては極当然のことが不可能なので、当然うつ伏せだ。彼もその体勢に慣れているはず。まだ少し湿った青い髪がベッドに広がり、一仕事終えたアリスゼルは息を吐いて、壁に凭れかかった。そのせいで、アリスゼルのティシャツの襟に張り付いて、うとうとしていたドルチェヴィータが潰されかかり、怒ってちかちかと激しく点滅する。それを片手で宥めながら、ジーンズのポケットから煙草のパッケージを取り出す。カチッと鳴ったジッポーの音が虫の声一つ聞こえない静かな夜の部屋に響き渡った。
 死んだように眠る主人を、恋人を(と言って良いのかよく解らないが)、猫と二匹の大蛇が見下ろす。獣の表情など読めるはずもないが、しかし、その雰囲気は明らかに心配そうではあった。獣商人なんて職業ながら、よくよく獣にもてる男だ、とアリスゼルは苦笑しながら、紫煙を燻らせる。やはり、一仕事終わった後の煙は美味い。静かな夜だ。この時間は商店街も眠っている。耳に届くのは夜空が軋むような微かな音だけで、それは恐らく商品である獣たちの息遣いだろう。聴覚が著しく良いアリスゼルにはあらゆるものが明確に聞こえる。水道管を流れる水の音。家電の作動音。遠くで野良犬が鳴く声。それから―遠く静かに近付いてくる、エンジン音。反射的にぴくりと長い耳が動いた。何か、嫌な予感がする。この夜中にエンジン音など、《ヤツハカ》では珍しくもない、が。だが、この音は路地裏ばかりの《ヤツハカ》でも滅多に見ない巨大な自動車の音だ。エンジン音が鈍い。近付いてくる。
「―嬢、トラックのエンジン音がする。心当たりねぇか?」
「トラック…?………、あ、」
 主人を覗き込んでいた猫はアリスゼルの言葉を反芻すると、グリーンの瞳を揺らめかせた。どうやらアリスゼルの予感は的中してしまったらしい。やれやれ、と紫煙を吐き出すと、あからさまに動揺して猫が答える。
「どうしましょう…!そう言えば、今宵、夜叉と夜牙を買取に売人が来るとご主人様が…!」
「い!?俺たち!?」
「どうしましょって…ど、どうすりゃ良いんだ?」
「お、俺たち売られちまうのか!?」
「落ち着け。嬢、相手は《商品》が《コイツら》だって知ってんのか?」
 尋ねると恐らく、と猫は答えた。それは拙い。カニバリーパイソンはこの二匹を見ていると忘れがちだが、稀少な獣だ。否、本来は危険生物だが、人の手で育てられ、これ程までに人の生活に順応したものが稀少だということ。その漆黒の鱗と金色の瞳、という優美な外見も相まって、危険承知で買い取りたがる人間も多いだろう。そして、そんな人々に高値で売りつけるのが売人だ。何が何でも欲しい。追い返すぐらいは容易いかもしれないが、それで諦めるとは限らない。それに、売人がこの店にカニバリーパイソンが居ると、吹聴するのも拙い。少なくとも彼らの存在は外には知られていない。そうでなくては、とてもネーヴェと彼らが静かに暮らせることはないだろう。その上、大蛇と人とが伴侶と呼べるまでの仲なのだと知られれば。密林の中でなら兎も角、街の中でそれは危険だ。
「ふーむ、こりゃ大変だ」
「兄貴…!そんなちっとも大変でない口調で…!」
「いや、焦ってもしょうがねぇだろ。兄貴みてぇに構えろよ」
「お前もかよ、夜叉!」
 つか、「兄貴」ってのは固定かよ。
「だから、落ち着けよ…えーと、お前が夜牙、か?」
 問うアリスゼルに真っ黒い蛇の片方がかくりと頷く。そうか、ということは消去法でもう一匹が夜叉か。やはりアリスゼルにはちっとも見分けがつかない。恐らく解るのはネーヴェぐらいだろうがまあお熱いことで何よりだ。
「夜叉の言うことも最もだ。焦ってもしょうがねぇし…焦る必要がねぇ」
 ニヤァと唇を歪めながら言えば、二匹は思わず身を竦めた。恐らく、あの時の記憶が深く刻まれているのだろう。賢い獣は嫌いじゃない。打算がない分、人間よりは余程誠実だ、というのはアリスゼルの持論。主人の殺気を感じ取ってドルチェヴィータまでもがちかちかと震える。エンジン音は徐々に近付いてきていた。
「俺たちは神様でも天使様でもましてや善人でもねぇ。《邪魔んなるヤツがいるんなら、消しちまえば良い》。…そうだろ?」
「………………………………、それは…嬲り殺して差し上げる、ということですの?」
「………言葉に育ちの良さが滲み出てるぜ、嬢…」
 誰も殺しの方法まで指定していない。
 だが、まあ、彼女の言うことも外れていない。要約すればそういうことで、過大解釈してもそういうことだ。死体の一つや二つや三つぐらい、夜の内に増えても誰一人として気にも留めない街、《ヤツハカ》。その治安の悪さは世界中に二十二ある都市の中で下から数えて三番目、と言われている。本当かどうだか知らないが。しかし、少なくともアリスゼルのような血気盛んな者にとっては、この街は優しい街だ。それに、たとえアリスゼルがしなくとも、ネーヴェが自身の手で、血濡れの幕を引いただろう。《そういう男だ、彼は》。知っているが、知らない。アリスゼルにとって金は生きていく為に重要な物資だが、知人を殺してまで得ようと思うほどではなかった。
 ドルチェヴィータ、と呼ぶ。ついでのように部屋の隅にあった黒い電話に目を留め、ボタンを幾つか押しておいた。これで準備完了だ。赤い光を発して、殺しの気配に備えている妖精を引き連れたアリスゼルは正に、冷徹。そのひんやりと凍えるような殺気をどうにか耐えるように、兄貴、と声がかかった。見れば、大蛇が二匹。金色の目を真剣に向けていた。射抜くような刃の瞳。そういうのは、嫌いじゃなかった。
「俺たちも殺る」
「………………」
「ああ、元はと言えば《俺たち》の問題だ」
「………………」
「頼む、兄貴!ぜってぇ仕留めてみせっから!」
「兄貴に迷惑はかけねぇ」
 黙っているアリスゼルに何を思ったのか次々と言い募る大蛇たちに、アリスゼルは軽く肩を竦めて背を向けた。良いぜ、とぽんと言葉を投げる。一瞬、何を言われたのか解らなかったのだろう、沈黙を持った二匹に、ニィと唇を歪めた。紫煙を吐き出し、フィルターを噛む。《そういうのは、嫌いじゃない》。自分の落とし前は自分で付ける。否、元はと言えばネーヴェの落とし前なのかもしれないが、ならば、恋人の落とし前は自分たちで付けるといったところか。それも悪くない。無謀だろうが、何だろうが、ガキの考えることだ。ガキの頃はなるべくなら馬鹿をやった方が良い。痛い目をみればそれはそれで学習するし、成功すればそれは自負になる。思うにネーヴェは彼らを箱入りにしすぎだ。勿論、好きで箱入りにしている訳でもないだろうが、ついそう思ってしまう。俺はお父さんか。
「ヘマすんじゃねぇぞ」
 それだけ告げて、アリスゼルは商店の出入り口を目指す。神妙に頷いた二匹が密やかに付いてくる気配が解った。しゃりりりり、とそれは恐らく死の音色だろう。ネーヴェとアンティチークとアリスゼル以外の誰かにとっての。愉快だ。《破壊の真紅》が鉄刀を振るう。それに混じって漆黒のダイヤモンドが牙を剥く。阿鼻叫喚の地獄こそがアリスゼルの最高のステージ。今宵は素敵なゲスト付き。全く、冗談みたいに。
「可笑しな夜だ」
 冷えた夜風が頬を撫でる。呟き、見上げた夜空に無遠慮なサーチライトが差し込んだ。幕は、開く。アリスゼルの聴覚情報通り、狭い商店街の通り幅いっぱいに奔りこんできたのは一台のトラック。天幕を張った荷台に、人の気配が二人。運転席に胡散臭そうな男が一人。少数精鋭か、それともただ単に情報統制の為の少数人数か。何にしろ、やり易いことには変わりない。くゆらくゆらと昇る紫煙の向こう側を目を細めてアリスゼルは見遣る。エンジンを切った男が脂ぎった巨大な身体を揺らして、鈍そうに運転席から降りてきた。背後の二匹は、暗闇に身を潜めて、静かに呼吸をしているようだった。足を少しだけ動かして合図する。手順は簡単、留めは一瞬。暗殺の基本だ。勿論、その手の殺しはネーヴェの得手であってアリスゼルにはそんな小細工は必要ないのだけれど。アリスゼルであれば、相手が誰だろうと真正面突破で問題ない。だが、蛇族攻撃の基本は待ち伏せ、騙まし討ちだろう。
 しゃりと僅かに鱗が臨戦態勢に入ったのを確認して、アリスゼルは真紅の瞳を前へと向ける。トラックから降りてきた男はそこに見慣れた獣商人ではなく、アリスゼルの姿を認めて、不審げに目を眇めた。太い指には食い込むみたいに金色の指輪。どうしてこう成金てのは趣味が悪いのだろうか。気色悪い。基本的に醜い生物が嫌いなアリスゼルは男が口を開く前に、紫煙を口元から外して、声をかける。軽いジャブから。
「よお、突然だが売人のおっさん。今日の取引は中止だ。大人しく帰ってくんねぇ?」
「…な!?だ、誰だ貴様は!?そんな馬鹿なことがあるか!あの獣商はどうした!?」
「………………お約束通りの台詞で余計殺したくなるな…」
 勿論、訊いてみたのはただの礼儀みたいなもので、大人しく帰すつもりなんてアリスゼルには一切ない。ただ、まあ何の事情も知らずに死ぬのも可哀想かな、などという僅かな良心だ。あって無駄なほどのつまらない出来心。紫煙を咥え直し、アリスゼルは妖精の名を呼ぶ。赤き爆炎、比類なき兵器、鉄刀妖精《ドルチェヴィータ》。真紅の髪を舞い上げ、僅かな風を起こしながら、妖精はその姿を煌く鋼の刀身へと変化させる。かちゃ、と響く金属音。射抜くような真紅の殺気に当てられて、流石の男も喚いていた口を閉じたが、それは今更無意味である。アリスゼルは左手で鞘を持ち、右手で柄を握って、静かに構える。男は恐らくその時点で自分が殺される命運を知っただろう。だが、逃げられない。逃げられるはずもない。それは一瞬だった。
「―《楽炎》」
 まるで炎に熱された鉄の如く真紅に変色した刀が、否、正しく計り知れないほどの高熱となった刃が音もなく男を切り裂く。じゅうっと肉が焦げる音と断末魔の悲鳴。焼かれた肉の断面がじゅわあっと嫌な感じに蕩け、血が飛び散らない代わりに、強烈な匂いが鼻先を焼く。《爆炎》の呼び名の由来。鉄刀の属性は炎。熱された鉄などというとんでもない凶器を、呆気なく振り回し、アリスゼルはしゅるりと刃を鞘に収めた。騒ぎを聞きつけて荷台に居た男たちが飛び降りてくる。その目はアリスゼルを捉え、そしてアリスゼルの前に胴を薙ぎ払われて死んでいる男を捉え、そして―恐らく途切れた。
 音もなく忍び寄った二匹の大蛇がその巨躯からは想像がつかない恐るべきスピードで、男たちを頭から飲み込んだのだ。ずぶりと身体に食い込む牙、無論、頭から呑まれる、という人生最初にして最後の不遇に見舞われた男たちは、パニックになって暴れるが、きりきりととぐろを巻く大蛇たちに締め上げられ、その抵抗も封じられる。ばきばきばきと骨が折れてゆく音。やがて、指先一つ動かなくなるのを確認すると、二匹は口から男を吐き出した。解放された彼らは当然のように事切れており、しかも、全身複雑骨折でぐにゃりと骨のない軟体動物のようになって崩れ落ちた。
 容赦ない。容赦ないが、二匹は何処かコミカルな感じにぺぺっ、と舌を出して盛んに嫌悪感を顕わにしていた。カニバリーパイソンは本来人間でさえも餌と認識して食らうが、どうやら彼らの口に人間は合わなかったようだ。まあ、合おうが合うまいがしっかり殺せるのだからそれはそれで構わないだろう。兎に角、これで彼らの初陣も無事終了。死体三つに邪魔なトラックは直現れる馴染みの《清掃会社》に任せれば良いとして、妖精に戻ったドルチェヴィータを従え、アリスゼルは深く紫煙を吐く。遠く東の空が白んでいる。長い夜が明けようとしていた。長く、そして、可笑しい。
「ぐあ、人間ってまっずいのな…」
「ネーヴェはあんなに美味そうなのにな…」
「………食うなよ」
 ゆらゆらと近寄ってくる二匹に一応釘を刺しながら、アリスゼルはこてんと一仕事終えたドルチェヴィータを頭で受け止めた。それから金色の瞳を輝かせて、兄貴ってやっぱり強ぇのな、とか、俺たちの殺し方どうだった?とか訊いてくる大蛇二匹に、何時からこんなに気安くなったんだ、と思いもしたが、それでも何となく悪い気はせず。愉快そうに笑って煙を吐いた。可笑しな夜だ。全くもってこれまで生きてきた中でダントツに奇妙な夜だが、しかし、気分は悪くない。《ヤツハカ》はイカれた街で、住人もイカれた連中ばかりで、そのイカれた連中の中には大蛇と生涯を誓い合うものがいたって、そして、それがアリスゼルの友人であっても良いと思った。それはそれで可笑しいが、しかし、《可笑しいのは悪くない》。唇を歪めて深く紫煙を吸い込む。血の匂いというか肉の匂いが、豊かな白に掻き消されていった。



おまけ


06/08/30

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