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優しい口付けのようなアルティチュード

 日が暮れようとしていた。何百、否、何千何万もの人々に踏みつけられてきたスラム街の路地の土が湿り気を帯びる。普段、歩き慣れた苦楽商店街を少し離れ、ネーヴェもその土をやはり踏みつけて歩いていた。落ちかけた西日が建物と建物の狭間に色濃い闇を作り、青い異形の青年はただ無表情に二本の脚だけを動かす。彼の動きによってかき回される空気の中はなまものと生き物の匂いで満ち、混ざり始めるのは夜の気配。道の両脇には連なる薄汚い建物。街の外れという訳ではなく、何となく寂れてしまったこの界隈は、この時間帯ともなれば、ほとんど人影が見受けられない。ただ、亡霊のように白っぽい建物が無機質に並んでいるだけである。商売をしているものもあれば、そうでないものもある。人が住んでいるものもあれば、そうでないものもある。しかし、罅割れたコンクリートの塊の中からは確かに何らかの気配がした。崩れ落ちそうに傾きながらも、まるで獲物を狙う獣のような臭気が、密やかに、けれど露骨に。潜んでいる。何時も、何処でも、この街は、そうだ。
 誰かが誰かを付け狙う。夜の闇に紛れて、ネオンのいやらしい光さえ当たらぬ影に息を潜める。街という森に隠れた、ハイエナ。
 彼らは常に群れからはぐれた弱い獲物を品定めしている。その牙を柔らかい肉に埋める瞬間を心待ちにしている。そして、彼らの眼にこんな時間にこんな場所を足早に行くネーヴェが《格好の獲物》と映ったのも道理な話だろう。青い長い髪に背には青い翼。白い皮膚は人形のようで、華奢な痩躯は遠めに見れば女性とも見間違えかねない。腕に抱えた紙袋から明らかに買い物帰り。遠出のせいで予想外の遅延となり、やむを得ず此処を通る獲物の証拠。彼らの予想は《一部》正しい。確かに、ネーヴェは目的のものを求めて、普段住み慣れた商店街を離れて市場まで、出ていたのだから。紙袋の中身は卵とバターとどっしりしたフルーツケーキ。
 全身の神経を張り詰めれば、舌なめずりした視線があからさまに注がれているのが解る。ネーヴェは努めて何でもないように、脚を速めて前を向いて歩く。道脇にはまだ僅かな光が残っているが、自宅に帰り着く為の近道には、この先、一箇所だけ、一切の人気がなくなる場所がある。廃墟と廃墟の間。通りと通りを繋ぐ導線の役割を果たす道は、すでにこの時間なれば薄闇が覆い隠しているはずだ。恐らく彼らが仕掛けてくるのならば、そこだろう。そして、《ネーヴェが仕掛けるのもまた、そこだ》。数は多くない。神経を研ぎ澄まし、気配を探り出す以上、明確に確認出来たのは四人。恐らく《狩り師》崩れのハイエナか。ネーヴェ一人襲ったところで成果は多くないだろうに。そんな見当違いの嘆息を心中でのみつきながら、ネーヴェは確実に彼らの気配を引き連れて路地を入っていく。徐々に遠ざかる人の気配。じじじ、と不安定な光を晒す街灯。辺りが遠い雑踏のみを残して静寂に満ち、生臭い匂いがより一層強く鼻をついたところで。彼らは、ゆうらりと、下卑た笑いを浮かべて現れた。
 ネーヴェの予想通り、男が四人。身に纏った服は薄汚れていたが、それでもそれなりの暮らしは成り立っている模様。無論、真っ当な方法ではなく主な収入源は強盗や窃盗などであろうが。みな一様に没個性の低い嘲笑をあげる。明らかにネーヴェを簡単に殺し、犯し、奪える獲物だと思っている彼らは絶対的な余裕の元にそこに並んでいた。ネーヴェの目の前。進路を塞ぐように。精一杯の畏怖を与えるように、彼らは己の得物をチラつかせている。刃毀れしたバタフライナイフを持った男が二名。もう一名は錆びかけた鉄パイプ。もう一名は黒光りした拳銃。恐らく現在、《ヤツハカ》のみならずあらゆる街に出回っている軍事品の横流しか、その模造品。ちらりと横目で観察すれば、荒い削りと粗悪な銃身が眼に入り、またネーヴェの凶悪なまでに良い視力が、潰れたロゴマークを捕らえた。予測するにピエロカンパニー製『デンファレR-S』セミオートマチックの模造品サタデーナイトスペシャル。デンファレはその生産量の多さから言っても模造するに最適であり、またネーヴェ自身、これまで何度も《相対してきた》。恐れるべくはない。所詮、握るも素人。撃つも素人。拳銃そのものさえ押さえれば、後は何ら問題ないだろう。
「よお、兄ちゃん、こんな遅くにこんな場所で散歩たぁ、いけねぇなぁ」
「お使いの帰りか?ん?彼氏んとこ帰ろうってのか?」
「はは、確かにこんな綺麗な兄ちゃんじゃあ女は寄り付かねぇだろうなぁ!」
 ネーヴェの冷静な解析を他所に男たちは再び盛大な哄笑をあげた。耳に突き刺さるような声が不快で、ネーヴェは僅かに、眉根を寄せてみせるが、それだけだ。男は四人。標準的な体格と運動能力と推定。武器はナイフと鉄パイプと拳銃。隠し武器はなし。距離三メートル。場所は狭い路地。片手には紙袋。光源は背後と前から僅か降り注ぐ街灯のみ。場の情報と敵の情報を頭の中で組み立てる。冷静に念入りに。すでにネーヴェの水面下での戦闘準備は万端だが、一応の確認も込めて彼らに問う。本当ならば、力で叩きのめすよりも彼らが頭を垂れて道を開けてくれるのが最も早いのだから。
「早急の用。撤収、望む」
「ああ?何寝言吐いてんだ?」
 予想通りの返事。
 決行確定。
 声はなく、音はなく、迷いはない。
 同情と躊躇はこの街では、死を意味する。
 ネーヴェは己の武器を構えた。三十六針―師から受け継いだ得物に名はなく、自然とネーヴェは《これ》をそう呼ぶようになった。銀色と瑠璃の三十六本の正に針。その一本一本は三十センチほどもあり、風の魔道を宿したそれらは機械妖精ではないにしろ、ネーヴェの神経感覚と密接にリンクし、半自律的な動きを可能としている。よって、ネーヴェの構えに《構えは不要》。先程と寸分違わぬ姿ですっと立つネーヴェの周囲に三十六もの針が音もなく展開し、男たちは一瞬何が起こったか、解らないようだった。それも道理。そして、それこそが姿ない暗殺者、《ネール・オヴェ・バレシアの本分》。先に動いたのは四本の針だった。風と紛う如き素早さで銀色は宙を走り、男の手元へと降り注ぐ。目標は拳銃を封じること。針はネーヴェの意思を寸分違わぬ正確さで読み取り、拳銃の銃身を男の指ごと貫いた。攻撃する時でさえ音もない。ただ、一見優雅な凶器に致命傷を受けた男の絶叫だけが路地裏の静寂を揺らした。他の男たちも一瞬呆けながらも、漸く現状を理解し始める。狩ろうと思っていた獲物に逆に噛み付かれたこと。自分たちの仲間が傷つけられたこと。
 激昂はあらゆる人間の感情の中で最も攻撃に有利となる。怒りに染められた彼らにはもうすでに何も見えていない。否、ネーヴェ以外の何も見えていないのだ。ネーヴェを彩る銀と瑠璃の煌きも、風を切って形成される凶器にも。ひゅ、ひゅ、ひゅ、と針が踊る。するりと立ち向かってくる男たちを静かに見つめるネーヴェの前に、鮮やかに広がった。三十六の針の内、十二の針が中心に小さな円を囲むように先端を外側に向けて回転しながら展開。それが計三つ。ひゅ、ひゅ、ひゅ、と回り続ける針はその速さ故、まるで本物の花が花弁を広げたかのように色鮮やかに見えた。それ故にこの技の名は花を冠す。咲いて実を結ばず。ただ、死のみをそこに咲かせる満開の滅と。
「十二針―《徒花》」
 ひゅっという音に混じる、斬撃の音。じゃじゃじゃじゃ、と肉と骨を同時に切り刻む針の刃に、聞こえる暇もない断末魔の悲鳴。生臭く生暖かい血飛沫をあげて、銀の煌きの通った後、男たちの胴体と腕と脚と首がばらばらになる。視界いっぱいに広がる赤に、水音。四人分の死体がごろりと地面に転がった。ひゅ、ひゅ、ひゅ、という音が徐々に小さくなり、役目を終えた花は散る。飛び散った臓物を落とし、ネーヴェは自分の下へ再び戻ってくる針を迎えながら、何一つ感慨を抱くことのない青い目を落とした。手の甲に一滴だけ返り血がある以外は何も問題ない。路地裏に満ちた《肉》は、いずれ誰かが片付けるだろう。
 淀んだ空気を混ぜ返すように翼を振るう。ぴくりとも動かない、胴体から切り離され、ずり落ちた男の眼球に見つめられながら、一歩を踏み出す。血の水溜りを避けながら、先程と何ら変わらぬ一歩を。変わったことと言えば、もう寄り付く誰かの気配がないことと、完全にとっぷりと暮れてしまった紺色の空。予想以上に遅れてしまった。急がなければ。家では《彼ら》がネーヴェの帰りを待っているだろう。それこそ腹を空かして。
 その様を心の中に思い描いて、ネーヴェはこっそりと微笑んだ。もうすでに背後の血腥い匂いなど気にならない。ネーヴェの切り替えは積み重ねられた経験の分だけ早く、すでに凶器を仕舞いこんだ彼はただの異形に見えた。路地裏を抜ければ、親しんだ雑踏。商店街の通りにごった返す人々。店先にあがる湯気。揚げ物は鶏肉で、焼き物は葱だ。夕暮れ時を過ぎ、道は帰宅を急ぐ人々とこれからまだ飲み歩く人々で溢れかえっていたが、ネーヴェには、何の障害にもならない。棘だらけの皮膚を持つ少女や喧しい四十雀を連れた婦人の間をすり抜けながら、足を速める。幾つかの商店の店先を過ぎれば、右手に見えてくるのは見慣れた看板。見慣れたシャッター。黒い看板には獣の文字。手にした紙袋をしっかりと支えて、ネーヴェは自宅のシャッターを少しだけ屈んで押し上げた。ざらららという音の後に、中へと入り込む。人の気配を感じて騒ぎ出す檻の中の獣たちを宥めながら、シャッターを再び下ろして鍵を掛ける。雑踏の気配はシャットダウンされて、静まる店内。もう慣れ親しむことさえ忘れてしまったような、独特の獣の空気をかいて、ネーヴェは店の奥にある自宅部分へと進む。穴倉のような薄闇を通り、ぱちりと電球が灯った。
 シンと静まり返ったキッチン兼ダイニングには猫の影一つさえない。アンティチークは出かけているのだろうか。無論、彼女を束縛するつもりもないので、特に気にも留めることなく、ネーヴェは抱えていた紙袋をテーブルに下ろした。武器として、防壁として、密やかに装備していた三十六の針もネーヴェの意思一つでぱらぱらと身から離れ、テーブルの隅にあった箱に収まる。白い箱。何の変哲もないそれへと静かに収まった血濡れの凶器に、そっと蓋をした。手を丁寧に洗う。乾き始めていた赤黒い血はあっという間に透明な水に溶けて、全く解らなくなった。それから冷蔵庫に仕舞いこんでいた予めぶつ切りにしておいた牛肉が山と盛られた金属製のボウルを取り出す。それを片手で抱え、麻の袋に大量に入った卵を紙袋から取り上げる。勿論一つも割れていないのを確認した。容量の大部分を失った紙袋はがさ、と崩れたが、中身はバターとフルーツケーキなので問題ないだろう。バターはアンティチークがちまりちまりと舐め、フルーツケーキはネーヴェが書物片手に齧るのみだ。
 そして、何時も通り。何時も通り、ネーヴェはゆっくりとした足取りで廊下から地下へと繋がる階段を降りる。一歩ずつ。きしりきしりと軋むネーヴェの足音を完璧に記憶している《彼ら》は扉の向こうでどうしているのだろうか。ゆっくりと降りる。底に着けば、心なしか上よりもひんやりとした空気が吹いた。両開きのドアを肩で押す。両手が塞がっている故に仕方がないのだが、それももう慣れてしまって今ではあまり手間取らない。ドアが開く。暗闇の底。オレンジ色の光に照らされた白い部屋。漆黒の煌く鱗に金色の鮮やかな模様が浮かぶ。三角形の頭から伸びる巨躯にして長躯がとぐろを巻いて、床を制するように横たわっている。一匹分ではなく、二匹分。金色の宝石に墨で鋭い一閃を打ち込んだかのような鋭利な瞳がネーヴェを捉える。紛うことなき、歓喜と愛情を含んで。
 そう、愛情。
 鎌首をもたげた彼らは何もその槍先のような牙をネーヴェの向ける為にそうしたのではない。しゃりりと鱗の擦れる音。巨大な口からネーヴェ、と名を呼ぶ声が漏れる。自然とネーヴェの唇に微笑が満ちる。柔らかく眼を細め、名を呼び返す。夜叉、夜牙、と。夜を刻んだその名はネーヴェが与えたもの。ネーヴェがこの世界で最も愛しいと思う、名。ゆったりとした足取りで二匹に近付く。ゆったりとした動きで二匹がネーヴェに近付いてくる。腰を屈めてボウルと鶏卵を床に置けば、待ち構えていたかのように彼らが擦り寄ってくるのはネーヴェの方。夜叉が冷ややかな鼻先をネーヴェの髪に差し入れ、首筋を撫でる。夜牙が頭全体でネーヴェの左手を取り、鼻先が脇腹を撫でれば、そのこそばゆさにネーヴェは笑った。お返しのように彼らの頭を撫でてやれば、二匹は、獣の相好でありながら心地良さそうにそれを受ける。睦み合い。誰に何を言われようと、ネーヴェと彼らの愛情の交わし方は、ずっと変わることなく続いている。生き物にとって重大な食よりも、繁殖よりも、ネーヴェを優先してくれる二匹の大蛇の。
 嗚呼、これを愛情と呼ばずして何としよう。
 たっぷりと指先まで満たされる感覚。抱いているようで、抱かれる。柔らかく、冷たく、仄暗く、そして、温かい。いとおしい。声に出す機会は少なくとも、触れ合うだけで解る。この身体、肉片までも全て、彼らの為にあるのだと。まだ身を寄せてくる夜牙の頭をゆっくりと撫でていると、夜叉がネーヴェの髪に口先を落としながら、何気なく呼ぶ。ネーヴェ、という声に視線だけをそちらにやれば、もう随分貫禄に満ちたような気がする大蛇の片割れが口を開く。
「ネーヴェ、また《殺ったな》?」
「………………………………………」
 どうしてばれてしまうのだろうか。三十六針も外している。唯一浴びた返り血はすっかり落とした。それなのに、何時だって彼らは勘付いてしまう。無論、彼らはネーヴェが元は暗殺業を生業にしていたことは知らない。だが、その圧倒的な実力には気付いているのか。今はもうその職には手を染めていないことを認識しているのか。口煩く責めることも、注意を促すこともなく、ただ確認する。また、だろう、と。だから、ネーヴェは頷くしかない。
「怪我、なかったか?」
「…ああ」
「服、汚れなかったか?」
「…ああ」
 そう言うと二匹は安心したように大きな頭をネーヴェの肩に乗せた。重くはない。手加減しているのだろう。解っている。彼らは何時だってネーヴェのことを心から心配していて、それだからこそ、己の不甲斐なさに、時折こうして遣り切れなさを感じているのだと。獣の世界では牡が牝を守るのは自然の道理。たとえネーヴェが、鬼神の如きに強かろうと彼らにとっては守るべき存在だ。人と獣と。幾ら愛し合おうとも越えられぬ壁は多分にある。無論、それを悲観するばかりではないけれど。確かなものは何時だってこの手に。抱きしめられる程にあるのだと。
「夜叉、夜牙、」
 信じている。
「心配不要。けれど、ありがとう」
 二匹はゆるりと頭をもたげ、そうして微笑んでいるネーヴェと眼が合うとゆったりと眼を細めて笑ったようだった。ネーヴェの青い瞳に漆黒が映る。美しい色。愛しい色。色鮮やかに変化していく日常の中で、変わらないもの、それは。こうして微笑むこと。こうして唇を交わすこと。こうして、守るべきものが、ネーヴェにもあるということ。嗚呼。どうか、ネーヴェの愛しい者たちに災いあること勿れ。彼らがネーヴェを守りたいというならば、またネーヴェも彼らを、守ろう。この血に濡れた両手でも確かに握れる刃があり、この飛べない翼を持った背でも確かに庇えるものがあると。知っているのだから。教えてくれたのは、彼らなのだから。だから、両手を伸ばして、眼を閉じて。
 その優しい、口付けを、受けよう。


06/10/19

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