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コルコバードの月抱けば

 小さな鍋にくつくつと沸いた湯の中で、じゃがいものニョッキが道化師が得意なジャグリングのように踊っていた。

 外は夕暮れ時。天窓からは斜めになったオレンジ色の光が差し込み、キッチンを鮮やかに染め上げている。ごく慎ましいスペースにシンクと冷蔵庫と食器棚とダイニングテーブルが一緒になってぎゅっと押し込まれ、その壁という壁を鮮やかな緑色の蔦が覆っていた。最早元のクロスは何色であったのか。よく眼を凝らさねばわからぬほど、何時の間にか勢力範囲を広げた彼らは今日もこの街の湿った熱気を受けて、葉を生き生きと茂らせている。その根元を慎重に探せば、それはシンクの片隅。どかんと置かれた素焼きの鉢に、ネーヴェはそのままコップで水を注ぐ。受け皿がいらないので合理的だ、とネーヴェ自身は思っているこの置き場所であるが、某友人に言わせて見れば、ただの物臭に過ぎないのだそうで。
 「神経質そうな顔しやがって」と咥え煙草のまま唇を歪めていた彼の顔を何となく思い出す。彼とは基本的に生活範囲が違うネーヴェはここ一月ほど彼の顔を見ていないが、それでもまあ、死んだということはないだろう。この街において。否、この街だからこそ。彼のような《異形》が死ぬことは有り得ない。それはまた、己も然り。《異形》の証である青い髪を揺らし、青い瞳で何となく鍋を見つめ、背にある青い翼をゆっくりとうねらせると、ネーヴェはコップをシンクに置いた。小さな鍋で踊るニョッキは徐々に浮かび上がってきている。パスタほど茹で上がりに気をつけねばならないということはないけれど、それでもあまり茹だるのも良くないだろう。

 基本的に食べるものに拘らないネーヴェは大雑把にそう考えると、食器棚から缶切りを取り出し、ついでにその下の食料棚からミートソースの細長い缶詰を取り出した。赤いパッケージが印象的なそれをきこきこと慣れた仕草で開ける。缶詰の食事はネーヴェにとって日常的なもので特に何ら感慨を抱くことはない。ただ、今日は彼の愛猫が何故かつい先ほど出かけてしまって不在なので、彼女の為の食事に心砕くことがない、といった程度だ。
 きこきこと缶詰の縁をぐるりと一周する形で開けきると、一旦それを置いて、コンロの火を消す。小さなザルに鍋の湯をこぼし、すっかり茹で上がったじゃがいものニョッキを取り出す。そして、酷く無造作に白い皿にニョッキを盛ると、その上に缶詰のミートソースを、カツカツと音をたてながらスプーンで半分くらいかけた。
 残ったソースは冷蔵庫へ。それからパルメジャンチーズ―これは相当上等なもの―を少しだけ高い戸棚から大切そうに取り出すと、専用のおろし器でがりがりとすりおろした。完成。

 自分で作ったもの(と言えるのかどうかは謎だが)にも、やはり特に感慨を抱くことのないネーヴェは、コメントすることもないので無言のまま一人席につき、フォークを手にとってニョッキを口にする。よくミートソースの絡んだイタリア料理は美味いのか美味くないのか―否、そもそもニョッキなど失敗するような料理ではないし、ミートソースは缶詰だし、チーズは上等なのだから、むしろ美味くない要因などない。きっと美味いのだろう。
 全体的に味覚が鈍感なネーヴェはそう思いながら、黙々と咀嚼する。急ぐこともないが、ゆっくりするでもない。何時ものペースでもそもそと簡素な夕食を終える。食べ終えるまでにおよそ十分。これで良いと言うのだから、小食のレッテルは免れない。しかし、ほとんどの食事の時間を―それこそ幼少期から現在に至るまで―ほとんど一人で過ごしてきたネーヴェにとって他者との比較はほぼ無意味に等しかった。

 そして、これからも、ずっと無意味に違いない。

 半ばは予想。半ばは希望。そう詮のない思いをぐるりと抱えて、ネーヴェは綺麗に空になった白い皿とフォークを洗った。ついでにコップも。全て洗い終えるまでそう大した時間はかからず、すぐにすっかり片付いてしまった。ネーヴェはしばらくぼんやりとシンクに手を付いたまま、ぽつんぽつんと蛇口から落ちる雫を見つめた。規則的な音がシンクから響く。ぽつんぽつんと途切れることのない雫は恐らくネーヴェがしっかりと蛇口を閉めていないからだろうが、何となく、手を伸ばす気にはならなかった。

 ゆっくりと、日が傾いていく。

 それは何時の間にやら、というやつで、それほど時間が経った訳でもないのに、室内での日の翳りは屋外よりも素早く感じる。もうすでにキッチンは薄闇に包まれつつあり、電灯を点けるのが面倒なネーヴェはその時になってから初めて、漸く気が付いたように蛇口を捻った。青い髪を揺らし、キッチンから出ると、自室へと向かう。
 廊下を挟んでほぼ向かい側。様々なものが整然と、けれど、簡素に並べられた部屋でネーヴェは高い位置で結っていた髪を解いた。ふわりと首の辺りにかかった髪がまだ残る熱気のせいで若干暑い。もうすでにシャワーは浴びていたので、シャツの釦を外し、スラックスを脱ぐと、ベッドの上に放り投げる。そして、壁際に掛かっていた寝巻き用の裾がやけに長いシャツワンピースを手に取ると釦を外すことなく頭から被った。当然のように突起物である翼が引っ掛かるが、翼ある《異形》用に作られたワンピースの背には布の隙間があり、そこから特に苦労することなくネーヴェは翼を出した。

 部屋はもうほとんど暗い。

 ベッドの横に積んである本から読みかけのものを一冊手に取り、ネーヴェは自室を後にする。廊下を出ると、ただ真っ直ぐ地下に続く階段を目指す。三十四段。もうあの日から何往復したか知れない道をとっとと軽快な歩幅で行き、両開きの扉の片方を押した。音もなく開いたドアの隙間から身を滑り込ませれば、ひんやりとした地下の気配と空調が混ざったような空気。白いタイル張りの部屋には水場と戸棚と何やら色彩を放つテレビが一台。天井で揺れる光はオレンジ色に柔らかく室内を照らし出し、その下には、ゆるりととぐろを巻いてリラックスしていたらしい巨大な蛇が一匹―大蛇はネーヴェの来訪にすぐに気付いたらしく鋭い視線を一つ投げかけると、堂々たる仕草で鎌首をもたげた。
 すっかり成熟した七メートルはあろうかという長躯。蛇科に属する爬虫類として当然のように丸太の如く太い身体に足はなく、代わりにその全ては筋肉で出来ていて、思う様躍動する。煌く鱗は密林においてブラックダイヤモンドと賞賛される黒曜石。その上には金色の幾何学模様が一個体として同じものなく描かれる。それは自然の神秘であり、肉体の妙技。爛々と光る瞳は真ん丸の金色に一本の太刀筋を残し、たとえ彼らの獲物でなくとも魅入られて、竦みあがってしまいそうな凄みがあった。
 けれど、ネーヴェは何一つ恐れることはなく、一歩を踏み出した。次に《彼》がする仕草なんて、わかっていて。次に《彼》が発する言葉なんてわかっている。だから、ネーヴェは自分でも無意識の内に目を細める。唇を僅か緩める。翼を振るう。会話を交わす前の僅かな隙間さえも愛しいなんてそんな。そんなことは、《彼ら》と出会うまでは知らなかったけれど。

「ネーヴェ、」
「夜叉、」

 眼を細めた彼が緩やかな動作でその三角形の頭をネーヴェに押し付けてくる。それを両腕で精一杯抱きしめて、冷たい頭に頬擦りする。何時もの挨拶にネーヴェは自分の内部が途端に弛緩してくるのをはっきりと自覚する。この場所で、こうする時にだけ。感じる幸せな緩み。ネーヴェが、まるで自然なことのように、愛されていることを、愛していることを、実感することができる温度に羽毛の先まで力が抜ける。くったりと体重を預けても夜叉はびくともしない。ただ、心地良さそうにネーヴェの体温を受けて、瞳を細くし、鱗をしゃりりと鳴らす。

「今日も此処で寝んのか?」
「構わないか?」
「構わない構わない。一緒に寝ようぜ」

 そう言って彼は機嫌良さそうにネーヴェを抱きしめる。それは大蛇の体躯の半分も使わない抱擁で、何時もながらネーヴェはそれを受ける度、彼らとの種族の違いを見せ付けられたようで落胆し、それでいて彼らが己のつがいであることに歓喜する。この冷たい感触が心の底から優しいことを知っているのは世界広しと言えどきっとネーヴェぐらいしかいない。それが少しだけ嬉しいような、優越感のような、曖昧な感情をネーヴェに湧き起こらせる。
 嗚呼、きっとネーヴェは幸せなのだろう。怖いぐらいに。こんなことを考えるほど愚かなのだ。今まで知り得ることすら、否、むしろ存在すら疑っている節のあった「幸福」を今、甘受している。大切な《人》が傍に居る、たったそれだけの、たったそれだけで良い、「幸福」を。

「夜叉、夜牙は?」
「あ゛ー…。あいつなら先に寝ちまって、」
「ネーヴェ!」

 夜叉の声を掻き消すようにもう一匹の愛しい声が聞こえた。奥のドーム状の部屋からしゃりりと鱗を鳴らして、夜叉とそっくりの大蛇が現れる。彼は金色の瞳をきらきらと輝かせると一目散にネーヴェに寄り添うと、すりすりとその巨大な頭をネーヴェに擦り付けた。それに応えるようにネーヴェも腕を伸ばせば、兄とそっくりに眼を細める彼に、一方の夜叉はあからさまに舌打ちする。
 まあ、二匹の兄弟の関係はなんというか何年経ってもこんな感じで、今ではネーヴェもほとんど黙殺することにしている。幾らネーヴェが仲良くしろといっても無駄なことだと解ったし、そもそも彼らは仲が悪い訳ではない。ただ、基本的に交尾の際には一匹の雄が一匹の雌を相手にする彼らカニバリーパイソンの本能が互いに敵愾心を与えるのだろう。そういった面では彼らに実に不便を強いているなとネーヴェは思うのだが、まさかネーヴェが分裂する訳にもいかず、ただ、二匹に同じぶんの愛情を与えることに全力を尽くすのみである。
 無論、ネーヴェにとってはどちらの方が好きだとかそういった感情はない。二匹の差は明確にあれど、それによってこの想いが偏ることなど。ありそうなものなのに不思議とネーヴェの中にそういった葛藤が起きることはないのだ。二匹が同じように同じくらいネーヴェに心を傾けてくれるからだろうか。それとも、愛されている幸福に胸がいっぱいになってばかりで、感情の差に気を遣る余裕などないからだろうか。けれど、それならそれで良いと、ネーヴェは思う。ネーヴェが、二匹を同じくらい愛しく想うその気持ちに、偽りはないのだから。

「大人しく寝てれば良いものを…」
「ああ?何か言ったか、夜叉?」
「大人しく、巣の中に、引っ込んでろ、っつったんだよ」
「はあ!?そしたらお前ネーヴェと二人きりで寝るつもりだろ!?」
「当たり前だ」
「威張んな!!つか、んなん許さねぇ!」
「許すとか許さねぇとかの問題じゃねぇんだよ。役得、って知ってっか?」
「………なら、俺も今日から此処にいるからな。ぜってぇいるからな!!」
「やれるものならやってみやがれ」

 頭上をぽんぽんと飛び交う悪態を聞きながら、何故だかネーヴェの瞼は徐々に重たくなっていく。二匹の声はよく似ていて、気を抜くとどちらがどちらの声がわからなくなってしまう。くるくると一人が立場を変えて喋っているような感覚に陥り、それがまた眠気を誘い。ぱたりと背中の翼を無意識に振るう。夜叉に抱きしめられままだから、身体の力を抜いても、倒れることはない。ただ、弛緩した指先から重たい本がするりと抜け落ちた。ばたっとタイルと本の背表紙がぶつかる音。紺色の布地が張られた表紙に箔押しで『Moon of the Corcovado』と押された文字が空ろな視界で妙にはっきりと焼きついた。

「ネーヴェ?」
「どした?眠いのか?」
「………ん、」

 ねむい。

 と、声にならない言葉が届いたのだろう、二匹分の苦笑―穏やかな苦笑の雰囲気と共に夜叉の拘束が弱まり、ゆっくりととぐろの中に横たえられる。そして、それに寄り添うようにやってくる夜牙に悪態を耐える夜叉の気配が伝わり。ネーヴェは口元だけで微笑んだ。何故だか、酷く幸せで。何故だか、酷く、酷く、泣きたいぐらいに安心して。二匹の種族違いの伴侶に抱かれたまま、ネーヴェは落ちゆく意識の中で愛しいその夜の名を呼んだ。応える声は微かに耳に届き。それは、またも幸せな熱を呼び起こして、笑みを運んだ。

「「おやすみ」」

 嗚呼、
 私は今、
 とても幸せだよ。


07/08/23

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