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UNLOCKED HEART RED 6

 ―あれから三日。
 軍部は何をもたついているのか、それともアリスゼルの棲家が簡単に発見に至るには足りない余程のあばら家なのか、三日間、即ち七十二時間経過しても何の音沙汰もない。無論、彼らがすでにアリスゼルと、そして目標の《犬》の所在を、熟知しており、行動に出る機会を伺っているという可能性も考えられるのだが、それにしては周囲に物騒な気配は皆無だ。以降、帽子屋及びギルド主人のシガロとコンタクトを取っていない、というのもあるだろうが、それにしても怠慢である。アリスゼルの提案により、待ちの戦法が取られている以上、「あちらから仕掛けてこない限り、こちらの出方もない」。よって、一人と一匹、正確には現在、二人となっている、アリスゼルとギムレットは。
「良いか、ギィ。こいつがピーラー、こいつがじゃが芋。芋は解るな?」
「ああ、昨日食べた食材だな?」
 二人狭いキッチンに並んで飯を作っていた。
 アリスゼルの手に握られているのは、右手にピーラー。左手にじゃが芋。それをすちゃ、と背の高い男に掲げて見せれば、彼は無表情ながらこっくりと頷いた。言うまでもなく、男は人の姿をとったギムレット。彼は黒い半袖のティシャツに、黒い革パンツの巨大サイズを着ている。元が巨躯の犬のせいなのか、彼は上も幅も兎に角広い。アリスゼルと並べばその差はより一層目立ち、身長はざっと十センチ以上、胸板の厚みは拳骨一つ分くらい違うだろうか。アリスゼルも別に成人男性として、決して小柄な方という訳ではないのだが、骨格の差、という奴なのだろうか。元が犬な以上、バランスの良い食事、とかはあまり関係ないだろうし。謎だ。DNAの都合とかだったら最早勝ち目はない。「そうだな。昨日は皮を向かずにグラタンにしたが…今日はコロッケだからな。このピーラーの、ここんとこの刃を当てて、皮を剥く。良いか?」
 そう言って彼によく見えるように両手を掲げ、アリスゼルは銀色のキッチンツールをじゃが芋の肌に当てると、しゃーっと滑らせた。すると、まあ当たり前ではあるのだが、しゃーっとじゃが芋の薄茶色の皮が剥けていく。その当たり前の光景を、おお、と人類史上初めて宇宙から地球を見た人間のように慄くギムレット。ちょっと、面白い。
「という訳でこれは簡単に皮を剥く器具だ。使ってみろ」
 両手に持っていたじゃが芋とピーラーを手渡すと、彼は厳かに受け取った。アリスゼルの手の内にある時は、まともなサイズに見えたそれも彼が手に取ると、随分とミニマムサイズに変化してしまうような錯覚を覚える。しかし、服は兎も角じゃが芋もピーラーも彼のサイズに合わせて作る訳にもいかず、使いにくいだろうが我慢して貰う他ない。一方、ギムレットは器具の使いにくさなど微塵も気にしていないのか、初めて与えられたものに興味津々で、しばらく大きい手で引っくり返したり、撫でてみたりしていたが、やがて見よう見真似でアリスゼルと同じように、じゃが芋とピーラーを構えてみせた。左手にじゃが芋。右手にピーラー。彼は緊張した面持ちでじゃが芋に刃を当てる。しゃーっと。滑らせれば当然のように薄茶色の皮が剥けるのを。犬がこれで良いのか!?とでも言いたげに、きらきらと輝いた瞳をこちらに向けるので、うんうん、とアリスゼルは腕を組んで頷いたのだが。
 しゃーっ、しゃーっ、しゃーっ、しゃーっと。
 何時まで経ってもその音は止むことなく、また当然のように夢中になっている犬はその手の内の惨状に気付くことはない。ピーラーはじゃが芋の皮を剥く器具である。決して、その刃の部分を全て使って皮ごとスライスにするものではない。しかし、まあ何と言うか、恐らくギムレットのその姿を裏切らずの馬鹿力と考えなしの繰り返し運動によって。じゃが芋は無残にもその姿を徐々になくしていく途中だった。ていうか、もう半分くらいなかった。
「こんの馬鹿が!!誰がスライスにしろと言った!!」
「………いたい………」
「皮を剥け、皮を!ほれ、ボウルいっぱい、お前のノルマだぞ」
 相変わらず容赦なく殴られた犬は涙目だったが、どてんと目の前にボウル山盛りのじゃが芋を置かれて、すぐに立ち直った。彼はどういう訳か人からの頼まれごとが純粋に嬉しい、という全くもって稀有な人種(否、犬種?)らしく、アリスゼルからノルマ、と言われて俄然やる気が湧いてきたようだった。今度は全力でじゃが芋をスライスにすることなく、ちゃんと皮を剥いていく。その横に水をたっぷり置いた鍋を置きながら、剥いたらこれ入れろ、と言えば、彼はこくりと頷いた。
 さて。その間にアリスゼルはその他の全ての調理を進める。玉葱を微塵切りにしバターで炒め、合い挽き肉は油で炒める。それから赤ワインを加えて一煮立ちさせ、ナツメグ、塩、胡椒に、それから生クリーム。鍋に油を入れて火にかけた。ついでにコロッケ以外の本日のメニューであるほうれん草のサラダとかじきのラタトゥイユを作る。ほうれん草は適当に洗ってざく切りにし、皿に盛り付けて、後はベーコンの微塵切りを炒めたのと、ドレッシングあれば良いが、かじきの方はあらかじめオイル漬けにしておいたのを、まず一口大に切って鍋に投入。パプリカ、玉葱、ナス、ズッキーニ、と夏野菜を概ね追加し、トマトの水煮を加えて、スープの素を入れれば、後は十数分煮詰めれば良い。
「アリスゼル、」
 と、ちょうどその時、良いタイミングで声がかかり、ギムレットの誇らしげな顔からじゃが芋が全部剥けたことを知る。鍋いっぱいの芋を茹でている間、彼を促して皮を片付けさせると、脚の低いテーブルの準備をさせる。ほうれん草のサラダを運ばせ、ついでに籠にこっちも山盛りの白パンも運ばせ、茹で上がったじゃが芋はザルで湯を切る。ボウルにあけられたほかほかのじゃが芋はマッシャーで潰し、予め炒めておいた玉葱と挽肉を入れる。ぱちぱちと段々温まってきた油を横目に形成するが、それはギムレットにも手伝って貰うことにする。というか、ギムレットに任せられる作業となるとこういう刃物を使わない類に限られるのだ。人間で言えば六歳児くらいまでのお手伝い。
「こうやって掌に乗せて丸く作る。んで、出来たらこの粉の中」
「解った」
 お手本に一個丸くて平べったい形を作って見せれば、彼はこくりと頷いた。一応、その様子を横で見守っていると、案の定、ギムレットはそのでかい掌いっぱいの巨大なコロッケなんだか、サンダルなんだか、よく解らないもんを作りやがった。
 ………まあ、でも、良いか。
 段々順応してきたのか、それともこれは妥協というのか、色々と諦めたアリスゼルは忠告は一言に留めて、彼の作ったコロッケに衣を付けて揚げて行く。ぱちぱちと油の弾ける音とふああんと漂い始めるコロッケの香り。《ヤツハカ》の夕暮れ時。気温は徐々に落ち着き、壊れそうな換気扇はがたがた煩いけれど、それも悪くない午後。横で鼻を時折動かしながらコロッケの揚げ上がりを待っている犬に最後の準備を急がせる。狭いテーブルの上には、本日の夕食のメニューが一通り揃い、それから最後に皿の上に山盛りのコロッケが。
「よし、完了」
 並んで完成。二人揃って丸いテーブルを囲い、特に決まった挨拶もなく、じゃ頂く、とアリスゼルの一声で食事は開始となる。ギムレットは傍目からは無表情だが、確実に犬の状態だったら尻尾横振り全力でフォークを嬉々と握り締めた。最初はフォークの使い方すら危うかった彼も、今では随分まともに扱えるようになっている。右手でしっかりと柄を持って、狙ったコロッケを逃がすことなく突き刺す。…コロッケは突き刺すものではないのだが、その辺りは多めに見るところだろう。サンダルのようなコロッケはしかし彼にかかれば、それほど不自然な大きさにも見えず、一口でギムレットは半分食らった。しかも、それが期待に応えて美味かったのか、良い表情で眼を細めてみせる。幸せそうな。コロッケ一つで幸せとは、全くお目出度い性格だと思わないでもないが、しかし、その気持ちは解らないでもない。アリスゼルは、此方は箸で、サンダル大のコロッケを綺麗に四等分にして口の中に入れた。ほこりとしたじゃが芋の甘味が口に広がる。確かに美味い。
「美味い、アリスゼル」
「そりゃ良かった」
「ああ、アリスゼルの作る飯は本当に美味い。パンケーキも美味いが、このコロッケとやらも美味い」
 そう言ってふわりと笑ってみせる彼は。嘘をついておらず、何処までも真っ直ぐに真実を伝えているだけなのだと、解るからこそ。何処か、アリスゼルは居心地が悪い。誉められるのは悪くない。自分で自分が作る飯が美味いのも知っている。けれど、慣れていない。こんな風に直球で無償で表裏なく、誉められる、なんてことにアリスゼルは慣れていないのだ。だから、アリスゼルは余計に素っ気無く箸を動かしながら、そうか、と答える。テーブルに落とした視界にはコロッケと、ほうれん草のサラダしかなく、それ故アリスゼルは知らないだろう。目の前の蒼い瞳の男が、あまりに愛しげに、その赤い髪を眼を細めて見ていることを。ゆったりとした沈黙にお互い箸とフォークを使う音だけが聞こえる。それは存外居心地の悪いものではなくて、二人は満足するまで沈黙という名の食事を謳歌すると、皿は自然と空っぽになった。
「ギィ、腹の具合は?」
「八分目、だ」
「宜しい。逆様ケーキ食うか」
「さかさまけーき?」
 首を傾げたギムレットを置いて、アリスゼルはいそいそと立ち上がる。深い赤色のオーブンに、午前中焼いてそのままだった、中身の入ったケーキ型と大きな皿を一枚。ナイフとフォークもご一緒に。テーブルに戻り、空いた皿を片付けるよう彼を促す。開いた場所にまず皿を置き、アリスゼルはケーキ型をよっと掛け声と共に引っくり返す。ぱこん、と。中身が抜けたのを確認し、そっとケーキ型を外せば。そこには、綺麗な飴色に焼けたプラムの逆様ケーキがあった。正式名称、アップサイドダウンケーキ。要するに逆様ケーキだ。アリスゼルは何時もそう呼んでいる。甘い砂糖の匂いが鼻を擽り、誘われるようにナイフを入れると、ギムレットはぴくと両手を緊張させた。どうやら彼が好きそうな気配がするらしい。パンケーキと良い、存外甘党なのだろうか。
「綺麗に食えよ?」
「ああ」
 今にも飛びつかん勢いのギムレットに一応念を押しておいて、よし、を出す。彼は握り締めたフォークで待ち構えていたように、四分の一の巨大な逆様ケーキに食らいついた。味の感想は訊くまでもないだろう。大変、良い顔をしていらっしゃる。アリスゼルも自分用にちゃんと八分の一のケーキを口に入れる。美味い。甘ったるいブラウンシュガーとプラムの酸味が絶品。我ながらこの手の菓子だけは甘いものに眼のない乙女たち(全員トップクラスの娼婦)に習っておいて良かったと思う。たとえ子供とはいえ男が珍しい彼女らに何やかやと玩具にされようとも。耐えて良かった。
 しみじみと珍しく昔日を思い出しながら、綺麗に皿を空にしたアリスゼルは満足げに一息ついた。それから何時も通り、食後の一服を堪能しようとポケットを探る。すると、何故か、ギムレットがその名を呼んで、自分の頬を指し示して、ついている、と端的に言った。一度瞬きしたアリスゼルはすぐにその意に気付いて片頬に手を遣ったが、彼はふるふると首を横に振るう。そして、一旦立ち上がり、アリスゼルの傍にやってくると貴族のように優雅に膝を折った。その瞬間に、嫌な、予感はしたのだ。それなのに、何の対応もしなかったのは、アリスゼルの、怠慢、という奴だろう。そう、予想に違わず、彼はあまりにも当然に、あまりにも自然に、その顔をアリスゼルに近づけると。銀色の髪、と、睫毛までの銀色が、至近距離に迫ったかと思えば、次の瞬間。アリスゼルの頬に柔いものが、触れていた。
 ぽろっと。
 思わず探り当てた煙草とジッポーを落とす。ラグマットの上にころりと転がった無機物の遣る瀬無さと言ったらなかったが、そんなこと、今はそんなことは重要ではない。唇が。否、正確には野郎の唇が、確かに確実にアリスゼルの皮膚に接触を。思ったより柔らかいとかそんな得たくもない情報はどうでも良く、否、どうでも良くなんてないのか?明らかに混乱して耳の先までピシっと固まったアリスゼルにを不思議に思ったのだろうか。首を傾げたギムレットが、蒼い蒼い瞳で覗き込んでくる。蒼い、瞳。湖水に似て、それでいて月のような鉱石にも似た蒼い色が、慈しむように、アリスゼルを見つめる。蒼い、色。それは凝縮の色ではない。あらゆるものを、薄く研いで、細やかに晒した色、だった。
「アリスゼル、」
 声が、近い。
「アリスゼル、」
 声が、呼ぶ。声が、呼んで。唇が、アリスゼルのそれに、
「………………、」
 重なる。ゆっくりと、けれど、触れるだけ。柔らかく。ゆっくりと。
「…ちょ、うしに乗んじゃねぇー!!!」
 一秒発作。
 一生の不覚。
 一瞬でも雰囲気に呑まれてしまったアリスゼルが愚かだった。
 何を何を何を何を―!
 鳩尾に拳を入れられて悶える男を横目に、がしがしと唇を手の甲で擦る。犬の姿の時ならまだしも、いや、別に良い訳ではないが、それにしたって何を考えているんだ、この犬は!アリスゼルは性的には至ってノーマルであって、男にちゅーされても全く嬉しくはない。断じてない。それをこれは事もあろうに頬に限らず、唇にまで。一体何を考えているんだ、一体何がしたいんだ。苛々と髪を掻き回したアリスゼルは、煙草とジッポーを片手で掴むと、鬼のように立ち上がり、涙目で縮こまっている男に向かってぐるり背を向けた。
「俺はもう寝る」
「…ありすぜ、」
「部屋入ってきやがったら殺す」
 そう冷ややかに真紅の瞳で捨て置いて、アリスゼルは足音も高々にベッドルームへと引っ込んだ。ばたん、と背後で蝶番が吹っ飛ぶような轟音を聞きながら、そのままの勢いでベッドへと飛び込む。紫煙が染み付いた生成り色の寝床は何時も通りアリスゼルを迎え入れてくれたが、それでもアリスゼルの機嫌は、否、最早それは機嫌というのか、気分というのか、上昇の気配は見受けられない。ただ、気分が、悪い。仰向けに寝転がりながら、咥えた煙草に火を点ける。普段なら寝煙草などほとんどしないのだが、今日は別だ。
 自分が何に怒っているかも解らず、苛々とベッドの上で紫煙を量産しながらアリスゼルは舌打ちをした。ベッドヘッドには何時ものように白い小箱があり、その口がまるで貝のようにほんの少しだけ開いていたが、一瞬アリスゼルがそこに視線を遣ると、疾風の速さでぱくんっと閉まる。どうやら、自分の妖精にも怖がられるくらい、アリスゼルは酷い顔をしているらしい。それが何によるもなのか、解るけれど、解らない。解らない。どうしてだろう。
 どうして、アリスゼルはこんなに怒って、否、《戸惑っている》?
 戸惑う?何に?もう三日もアレと暮らしているのだ。大抵の行為は読めているはずで、大抵の好意は、解っているはずで。それにアリスゼルだって別に嫁入り前の生娘、という訳ではないのだ。キスの一つや二つや三つや四つぐらい。バードキスが鳴いて逃げ出すようなディープなのだってしているし、まあ、それは大体女性が相手ではあるが。いや、しかし、あれ、なら、どうして、《戸惑う》?なら、良いではないか。《キスぐらい》、どうだって良いんだろう?日常なんだろう?通常なんだろう?確かに野郎からのそれだったが、別に舌を入れられた訳でもない。口唇接触に、強い拒否感がある訳でもない。どうして。ぐるりと、思考は巡って、元の位置へと戻る。ぐるり、ぐるり、ぐるり、と。灰を、吐く。

―唇に触れられた、瞬間。

 世界が止まったような感覚。銀色の睫毛。閉じる瞬間の蒼い瞳。嗚呼、綺麗だな、と思った。アリスゼルの持っていない色。それが、綺麗で。綺麗で、優しくて、嗚呼、そうだ。跳ねた。一つ、アリスゼルの中で、何かが跳ねたのだ。血流のような、心臓のような、星のような、それが。跳ねる。顔。熱。アリスゼルは、耳を揺らす。不快か、困惑か。
「アリスゼル?」
 カリ、とドアを引っ掻く音と一緒に低い声が聞こえた。思わず、緊張感を漲らせたアリスゼルに、ドア越しのくぐもった声が届く。
「アリスゼル、まだ怒っているか?それとも、眠っているのか?」
 返事は、しない。する訳が、ない。すると、見えない犬は馬鹿正直にアリスゼルが眠っているととったらしく、僅かに諦観のようなものを匂わせながら、眠ったのか、と呟いた。しばらくの沈黙。カーテン越しの強い西日が、ベッドルームの床に炎のような色を落とす。ゆらりと陽炎を伴って。強い光。全てを焼き尽くしてしまうような。
「アリスゼル…私は、恐らく、此処へ来るべきではなかったのだろう」
 彼は、言う。
「私は獣として生まれながら、人の身を持っていた。故に人の世に憧れた。人がどんな生き物なのか、興味があった。知りたかった。父母も仲間の反対も押し切り、森を飛び出したのは、もう何ヶ月も前のことか解らない。…随分…昔の話のような気がする」
 彼は、言う。
「森を出た私が見たものは、醜い、人の姿ばかりだった。人は、醜い。獣より、ずっと。私は何時しか疲れきり、やがて人の手によって、檻へと押し込められた。その場所も、とても、醜かった。だが、辛くはなかった、ように思う。私は、酷く疲れていたから。諦めて、いたから。もう、全てが、霞んで、汚れていくのに、慣れてしまっていたのだろう。だから、本当は逃げることも………そうだな、逃げてもどうせ、無駄だ、ときっと思っていたのだ、私は…」
 彼は、言う。
「しかし、私は貴方に出会った」
 彼は、言う。
「アリスゼル、貴方に、出会ったんだよ、私は。真紅の髪と真紅の瞳と、私の何一つ持たないその赤い色が、私の眼に鮮やかに焼きついた。美しい色だった。私がこれまで見てきたどんな赤よりも、貴方の赤は美しかった。すぐに解った。私が、これまで、こうして生きてきたのは、こうした妙な身に生まれたのは、」
 彼は、
「―貴方に出会う為だったんだ、と」
 言う。
「愛しているよ、アリスゼル。誰よりも、何よりも、愛している。…《約束》、しよう。貴方のことを傷つけない。何の心配もいらない。貴方は傷つかなくても、良いんだ。大丈夫。大丈夫だよ、アリスゼル」
 彼は、言った。

「…………さようなら」

 沈黙。カシカシと爪が板張りの床を引っ掻く音がしばらく聞こえ、そして、やがて玄関の方へ向かうと、消えた。がちゃりとドアが開く音。閉まる音。アリスゼルは、動かない。動けない。西日がじっくりと闇に溶けていく。窓硝子が、カーテンが、薄っすらと夜へ染まり、徐々に部屋を埋め尽くしていく。黒に。夜に。
 《ヤツハカ》の夜は猥雑で蒸し暑く、けれど、孤独で。
 ぽろっと煙草の灰が落ちたのと同時。弾かれるようにアリスゼルは部屋から飛び出した。ベッドルームのドアを乱暴に開き、リビングに幾つも並んだ窓を軋んだ音を盛大にたてながら引き開ける。まだ薄闇にしかなっていない街の路傍。ふうらりと豊かな尾を揺らしながら歩いてく銀色の犬の後姿を認め、反射的に声を張り上げようとして。そして、留まる。犬の進む方向。鮮やかなヘッドライトを照らしたジープ、所謂軍用車が一台、二台、三台。マシンガンを構えた兵士たちが、その前に正しい規律を持って並び、先頭に立つのは、スキンヘッドに刺青を入れた頭を堂々と晒す一人のスーツの女性。WRO;17所属、ある意味、団長であるボルドー・カッツィアよりもその名を知られる、鋼鉄の女、イルイップ。彼女がいるということは。最早、考えるまでもなく、どう考えても、彼らは軍であり。そして、彼は迷うことなく彼らに向かい、歩いていく。まるで主人に従順に従う飼い犬のように。彼は、はっきりと軍用車の荷台に向かって自ら進み。
 そして、その備え付けられた檻へと入る瞬間。
 ちらりと蒼い瞳で此方を見たような気がしたが。
 それだけ、だった。それだけ、で全ては終わり。お終い。犬を乗せた軍用車はついでに兵士と鋼鉄の女も乗せて、砂煙をあげて走り去る。爬虫類の眼のようなヘッドライトを輝かせながら。走り去っていく、車の後ろを見ながら、アリスゼルはずるりとその場に崩れ落ちた。腰が抜けた訳ではない。何か、気が抜けた。何かが、ぽっかりと、アリスゼルの中から抜けてしまった。意味が、解らなかった。ゆらりと赤い光が、アリスゼルの視界を横切る。妖精が、主人の身を案じるように、ふわりと周囲を一周して、頭に落ちた。こてん、と何時もの重みが。
 何だか、酷く惨めに、思えた。


06/11/17

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