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UNLOCKED HEART RED 9

 哀れな研究員ヤン・ゼーヴィスが言っていた階段は割りと簡単に見つかった。重厚な金属のドアをIDで開き、ぽっかりと口を開けた階段をほぼ踊り場を足場に跳躍する形で下りていく。何か、もっと、エレベーターとかないのかこの建物。腹に傷がずきずきと今頃になって痛みを訴えてくるのを抑えながら、アリスゼルは赤いボールのように地下へと下る。外側から見れば高が三階建ての実験A棟の本質は、ほぼその地下にあると言って良い。深く、土の下、闇の底に。あらゆる《研究対象》は集められているのだ、とかの研究員は言っていた。まあ、悪巧みは好き勝手すれば良いけれど。しかし、その《対象》とやらに彼が、ギムレットが加わっているというのだけは納得いかない。他のどんな、子供だろうが女だろうが男だろうが老人だろうが実験体になろうと知った事ではないが、彼は、駄目だ。絶対。
 彼がどう思っているかは、もうこの際、然したる問題では、ない。アリスゼルは、彼が《傷つく》ことが嫌だ。心の底から、嫌だと思う。理屈ではない。理論でもない。兎に角、嫌なのだ。子供の我侭のような直感的な感情で、実にストレートにそう思う。だから、走る。愛とか恋とか情とかそんな面倒なものは全て後回しにして。今、正に彼が傷ついているかと思うと、居ても立ってもいられないのだ。全身の血流が沸騰するように熱くなり、咥えた煙草のフィルター越しに形の良い歯が当たって、ミシ、と音をたてるほどに。嫌だ。気に入らない。気に食わない。指先まで力がこもり、どろりと殺気が零れだす。だから、ひょっとしたらこれはもう、《ギムレットを助けに行く》というよりは、単純に自己満足の世界の話なのかもしれなかった。彼が傷つくのが嫌だから、腹が立つから、悲しいから。
 だから、走る。
 子供みたいな、否、子供にしては行動力も知能も力もありすぎるアリスゼルが、ただ真っ直ぐに、向かう。それは他人にとっては迷惑な話だろう。それは、世界にとっても厄介な話だろう。《知って、しまったのだから》。アリスゼルは、己の身以外に怒りを感じ、悲しみを感じ、そして喜びを感じる存在と、出逢ってしまったの、だから。それは何て迷惑な話で、それは何て恐るべき話で、それは、なんて。
「―最高のストーリー、じゃねぇの。なあ、ドルチェ?」
 右手に握られたままだった抜き身の刀身が応えるように、僅かに熱を帯びる。それに皮肉げに唇を歪めておいて、アリスゼルは漸く見えた終わりに真紅の瞳を細める。ドアは、一つで。向こう側には僅かに人の気配。跳躍する。最下層に着地した勢いのまま、ドアを、ぶち、抜く―。ずがん、という鈍い金属音と、人間の動揺する気配。黒いボディアーマーを纏った兵士たちがその得物を構えるよりも速く、真紅の焔が宙を跳ぶ。鋼の煌きを宿らせて。まず目の前にいた一人の屈強な兵士を、上からの薙ぐような軌跡で、斬る。しゃあああっと空気を刀身が切り裂き、そのままの勢いで男の首を跳ねた。
 ごとん、と重たい肉と骨の塊が床に落ちる音と同時に。
 我に返った兵士が残り、二名。
 無様に叫び声をあげる、などという真似はしなかったが、動揺した人間を斬る事など、アリスゼルにとっては子猫を殺すぐらい、容易い話だ。灼熱を纏った刃を構え、真っ直ぐに目標を見定める。得物はマシンガンだが、震えた指では引き金も引けまい。跳躍。地を蹴り、風の速さで懐へと迫る。まずは右側。鉛玉を発射する面倒な銃器を振りかざされるよりも速く、アリスゼルはその腕を一刀で落とし、薙ぐ―胴払い―。じゅあああっと肉が焦げる嫌な匂いがし、男の断末魔の悲鳴が響く。そのまま刃を返せば、スコープの奥の瞳を見開いた男が、怯えと驚愕を一度に見せ、けれどもそれに耳を貸すような暇もなく。鋼の刀身は突き刺さる。男の体のど真ん中。即ち心臓。即ち急所。貫かれ、生きている人間は、いるまい。
 どさ、どさ、と二人分の肉が倒れた音を聞きながら、漸くアリスゼルは周囲に目を走らせて観察する。相変わらず金属の壁と床と天井で覆われた、比較的広い部屋だった。見れば、関所のようなモニタールームの向こうに、金属製のドアが一つ。両開きのそれは、今正に、何かしらの用途に使われる途中だったのか、少し開いていた。アリスゼルは迷わずその方向に足を向ける。ドアの向こう側は案の定、果てが白んで見えないぐらい、長々と、そりゃあもう長々と長々と長々と続いている廊下、で。おまけに両側に並ぶドアも見る限り、全て同じ。つまり、ひたすら、嫌になるくらい同じ風景が連なっている。この、何処かに、ギムレットがいると、言ったって、こりゃ。
「…嘘だろ、おい…」
 とっくに短くなってしまった煙草がぽろりと口元から落ちた。こんなことだったら、さっきの兵士を殺さずに締め上げて、居所を訊き出せば良かった。そっちの方が百倍から五百倍位早かった。後悔、先に立たず。後に悔いると書いて、後悔。背後振り返れど、白目を剥いた死体が三つ分転がっているばかり(その内一つは頭と胴体がさようならしたスプラッタ)。あー…と呟きながらアリスゼルは赤い髪を掻き上げる。一つ一つドアをぶち抜いて調べていくとして何十分、否、何時間かかるだろうか。ボルドー・カッツィアが倒れたことを知り、残存の兵士が追いかけてくるまで何分だ?明らかに、時間が合わない。時間が足りない。圧倒的に、壊滅的に。
「あー」
 ざっと見積もって端まで扉の数は五十、程度だろうか。一つ目で当たる確立、五十分の一。
「うー」
 しかも、ぶち抜くのはまだ良いとして、その向こう側の状況はまるで解らないのだ。
「えー」
 研究員だけならまだ良いが、兵士がいれば、戦闘になるのは間違いない。
「う゛ー」
 そうなれば、まず、時間は足りなくな―、
「あああああああもう面倒臭ぇーーーーー!!!!ギィーーーーーーーーーーーー!!!ギムレット、何処だぁあああああ!!返事しやがれぇええええ!!!」
 キレた。
 アリスゼルの馬鹿でかい怒声が廊下の隅々まで反響し、木霊になって返って来る。喉と肺を酷使したアリスゼルは、当然の報いとしてげほごほと咳き込み、肩で息をする羽目になったが、しかし、どうやら、それも無駄ではなかったようで。この長い耳と無駄に宜しい聴力はこんな時の為にあるのだ、と言わんばかり。遠く、何枚もの壁を貫いて、聞こえるのは、彼の、声。喉の奥から搾り出したような、心臓をきゅうと締め付けるような、遠吠えの声が、聞こえる。
 それほど遠くない―近い。
 走り出す。告げられなかった言葉を声で返すように、遠吠えは途切れることなく続いていく。声が、届く。アリスゼルは無論、犬ではないからして、遠吠えからその真意を測る、なんて器用な真似は出来ないけれど。けれど、何故か、無性に切なくなって、否、切ないと言って良いのか、これは。どちらかというと、悲しい、のだろうか。何故だかは解らないけれど。指が痺れて、心臓の辺りが痛い。この声が、待ち望んでいたけれど、途方もない悲しみを秘めた、この声が、痛い。走る。何枚のドアを通り過ぎただろうか。少なくとも十のドアを越え、走り、そして、十何枚目かのドアの前で。アリスゼルは止まった。一旦、息を整え、明らかにロックされている風の金属に向かって。ドルチェヴィータを、振り下ろす。
 ガギン。
 火花を散らし、金属製の厚い扉はまるで紙切れのように上から下まで真っ二つに両断された。ちり、と橙色の火の粉が弾け跳ぶ向こう側。裂けた金属片の向こう側に。狭い檻の中、本当に獣が押し込められるような、狭い檻に収まった、銀色の狼が、蒼い、蒼い、蒼い、瞳が。僅かな戸惑いと驚愕の色を浮かべて、アリスゼルを、見た。蒼く、その色は、相変わらず、綺麗で。弾かれたように、アリスゼルはその檻へと駆け寄る。強固な金属のそれに近寄り、素早く検分すると鍵の位置へ迷うことなく刀を縦に突きつける。全力を込めた一撃で。ぱきんと呆気なくそれは、壊れた。
「アリスゼル…?」
 開いた檻の隙間からするりと抜け出してきた犬が、漸く現実に戻ってきたように、人間の言葉を発する。相変わらず金属の光を秘めた、深い銀色の尾を揺らし、それでいて惑うように蒼い瞳が揺れている。その虹彩に映るのは、赤い、真紅の色で。何も、変わっていなくて。嗚呼、アリスゼルは、思わず、笑ってしまった。何も。何も、なかった。大丈夫だった。生きていた。此処に、こうして。確かに。存在、していた。彼は。此処に―此処に!
「ギィ…」
 腕を伸ばして、彼の首筋に思いっきり抱きつく。からんと右手から零れ落ちたドルチェヴィータが軽い音を立てたが、それも構わなかった。後で彼女には思い切りどつかれるだろうが、それも、今は良い。ただ、ぎゅうと腕に力を込めて、その温かい温度に浸る。毛皮は少々薄汚れていたし、まあ匂いも日溜りというには獣臭かったけれど、それでも構わなかった。ただ、急にアリスゼルの抱擁を受けた彼の尻尾がどぎまぎしている心情を示すように、忙しなく揺れているのが可笑しくて、それでいて振り払わない彼が愛しくて。鼻を擦り付けるようにして抱きしめる。あったかい体温。はーっと息を吐く。
「あ、アリスゼル…?どうして…?」
 今更、混乱したような声をあげるギムレットから一旦身体を離し、その鼻先を人差し指でぱちんっと弾く。あう、と思わず目を瞑った犬に、僅か笑っておいて、アリスゼルは言う。
「どうして、じゃねぇだろうが。《約束》、守られに来てやったぜ」
「や、やくそく…?」
「ああ?あの『愛してる』ってのは、まさか《約束》には入らない、とか言うんじゃねぇだろうな?」
「あ、いや、………え、…?」
 それを聞いて、犬は明らかに動揺を露呈した。まさか聞かれているとは思っていなかったのか、それとも今此処で、言われるとは思っていなかったのか、視線はうろうろと彷徨い、1.5倍くらいに膨れた尻尾がぼさあっと床を掃く。うろたえている。どう考えても。全くドア越しならあんなに堂々と告白出来るくせに、情けない姿なことこの上ない。アリスゼルは息を吐いて、でもまあその辺は大義名分つー感じだが、と自らの心情を吐露した。たいぎめいぶん?と、首を傾げた犬に、笑う。それは、そう、言うなれば、とろりと蕩けそうな、柔い笑みで。恐らくアリスゼル自身も、自分で見たことがないような、貴重な笑みを間近で見たギムレットは、当然のように、全身を硬直させ。そして、次ぐ言葉に。
「愛してるぜ、ギムレット。これが言いたくて来た」
「あ―」
「お前が俺の何処に惚れたかは知らねぇが、俺はお前に惚れちまったらしい。っつー訳で、責任取って取り戻しに来た」
「アリス、ゼル…」
「ん?今更此処にいてぇとか言わないよな?ま、だとしても引き摺って連れて帰るけどよ」
「…アリスゼル…アリスゼル…、アリスゼル…!!」
 嗚呼、その甘ったるいバリトン、久々に聞いたな、とアリスゼルは眼を細める。彼の声がまたアリスゼルの名を呼んで、すりり、と抱きしめるように巨大な体が擦り寄ってくると、ぎゅうとまるでその毛皮全部で抱きしめられているような感覚。まさか人に抱きしめられて安心するような日が、それもまさか犬に抱きしめられてそう思う日が来ようとは、思いも寄らなかったけれど。しかし、いざ迎えてみれば、それも存外悪くない。こてん、とその広い背中に寄りかかって、腕を伸ばして彼のふかふかの毛皮に身を埋める。柔らかい温度に、心地良い鼓動の音。全てが緩やかに、許されるような。愛しくて、愛しくて、嗚呼、やっと此処に手に入れたのか、と心の底から安息できる、そんな。心地に。
「アリスゼル…アリスゼル、私は、貴方に会えて、良かった」
 蒼い瞳が真摯にそう告げて。
 真剣な色に、鮮やかに微笑む。
 長い鼻先と。
 獣と口付けなんて、と以前は思っただろうが。
 けれど、今は。

 ただ―

「………アリスゼル・ゼムン、」
 唐突に聞こえた声に、ピシィっと二人分の空気が見事に停止した。耳を澄ませば吹雪の音さえ聞こえてきそうな、極寒の中、アリスゼルがぎぎぎっとその声の方を振り返れば。入り口付近に、スキンヘッドに刺青の、長身の女、というか、すでに女を超越した女が規律正しいスーツを着込み、動揺一つない瞳を冷静にこちらに向けているところだった。そして、その背後には。黒いボディアーマーの兵士たちが、此方は動揺を隠せない、と言った感じでどよめいていた。三十人、ぐらい。女の長躯に隠れるように、廊下に、だったけれど。どうもその良すぎる眼で、全て目撃してしまったらしい。
「……………………………………………………………………………………………、よっしゃ、殺そう。まず殺そう。すぐ殺そう。一人残らず殺そう。つか、殺す………!!」
「アリスゼル、落ち着いて」
「こ、れが落ち着いていられっかぁあああ!!なぁんで気配もなく現れんだ、このスキンヘッド!!マジ、もう殺す、絶対殺す、今どよめいた奴、一人ずつ前へ出ろ―!!」
 髪を掻き毟り、勢い良く立ち上がったアリスゼルは、本気の本気でドルチェヴィータの名を呼ぶ。妖精も放り投げられて以来、へそを曲げたようにその辺をふらふらと飛び回っていたのだが、主人のマジな声に、一瞬で緊張を漲らせて、素直にその右手まですっ飛んできた。閃光一瞬。アリスゼルの手には、灼熱の鋼が握られる。
「アリスゼル・ゼムン…ボルドー様を倒された手筈、見事。是非、お相手願いたい」
 一方、全く動揺という人間らしい感情を表沙汰にしないところを流石《鋼鉄の女》と褒め称えれば良いのか。眉一つ動かさず、ボルドー・カッツィア直属の部下、右腕とも呼ばれるイルイップは、その構えを武道のそれに倣わせた。あ?とアリスゼルは真紅の瞳を眇める。兵士と武力と全てでかかって来るならまだしも「手合わせ」だと。罠の線も考えるが、どうやらそれも彼女の気配を見る限り、ない。どうやら昨今珍しい、形だけでない武道家らしい彼女に、ったく、と呆れた息を吐きながらも、アリスゼルはとりあえずドルチェヴィータを構える。こういう手合いは馬鹿正直な分、説き伏せるとか、誤魔化す、とかそういった手法が全くの無駄だ。ならば、素直に相手してやって、隙を見て逃げる方が…、
「…私が行こう」
「ギィ?」
 だが。思いがけず前へと進み出たのは、灰銀の狼の方だった。ゆらりと尾を揺らし、アリスゼルの前に立ちはだかるように、歩み出ると、彼は僅かに振り返ってその瞳に優しい色を映してみせる。怪我を、という端的な言葉で、彼の視線が、アリスゼルの脇腹に注がれていることに気がついた。いや、確かに普通の人間ならばぶっ倒れるぐらいの怪我だが、しかし。大したことない、と首を振るうアリスゼルに、けれど彼は尾を僅かに揺らしただけで、無言だった。その後姿には、並々ならぬ決意が宿っている。空気が―冷える。彼の持つ氷の魔機《フェンリル》が、唸り声を、あげている。
「………貴様では役不足だ、犬畜生」
「やってみなくては、解らない」
 女の冷徹な瞳に感情らしき色が浮かんだのは、ほんの一瞬だった。
 視線が交わされた後には。
 戦いが、開始される。
 先に動いたのは、瞬発力で勝るギムレットの方だった。フェンリルが、本格的に咆哮をあげ、周囲の気温が一気に下がる。彼の周りは空気中の水分さえも凍り、銀色の狼が疾駆するとダイヤモンドダストが辺りにばら撒かれる。無論、イルイップの方もその動きは速い。その拳は獣の動きさえも捉え、正確無慈悲に攻撃を打ち込もうと突っ込んでくる。まずは防戦するしかないだろうギムレットに打ち込まれる拳は正に―鋼鉄。間一髪、突っ込んできたそれを避けるが、しかし彼女の拳を受けた背後のコンテナは激しい音をたてて、木っ端微塵に粉砕された。あれを、一撃でも食らったら、堪らない。
 それが解っているのか、ギムレットはどんどんフェンリルの能力を上げ、気温を下げる。だが、それも水分がない場所では、媒体なくしては、目くらまし程度の氷の礫を作るばかりだ。無論、人体を直接凍らせる事が出来れば話は別だろう。しかし、素人相手ならば兎も角、イルイップの拳が相手では、凍らせる前に急所に一撃を叩き込まれてしまう。獣の素早さを活かし、氷の煌きを作るようにギムレットは走り回っていたが、しかし、走るばかりでは彼女に勝てない。現にイルイップも少々苛々してきているのだろう。拳を打ち込む隙を伺いながらも、その攻撃には揺れが出来ている。
 拳と、氷と。
 どちらが、捉えるのが、先か。
 空気が冷える。すでに吐く息は白く、視界が曇りがちにさえなっている。それでもイルイップの動きが鈍ることはないが、一向に逃げ回る相手に攻撃は当たらず、ギムレットも彼女に攻撃を仕掛けない。一体、何を考えているのか、と、震えながらアリスゼルも思ったところで。イルイップは勝負を、かけた。辺りに散らばっていた、金属製のコンテナを掴むと、否、それは恐らく女の両手で掴める様な重量ではないだろうに、難なく彼女はそれを持ち上げ、投げつける―。無論、その対象は迷うことなくギムレットだ。恐るべしスピードで突っ込んでくるコンテナを、それでも優雅に避けて、ギムレットは鋭く跳躍する。跳躍。無論、それがイルイップの狙いだ。空中では、拳を避けることは、出来ない。
「ギィ!!」
 思わず声をあげたアリスゼルの目の前で、間一髪、打ち込まれたイルイップの拳は彼の尾の掠めただけだった。それも、そのはず。ギムレットは跳んだは良いが、《落ちては来なかったのだから》。彼は天井付近に設置された、太いパイプに掴まって、正確にはそれに牙と爪をたてて食い破る為に、最初から跳んだ。その灰色のパイプは、水圧がかけられた水が流れる水道管。温度が下がっても凍ることなく流れ続けるパイプの水は、開けられた小さな穴により、呆気なく崩壊し、怒涛の洪水のように溢れ出す。そして、その瞬間を待ち望んだように、否、正にその瞬間を狙って、ギムレットの持つ冷却を引き起こす魔機《フェンリル》が、雄叫びをあげた。
 流れ出る端から凍る水の奔流は勿論、その真下にいた女も、一緒に凍らせていく。ピシ、ピシ、ピシ、と。凍るスピードは、嘘のように、速い。
「まさ、か、こんな…」
 驚愕の色を、初めて感情的な色を明確に瞳に浮かべて、鋼鉄の女は見る見るうちに見事な氷付けとなっていった。ついでに溢れ出る水道管の水も氷の花に変えながら、すとん、と華麗にその上を駆け下りてきたギムレットが着地する。これは、また、なんというか。今まで、犬、犬、と呼んできたのが申し訳ないぐらいに、神々しいまでの、北の大地に住まう、獣の姿だった。銀色の毛皮を氷で彩り、蒼い瞳を堂々と巡らせる狼に、廊下で控える兵士たちも手を出しあぐねる。
 アリスゼルは何故か、その姿が自分の事でもないのに誇らしく思えて、ギィ、と名を呼ぶ。すると、蒼い瞳が一瞬で野性美を潜め、甘ったるく緩む。てってと何時もの調子で巨大な体躯をしているというのに、何処か愛嬌のある早足で彼が駆け寄ってくるのを迎え入れようと腕を伸ばした、その時―、
 届く、銃撃音。
 ぱららららららと軽やかとも思える銃声が、黒い兵士たちの列を玩具のように薙ぎ倒しながら乱射され、ぴしゅんと金属の壁を弾いた欠片が、何が起こったのか、状況を認識しようと瞳を巡らせていたギムレットの背中を掠める。思わず悲鳴をあげた犬がぐらりと体勢を崩し、倒れるのを、アリスゼルの瞳が、静かに、しかし確実に、認識した。
「―ギィ!」
 まるでスローモーションのようにその光景が視界を霞め、瞬間的にアリスゼルは駆け出していた。横倒れした彼の傍に駆け寄れば、背中の一部分の毛皮が裂け、血が溢れ出ている。傷はどうやらそれほど、深くない。安堵の息をつきながらも、片手を強く彼の背に当てて、とりあえずの止血をする。どうやらギムレットも突然の裂傷に驚いて、足元がふらついただけだったようで、意識を失ってはいなかった。アリスゼル、と彼は情けなさそうに耳を伏せるが、まあ通常の反応はこれなので、気にすることはないだろう。腹を盛大に掻っ捌かれても、平気で立っているような、アリスゼルが圧倒的に規格外なのだ。その辺は勿論、アリスゼル自身もちゃんと認識している。
 大丈夫だ、と何だか何時ぞやとは正反対に彼の頭を撫でてやれば、安心したように彼は蒼い瞳を細める。その姿をアリスゼルも眼を細めて見遣ると、カツン、と金属製の床をなでる、靴の音。屍を踏み越えて。マシンガンを携えて。そこに、《彼女》が。解れた黒い髪にアザレア色の瞳。血と焦げが出来てもまだその体裁を保っている軍服に、豊満な体を包んで。そこに、あの時、確かに、アリスゼルが両腕を切り落とした、ボルドー・カッツィアが。《ちゃんと両手で肩から提げたマシンガンの引き金を持ち、照準を合わせながら、そこに、立っていた》。唇に刻まれる魅惑的な笑みは、けれど狂人めいて恐ろしい。己の部下を撃ち殺しても、標的を殺すなどと。まあ、すでに常人のやることではない、か。ボルドー・カッツィア。彼女は、ふふ、と微笑んで、その銃口をアリスゼルに、向ける。
「全く情けないわ…イルイップといい、この雑魚の兵士といい…みんな《交換》、ね」
 嫌な予感は的中した。アリスゼルもまさかこんなに早く後悔するとは思っていなかったが。さっき切断された手首が、こんな短時間で元に戻る人間など無論、存在しない。だとしたら、彼女は何か。異形か、それとも別の、何か、か。考えている暇はない。ただ、彼女は確かに敵としてアリスゼルの前に存在し、そして速やかにアリスゼルは彼女を、そうあの女の息の根を止めなくてはならない。そうでなければ、自分が、自分たちが、殺される。それは、それだけは、確かだ。静かに、気配だけで、ドルチェヴィータを呼ぶ。鉄刀を構え、ギムレットを庇うように引き摺ると、彼女が馬鹿にしたように鼻先で笑ったようだった。醜い、とでも思っているのかもしれない。そんな嘲笑のような、唇に。けれど、アリスゼルは血を昇らせることなく、考える。考えろ。考えろ。考えろ。この女を、殺す算段を。
「赤いネズミさん。まさか、あの程度で勝ったつもりじゃなかったでしょうね?」
 彼女が、
「手首を切り落とされたのは、とぉっても痛かったけど…でも、それは負けじゃないわ…」
 マシンガンを構え、
「その狼さんを盾にしたら、貴方は助かるかもしれないけど…」
 嗤う―
「どうかしら?」
 カチャ。
「どうかしらもどうもねェだろうがよォ」
 え、と彼女が振り返ったのと、黄金色の雷鳴が走ったのはほぼ同時だった。空気を切り裂き、辺りを鮮やかに照らして、数万ボルトの電流が媒体なしで彼女の全身へと降り注ぐ。バチバチバチッと肉が弾けるような嫌な音が響き渡り、女は悲鳴もなく、まるで気絶したかのように、再びどさりと金属の床へと崩れ落ちる。マシンガンだけが、強烈な電流を受けて、ぶすぶすと端から溶けていた。空気が焦げる匂い。彼女の身体を蹂躙した雷は無論、自然災害などでは有り得ない。こんな、こんなことをできる人間―否、それは最早《生きている魔機》とも言うべきものには一人しか、心当たりがない。
 アリスゼルがその視線を上げると案の定、何時ものシルクハットに何時ものスーツに何時もの角に何時もの髪に何時もの瞳の。帽子屋ことアゲート・ジェサイアと、そのツバの上で電流からまた元通りパンダカラーの爬虫類に戻るチェスの。一人と一匹で一人分コンビが、そこに当然のように立っていた。そして、その背後では生き残った黒い兵士たちに向けて、重装備の兵士たちが銃口を突きつけている。何が起こったのかいまいち理解できずに瞬きしたアリスゼルに、更に追加されるように雪崩れ込んできた重装備兵が低く威厳のある声で張り上げるのが聞こえてくる。
「此方は世界復興機構本部公安委員会だ!全員武器を捨てて、手を挙げろ!!」
 公安委員会―即ち軍部に所属しながら、それを外部からの目線で監視、統制する機関。たとえば、軍の内部で行われている、違法行為や逸脱行為の取締りには必ずと言って良い程登場し、内側から軍を締め上げている剣の存在。それ故に、《剣部門》と呼ばれることもあるらしいが、どうして、また公安委員会が此処に?いや、それは流石にアリスゼルでも、否、誰にだって解るだろう。この目の前の、男。正確には一人と、一匹。孔雀緑の瞳を見上げると、彼がにやりと笑ってみせた。
「帽子屋…」
「何、君が支部を引っ掻き回してくれたお陰で、思ったより随分と簡単に事は運んだよ。どうやって彼女の尻尾を踏もうか、ずっと迷っていたんだ」
「………食えねぇ…」
「それは酷いな、アリスゼル。私はちゃんと言っただろう?《ツケにしておく》、とな」
「そいつぁご丁寧にどぉも!」
 しれっと言う彼に、アリスゼルは天を仰ぐ。嗚呼、全くそういえば、この男はこういう奴だったんだ。そういえば。昔、から、ずっと、嫌になるぐらいに。しかし、まさかオムライス一つと支部一つ潰すのが同じお値段とは。少々、天秤の具合が可笑しいのではないか。まあ、そう言ったところで帽子屋の耳には念仏状態だろうが。
 段々と騒がしくなる辺りにうんざりしながら視線を落とせば、蒼い瞳が心配そうに見上げてきていて、思わず、アリスゼルは僅かに微笑むと、その頭をくしゃりと撫でてやる。更にわしゃわしゃわしゃと混ぜ返せば。擽ったそうに呼ぶ声。それがなんだか楽しそうで、アリスゼルも結局、破顔して笑った。横では随分と仲良くなられたことで、と、わざとらしく帽子屋が呟き、うわおホモかよォー、と甲高い腹の立つ声で吐き捨てた爬虫類に向かって。
 とりあえず、アリスゼルはドルチェヴィータを投げつけておいた。


06/11/18

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