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夜話にウォッカマティーニを ~ Seconds!

 ぼんやりと意識が目覚めた。視界は生成り色の柔らかな布。まだ起動を始めて間もない頭が考える。これはベッドだ。当然だ。鼻先を掠める自分の匂い。沈む身体は極上に重たいが、此処は確かに自分の寝床。青い瞳に映る世界はすでに明るく、窓から柔らかな光が差し込んで来ている。背の翼が震える。青い音色。ばさりと落ちてくる髪のカーテンに包まれながら、ネーヴェはずると身体を引き寄せる。痛い。痺れるような、鈍痛。ズキズキと軋みの音をたてる身体の局部に、曇っていたネーヴェの記憶と思考がゆっくりと覚醒を始める。あまりにもはっきりと甦り始める、昨夜の行為。二十数年という年月を奇跡的にも《処女》という形で生きてきたネーヴェは、ほんの数時間前に(推定するに恐らく)、人生において最も大きな変革の一つを迎えたのであった。ネーヴェはもう何一つ、誰一人として関わりを持たぬ、孤独の生き物ではない。その身に確かに他者を受け入れ、寄り添う鼓動を感じ、囁かれる愛の言葉を甘受して、その声に囁きを返し、そうして、
「………………………………………………………、」
 限界だった。たとえ、幾らネーヴェが不動の心臓を持っていたとしても限界だった。考えれば考えるほど居た堪れない。考えれば考えるほど、己の痴態がまざまざと甦って、居ても立ってもいられなくなる。その衝動を必死で抑えつつも、けれど、たとえ抑え切れなかったとしても、ネーヴェは此処で暴れだすことは出来ないだろう。刻まれた、痛みと甘い匂い。白い肌にもその奥にも《彼ら》の痕跡が確かに息づいている。眼を閉じても、感じられる、その狂おしいまでの愛情。―嗚呼、いけない。このままではネーヴェは思考が緩く沈む毎に心臓を破裂させなければならなくなる。愛する人に愛されるという歓びに飛び回りたくなってしまう。熱くなった頬を無意識に枕に擦りつけながら、ネーヴェはふと、妙な疑問に翼を動かした。確かに。確かに、ネーヴェの最後の記憶はあの地下の部屋で途切れている。盛んに自分の名前を囁く低い声に柔らかな水苔と干草の匂い。くるりとドーム型に包まれるかのような、空間で。ネーヴェは確かに気を失ったと、思っていたのだが。此処はどう見ても、どう考えても、ネーヴェの自室だ。
 全身が鞭打たれたように軋む身体を奮い起こし、ネーヴェはゆっくりとうつ伏せになっていた身体を起こした。サファイアの瞳で部屋を見回す、までもなく、そう、どうして今まで、この豊かな四つの寝息に気付かなかったというのか。決して広いとは言えないネーヴェの部屋に上手にとぐろを巻いて眠る二匹の大蛇である夜叉と夜牙と、何故か壁に寄りかかり、胡坐をかいて眠っている褐色の肌の異形即ち友人であるアリスゼルと、何時も通りネーヴェの足元でくゆりと丸くなって上品に眠る一匹の白いペルシャ猫であるアンティチークと。三者三様ではあるが、何故か、どういう訳か、揃ってネーヴェの傍で静かに寝息をたてていることには変わりない。特にアリスゼルが、何故、此処に。自分が呼んだ覚えはないし、まさかネーヴェが気を失ってから、どんなに事情が変わったと言えども、彼がこの部屋で健やかな寝息をたてている理由が見当たらない。混乱している頭を振るう。ついでに揺れた翼も動かしながら、その時漸くネーヴェは自分が衣服を身に付けていないことに、気がついた。いや、衣服を身に付けていないことはまだ良いが、だからと言って彼がいる理由は更に…、
「―ん?ネーヴェ?」
 真紅の瞳が開かれる。静かな寝息をたてていたと思ったアリスゼルは、唐突に目覚めを遂げると、あーあ、と豪快な欠伸を一つして、腕を伸ばした。すらりとしたその腕は、決して筋骨隆々という訳ではなく、果たしてその細腕の何処にあの強烈な刀撃を繰り出す為の力を持っているというのか。改めて不思議に思う。アリスゼルは決して無骨な傭兵、と言った柄ではない。どちらかと言えば、正に妖精騎士と言ったような、何処か幻想的な雰囲気を残した青年だ。だからだろうか。ネーヴェは彼を前に肌を(それも露骨に愛された後で)晒しても、明確な危機感を覚えることはなかった。否、ひょっとしたらそれは本人たちも気付かぬ間に育まれた、友愛、なのかもしれないが。
「よお、よく眠れたか?」
「緋色…何故此処に?」
「嬢に呼ばれたんだよ。夜中に叩き起こされてな、ご主人様を助けて下さい、だと」
 そう言ってもう一度欠伸を繰り返すアリスゼルから眼を離し、ネーヴェは足元に視線を遣る。そこに眠る一匹の猫。ゆっくりと上下する背中を愛しげに見つめると、アリスゼルの巨大な吐息が耳に届いた。
「まあ、嬢はちと心配のし過ぎだが、てめぇもあんまり健全な状態じゃなかったぜ」
「………私は、」
「一応、手加減するよう殴っといた。若気の至りってぇヤツだろうが、ヤり殺されたら堪んねぇだろ」
 自重しな、と緩く笑みを含みながら言われて、ネーヴェは僅かに頬を染めた。やはり、予感は当たっていたようだ。どうやら二匹と事を成した後、気を失ったネーヴェを清め、此処まで運んでくれたのは彼で間違いない。気恥ずかしい思いと居た堪れなさが綯い交ぜになって、ネーヴェはしばらく沈黙を保っていたが、やがて彼がかちっと、紫煙に火を点ける音がするのを契機に顔を上げた。真紅の瞳と眼が合う。口を開いて、言う。
「すまない…有難う、緋色」
「………………、その言葉は有難く、受け取るが…。いや、《恋愛で人が変わる》ってのはマジだな…俺は今、人類の神秘を見た」
「…?何の話、」
「いや、いやいや、解んねぇなら、良いんじゃねぇか?良いことなんじゃねぇの、ネーヴェ」
「………意味が、不明」
 やはりアリスゼルはネーヴェの理解が及ばないことをよく喋る。首を傾げ、翼を揺らしたネーヴェにも、彼は紫煙を吐き出すばかりで特に言葉を重ねるようなことはしなかった。ただ、ただ、機嫌だけは良さそうに、煙を量産する赤い彼は《少女》というよりは《芋虫》だ。そういえば、彼から恋愛の経験などを終ぞ聞いたことがないな、と、ネーヴェが青い瞳を巡らせたところで、耳に柔らかく声が届いた。最初は一匹、続いて二匹。静かに鎌首をもたげた大蛇が、金色の瞳をまるで夜明けの海のように輝かせて、その色にネーヴェを捉える。明確な愛情を告げているのに、しかし、何故か、ネーヴェ、と呼んだきり、及び腰な二匹に静かに微笑んで手を伸ばす。夜叉、夜牙、と。呼べば、すぐに。
「「ネーヴェ…!」」
 漆黒の鱗が擦れる音が響いて、大きな頭が突進するよりも優しくネーヴェに擦り寄ってくる。ひんやりとした感触に眼を細めて、彼らの頭を両手で撫で、抱きしめるよりも強く抱き寄せる。何処にあるのか一見では解らない耳に、一層柔らかく音を吹き込む。夜叉、夜牙、とその名を呼ぶだけで。満たされる幸福の名をネーヴェはつい先日まで知らなかった。今は解る。全ての生き物を幸せに狂わす感情の名を。ネーヴェ、と応えるように耳朶を震わす低い声。顔を上げれば、心なしか済まなそうに頭を垂れた二匹が、同時に言う。ごめん、と。首を傾げたネーヴェに何時ものように二匹が鋼を互いに打ち合うように、喋り始める。
「ごめんな、ネーヴェ、俺たち、自分のことばっか考えて…」
「ネーヴェに無理させたよな…?もう大丈夫か?本当、ごめんな」
「ごめん」
「ごめん」
「でも、好きだぜ、ネーヴェ」
「ああ、ネーヴェ、好きだ」
「良かった、眼覚ましてくれて」
「本当、良かった…正直、ネーヴェが気失った時、生きた心地しなかったぜ」
「…ネーヴェ、怒ってるか?」
「……やっぱり、呆れたか?俺たちじゃ、」
 ずっと黙っているネーヴェに不安になったのか、口々に募って、言い終えることのない二匹を、腕を伸ばして抱きしめる。ごめん、なんて、言って貰う言葉ではない。全てはネーヴェが望んで、受け入れて、彼らは与えてくれただけのこと。愛情の交し合いの後にそんな言葉は似合わない。だから、ネーヴェは自分の恋人たちを抱きしめて、言う。指先に触れる鱗の冷ややかささえ、愛しいと言わんばかりに、柔らかに。愛しくて、愛しいから。
「愛してるよ、夜叉、夜牙」
 零れ落ちる声に嘘はなく、偽りはなく、ただ、溢れんばかりの優しい真実だけがあって。息を呑んだ二匹の獣の気配にゆっくりとネーヴェが笑うと。
「あーあ、俺ら超お邪魔虫じゃねぇの、なあ、嬢?」
「ええ、全くもって、貴方の仰る通りのようですわ」
 すっかり不貞腐れたふりをした友人と猫がドアの辺りでわざとらしく息を吐いた。というか、アンティチークは何時の間に。彼女が目覚めて、移動したのにも気付かなかったというのだろうか、ネーヴェが。これは、確かに痛ましい。重症だ。思わず青い瞳を宙で泳がせたネーヴェは、それでも今更、夜叉と夜牙を抱きしめた腕を離したくなくて逡巡すると、アリスゼルの方からくるりと背を向けた。こきっと首を鳴らした仕草と同時に、ぽろん、と赤い発光体が落ちる。天下無双の鉄刀妖精は寝惚けているのか、主人の足元でふらりと飛ぶと、よろよろと彼の頭まで覚束なく戻った。そんな仕草を見せられると《彼女》が無機物の結晶だとは俄かに信じ難い。だが、アリスゼルは慣れているのか、さっぱり気にした風はなく、赤い目線を足元に遣ると、尾を揺らした白いペルシャ猫に向かって呟いた。
「ったく、しょうがねぇ…嬢、キッチン何処だ、キッチン」
「此方ですわ」
「今日は大目に見てやるよ、バカップル。ネーヴェ、チーズにアレルギーは?」
「…ない」
「よし。まあ、精々、飯が出来上がるまでいちゃつけ」
 そう言い残すと、彼は颯爽と部屋から出て行った。何時の間にか、ネーヴェの家は彼によって把握されつつあるらしい。別にそれはそれで構わないのだけれど、まさか朝食(昼食だろうか)まで作ってくれるとは思わなかったネーヴェは、ぱちりと瞬きをした。どうも彼は狩り師のくせにお人よし過ぎるのではないだろうか。無論、これはネーヴェが、一切口を出すことはないのだけれど。彼が戦場では非道なことは百も承知なのだけれど。
 ぼんやりと赤い背中を見送っていたネーヴェは、擦り寄ってくる小さな力にふと現実に引き戻される。見れば巨躯を持ちながらも、子供みたいな二匹の大蛇が目を細めて嬉しそうに、ネーヴェに鼻先を寄せてきていた。名を呼んで。下から覗き込んできた大蛇が、懇願するようにしたので、ネーヴェは笑って眼を閉じた。ちょん、ちょん、と二回続けて行われるキス。これからネーヴェの日常になっていくだろう行為にもう一度笑って、今度はネーヴェから。彼らの口先にキスを一つずつ。愛しい人。獣の身である彼らとネーヴェと確かに何もかも違うけれど、しかし、胸を張って同じだと言えるものを一つだけ持っている。確かに、この身体の中に。
「「ネーヴェ、」」
 呼ぶ声に答える、この魂を。
「「愛してる」」
 誰よりも、愛してる。


06/09/22

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