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UNLOCKED HEART RED 5

 朝。薄ぼんやりと開いた瞳の隙間から差し込む日差しでアリスゼルは大まかな今の時刻を知った。今日も暑くなるのか、窓硝子とカーテン越しにすでにギラギラとした太陽が覗き、殊更憂鬱な気分を煽るが、一年を通して太陽がない朝の方が珍しい《ヤツハカ》では極当然の風景とも言えた。もぞりと布団の中で身体を縮める。昨日は何やらいろんなことが一度に起きたせいで、身体はまだ疲労しているようだった。眠り慣れたベッドで、まだもう少しだけ眠っていたい、という欲求がアリスゼルの身の内で湧き起こる。良く言えばフリーランス、悪く言えば失業者とあまり変わらない自由業につき勝手気ままの生活を送るアリスゼルに、その願望を叶えるのは、容易いことだ。まだ、眠る。もう少しだけ。今日の用向きはギルドに行くことぐらいで、それは朝だろうが、昼過ぎからだろうが、夜だろうが、構わないのだから。だから、もう少し、と殊更身体を丸めたところでアリスゼルはふと、己の眠っている場所についての違和感を覚える。足の爪先に触れる、もっさりとした毛皮の感触。仄かに熱を持ったそれは布団とは違う柔らかさを保持しており、その奇妙な物体をまだ覚束ない意識のまま、首を傾げたアリスゼルが爪先で引っ掻くと。
「…ん…?アリスゼル…?」
 《それ》が眠ったそうな声を発した。
「………………………………おい、」
 記憶復活。
 最早、考える間もなくアリスゼルは毛皮の塊、正式名称犬、ではなくてギムレットの恐らく腹と思われる辺りを、思いっきり蹴飛ばした。げふう!と生物ならざる悲鳴が聞こえたような気がするが、そんなことは関係ない。すっかりはっきりした意識の元、布団を跳ね上げて起き上がれば、案の定、体を縮めた巨大な犬が。物の散乱したベッドルームの床の上、丸まって痛みに耐えていた。倒れた耳と蒼い瞳が感情など映すはずもなく、しかし、無表情というにはあまりにも雄弁に感情を語りながら、アリスゼルを見つめる。
「…いたい…」
「当たり前だ、この野郎!ったく、勝手に人の布団入りやがって、あっちいんだよ…!!」
 そうアリスゼルの記憶が正しければ、銀色の犬は確かに眠る直前、事もあろうに人のベッドルームに強行突入しやがり、(というかアリスゼルがドアを開けた瞬間に滑り込みやがった)何だかんだ言い争った挙句も全く妥協案に繋がらず、段々そうしている内に眠くなったアリスゼルが面倒臭そうにじゃあ床で寝ろ、と言ったところまでは解っているのだが。誰もベッドの上にまで侵入して良いとは言っていない。言ってはいない、はずだ。大体、この暑い中、好き好んで一体誰が、毛皮の塊と一緒に眠りたいと思うだろうか。否、誰も思うまい。ぺたりと汗をかいて濡れた項をかきあげながら、タンクトップ一枚で寝ていたアリスゼルは、ベッドヘッドの煙草のパッケージを手に取る。「PISTOLS」は昨日の食後の一服で終わり、本日は買い置きしておいた「ROCK☆JUNK」だった。ピンク色の包装と星マークの影に隠れた全裸女性のロゴが目に痛い。葉の味は悪くないのだが。
 ジッポーで火を点け、ふうっと紫煙を吐き出しながら、アリスゼルはそのすぐ傍にある箱の止め具にも手を掛ける。白い箱。アンティーク趣味の金色の金具をぱちんと外すと、途端に真紅の光が瞬き、空気が揺れた。朝に弱いも夜に弱いもなく、何時もと変わらず無機物の利点を存分に活かして飛び回るのは、妖精《ドルチェヴィータ》。彼女はひゅひゅひゅ、と立ち昇る白い煙をかき回しながらアリスゼルの上空を三回回ると、結局何時も通りに、赤い髪の上へとこてんと落ちた。そして、それに構わず髪を掻きあげたアリスゼルのせいで、彼女が後ろへ落っこちる。ちかちか、という抗議の点滅も何時ものこと。それに構わないアリスゼルも、何時ものことだ。
 しかし、何時もと違う光景が今日は一つ。
 今更ながら奇妙な違和感を伴って、アリスゼルは《それ》を見遣った。視線の先では漸く痛みから復活した犬が、何かを考え込むようにじっと座り込んでいる。蒼い瞳に長い鼻面。ぴんと伸びた三角形の耳に太い尾。足が長く、座っていても圧迫感を与えるような巨躯は、けれど走れば優雅に伸縮し、恐ろしく素早いことを知っている。確かに獣の姿を持ち、今正に獣として存在している彼は。けれども。
「暑くなければ良いのか?」
 長い思考の上にやっと答えを見つけたと言わんばかりに犬は尻尾をふうわりと振るうと、アリスゼルが返事をする前に。その身を起こし、ぐいと鼻先を上へと向けてみせた。その仕草を不思議に思うまでもない。変化は一瞬、変貌は次の瞬き。
 あまりにも当然のように、そこにいたのは、一人の青年、だった。
 銀の鈍い煌きを秘めた髪は短く自然に刈られ、瞳は透き通った氷のような蒼。整った顔立ちだけれども、冷たい印象など一つも与えず、僅かに厚い唇は柔らかく笑みを刻む。太い首筋、広い肩幅に厚い胸板。屈強と呼んでも良い程に鍛え上げれた身体に、見上げる長身。男として多少嫉妬してしまうような、恵まれた体躯の青年は。まあ、何と言うか、当たり前のように全裸で、あって、しかも、当たり前のように、アリスゼルに笑いかけると。腕を伸ばして。
「アリスゼル…」
 ぎゅー。
「………………………」
 思考停止。
 状況把握。
 一体何がどうなって。
 俺は全裸の野郎に力強く抱きしめられているのでしょうか。
 背中を流れ落ちるのは、暑さによるのとは違う汗。
 要するに、悪寒。
「な、にすんだ、てめぇは!!」
 全力を込めた右ストレートが見事に男の腹にヒット!しかも、先程犬の姿の時に決められた場所とほぼ同じ!これは辛い。これは痛い。案の定、ギムレットは引っくり返って床に沈む瞬間に犬に戻り、痛みのあまりぴくぴくと痙攣した。口が言葉を作るように動いているが、言葉にはならない。恐らく言葉にしたくとも出来ないのだろう。哀れとも思わず、アリスゼルは朝っぱらから変な汗をかかされた報いとして当然の結果だと言わんばかりに鼻を鳴らし、咥え煙草のまま、ベッドルームを後にする。もう二度寝する気も起きず、光の差し込むリビングを通り抜け、キッチンへ向かう。冷蔵庫を開けると、まだほんの少し残った牛乳があって、それをパックから直接、アリスゼルは飲み干した。冷たい飲料はアリスゼルの喉を潤してはくれたが、それ以上の気分の上昇を行ってくれることはない。嗚呼、全く。
 ………嗚呼、全く―!
 昨日から、正確には昨日の昼過ぎからアリスゼルの日常は狂いっぱなしだ。あの犬に何処をどう間違ってか、「好意」を持たれてしまって以来、全ての歯車は噛み合わなくなった。望むとか望まないとかに限らず、何時だってアリスゼルは厄介事や面倒事に巻き込まれてきたけれど、今回は特大級だ。しかも、嫌な方面で。好意とか恋とか愛とか、それは世界で最もアリスゼルが面倒だと思っている事象。下らない。思えばそれは一時の夢で、一時の幻で、全ては朝になれば靄となって消えるのが宿命。だから、《手を出すことは場違いだ》と。教えられて、悟って、乱暴にけれど気付かれることないように距離を置いてきたというのに。何を今更。そう、《今更》なのだ、全ては。
「アリスゼル、」
 何時の間に復活したのか、ベッドルームからてこてこと犬がやって来た。あれほどの無体を受けながら(否、理由はあるのだ、アリスゼルは悪くない)、全く懲りない彼は、やはり懲りずにアリスゼルの瞳を見つめる。蒼い透明色。裏切ることなど有り得ない、何もかも信じきったような瞳をしておいて、彼は、口を開く。
「腹が減った」
「………………………後にしろ、後に」
 燃費が悪いのかそれともただ単に図体がでかいからだけなのか、兎に角ギムレットは良く食べる。昨日もアリスゼルが作ったパンケーキを美味い、と言いながら、結局八枚は平らげた。有り得ない。アリスゼルもそれほど小食な方ではないが、どちらかと言えば良く食べる方ではあるが、彼には遠く及ばない感じだった。げなりと耳の先を下げるアリスゼルに、何かの気配を感じ取ったのか、ギムレットは首を傾げる。そうすると、目線だけがきっちりとアリスゼルの方を向くのが少し楽しいだが、本人に言ったことはまだ一度もない。
「アリスゼル、何処かへ行くのか?」
「ギルドに用だ」
「ギルド?それは何だ?」
「簡単に言やあ《仕事斡旋所》。まあ、内容は物騒且つ危険なもんに限られるが」
 空になったパックをゴミ箱に放り込みながら、投げ槍にアリスゼルは答える。本来ならば、二度寝の後に行こうと思っていたが、もう今更ベッドに戻って眠る気にもなれない。言葉に潜んだ、とげっとした雰囲気を感じ取っているのかいないのか。そうか出かけるのか、と独りごちた獣はしばらくそのままの状態でいたかと思えば、きりっとアリスゼルの方を向いて。
「私も共に行く」
と、のたまった。

*****

 《ヤツハカ》には計四箇所のギルドが点在しており、その中でも最もアリスゼルの自宅から近いのが、この苦楽商店街よりほど近い路地にどどーんと罅割れたコンクリート打ちっぱなしの体裁を晒しているギルド南館である。掲げられた半分傾いた金属製の看板には、ペンキの直塗りで「GUILD cat」とあるが、その意味は入館すれば解る。ビールの空き缶やドラッグの袋が散乱し、並々ならぬ治安の悪さを露呈している門扉を潜り、両開きの木製ドアの、金属製の取っ手に手を掛ける。そして、ぐいっと扉を押せば。昼尚暗い、淀んだ空気が包み込むように溢れ出す。煙草と香水と酒の匂い。柄の悪い男と女が引っ切り無しに吸う安物の紫煙が視界を覆い尽くし、自分も煙製造機のくせをして、アリスゼルは顔を顰めた。此処の、こういう雰囲気は決して嫌いではないのだが、しかし、相変わらず息がしにくい。ギルドの中はどういう訳か壁という壁がごちゃごちゃと突き出して、まるで部屋で出来た迷路のような、妙な造りになっており、その壁で区切られた部屋というか吹き溜まりのような場所に、安っぽい椅子とテーブルが並んでいた。樫か楡か、硬い木造の家具はナイフが突き刺さったり、傷が刻み込まれたり、酒が零れたりで最早その歴史など見る影もない。しかし、こんなところに集う連中はどうせ家具の価値など気にしないのだから、まあ、それも良いのだろう。
 ギルドに集う者。それは一括りに大抵は《狩り師》と呼ばれる。
 報酬付きの依頼を受け、物も人も獣も狩る人々。犯罪者から密漁用の希少動物まで。何でもかんでも依頼次第、金次第。仕事には常に危険が付き纏い、よって真っ当な人間なら関わりたくもない職業。しかし、世界には真っ当でない人間の方が、なんと言っても多く、特にこの街《ヤツハカ》のギルドと言えば。ほぼ、軍部の下部組織という枠を抜け出し、圧倒的な財力と情報力で一定の地位を築いたと言っても良かった。けれど、何処までいっても所詮はならず者の集合。頬に傷を刻んだ男に迷彩服を着込んだ片目、屈強な体躯の長身の男に、その腕に抱かれたチャイナ服の女は、アリスゼルに艶っぽい視線をくれはしたが。多くの眼がある種の殺意を含んでアリスゼルに向けられていた。恐らく一瞬でも隙を見せれば、銃器やら刃物やらが一斉にアリスゼルの頭、首、心臓に当てられるだろう。
 それほどまでにアリスゼルの知名度は高く、能力は計り知れず、仕事の成功率が高い、ということだ。ギルドで成功することは即ち、日常生活においては失敗を意味する。名が知れ渡り、悪名は一人歩き、敵は増える。誰もが妬みの感情でもってアリスゼルを見る。一人の成功者は数多くの失敗者の報酬を奪うのだから、当然だろう。だが、アリスゼルは一切合財そんなものは気にせずにギルドの奥へと足を踏み入れた。幾ら殺意を持った視線だろうと、彼らにその気がなければ恐れるべきは何もない。一応、ギルドの内部では乱闘御法度。ルール守れぬ者には、ギルド南館の《主人》による折檻が待ち受けているのだから、みな大人しいものだ。
 そして、広い歩幅で煙を巻いて歩くアリスゼルの後ろからは、当然のように銀色の犬が。
 物珍しそうにきょろきょろと視線を振りまきながらついてくる。結局、彼は断固として留守番を認めず、最終的には説き伏せるのも面倒になって放棄したアリスゼルに当然のように同伴することになった。街というか、外自体が物珍しいのか、あちこちに眼を向けるギムレットは、それでも迷うことなくアリスゼルの後ろに、ぴたりと寄り添うようにギルドまでやって来てしまった。どうせなら途中で見失ってしまえば、などという、アリスゼルの儚い望みは消え失せた。仕方なく、紫煙を吐き出しながら、アリスゼルは目的を達するべくギルドの最奥を目指す。
 最奥。
 それはかの《執行人》の存在があるべき場所を意味する。下っ端であるならば、近付くことも、会話を交わすことも許されぬ。ギルド南館の主にして、最悪の物見、最強の《熊手遣い》として名を轟かせたかつての死刑囚。緑色に塗られた両開きのドアをノックもせずに開く。無礼者と罵る声は無い。ただ、がらんと広い部屋の中。掲げられた古い絵画には生首を持った死神が描かれ、そのすぐ下に揃えられた一脚の椅子の上に。
「やあ。待っていた、アリス」
 彼は―《六ノ眼》にして《死謡》、《物見》にして《首狩り》、《眼なし猫》にして《長鳴き闇》という、数多の呼び名を、数えられないぐらいの呼び名を持つ男は、そこに何時も通り長い足を持て余すように組んで座っていた。朝焼けのような紫苑色の髪に同色の毛皮に覆われた三角形の耳が、所々破けて、それでも何とかその形を保って、頭の横に据えられている。瞳は見えない。というか、そのあるべき場所には、皮製のアイパッチが全てを覆うように当てられ、代わりというか、ニヤリと笑みを刻む唇の下に。そう、その首の周囲に三百六十度の視界を可能にする六つの瞳がある、という異様な人間―否、異形か。彼はボーダーのニットに黒いジーンズ。そして、何故か素足で、しかも魔法使いのような、黒いローブを肩から引っさげているという相変わらず妙な格好でアリスゼルを見つめていた。瞳と異様な衣装のせいで、その年齢は、正確に測ることが出来ない。言うなれば二十代後半、だろうか。アリスゼルは彼に気さくに片手をあげてみせる。
「よお、シガロ。相変わらず元気そうで何よりだぜ」
「そんな心ない台詞言わなくても宜しい。我輩とお主の仲だろう?」
 シガロ、と恐らく世界でただ一人だけその名を呼ぶことになっただろうアリスゼルに、彼は再度皮肉めいて笑う。どうやら今、彼は多少なりともアリスゼルに対して機嫌が良くないようだった。その証拠に素足の指が、ちら、ちら、と上下運動を繰り返している。その子供みたいな癖は、彼が機嫌が良くない時によくやるものだ。低く脈打つような、人の神経を不安定にさせる声が、彼の喉の奥から紡がれる。
「妙なものに関わったの」
「何の話だ?」
「我輩の瞳から逃れようなどと一千年早いぞ。軍が動いておる。銀色の狼を見なかったか、と」
「―へえ?」
 肩を竦めたアリスゼルの横で、ぴくりと最初から緊張していた犬が、更に緊張したようだった。シガロの六つの瞳の内、前方にある三つの黄色の瞳が射るように見ているのだから、まあそれも当然なのかもしれないが。
「無論、我輩に見覚えはなかった故、否と申したが。《今後はどうなるか解らぬ》。………アリス。アリス、我輩が何を言っているのか、解るな?」
「ああ、解ってるぜ」
「現在のWRO;17のトップを張るはボルドー・カッツィア。狡猾で貪欲で危険な女だ…もしも、あやつの求めているものをお主が持っているというならば、」
「必ず来る、か」
「くれぐれも、面倒ごとは引き起こさぬよう」
「ああ。悪いな、シガロ」
「………………………我輩はお主には甘いのだ。仕方あるまい」
「嫌そうに言うなよ、逆にムカつくぜ」
「お主がサキュレの息子でなければ、の」
「何時もながらその溺愛ぶりどうにかしやがれ、このシスコン」
 そう、シガロ・ゼムンがアリスゼル・ゼムンに甘いのは、決してアリスゼル自身のせいではない。アリスゼルが彼が愛して止まぬ姉、サキュレ・ゼムンの息子だからこそ、甘いのだ。アリスゼルが何かしらの要因で死ねば、それはもうサキュレ・ゼムンは、あの花園《Butterfly》の女主人、紅揚羽であることも忘れて、世の終わりのように悲しむだろう。だからこそ、彼はアリスゼルに甘い。生かそうとする。生きて欲しいと願っている。勿論、アリスゼルはそんな彼の心境など、知ったことではなく、だからこそ、普段も一定以上の距離を置いて、近付こうとはしない。だが、今回のような非常事態の場合は、まあ治外法権も身内の特権というか何と言うか。しかし、彼の親族としてではなく、己自身の手で今の力も地位も得た、アリスゼルは勿論対価として金品と《アレ》が詰まった袋をポケットから取り出し、乱暴に彼に向かって投げた。綺麗に放物線を描いたそれを片手でキャッチしたシガロは、その匂いを一瞬で嗅ぎ取ると不機嫌そうに耳を弾かせた。
「いい加減子持ちの姉に操立てなんてしてねぇで、とっとと嫁でも見つけな」
「…余計な世話だ。それにアリス、我輩にまたたびは礼にならぬと何度言ったら、」
「ちゃんと金も入ってるつの。じゃあな」
 何か言い募ろうとするシガロの声を背中で聞きながら、行くぞ、と傍の犬に声を掛ける。得たい情報は得た。軍部が動いている。動いていて尚、接触はまだ。ということは、何れは接触がある、ということ。今の軍部のアタマが、狡猾であろうと貪欲であろうと危険であろうと、それは大した問題ではない。それは、至ってどうでも良い、話だ。ギムレットは何か呆けていたのか、一瞬遅れて慌てたようにああ、と頷くと、素直にアリスゼルの後ろへついてきた。相変わらず空気の濁ったギルドの中を抜け、数多の視線を華麗に無視し、両開きのドアを押し開けて外へと出れば。
 抜けるような、青い空。
 ギラギラと焼きつくような直射日光。嗚呼、《ヤツハカ》の夏だ。すっかり短くなった紫煙を落として、つま先で消すと、アリスゼル、と横で太陽の眩しさに眼を細めることもなく、考え込んでいたようだったギムレットが此方を見上げた。
「彼と何を話していたのだ?私のことか?」
「ああ、てめぇはお尋ね者らしいぜ、ギィ。軍の連中からモテモテとは、ぞっとしない状況だな」
「…そうか」
 半分からかうつもりで言った言葉に、けれどギムレットは神妙な口調で頷いた。しばらく視線を真っ直ぐに戻したかと思うと、ぱたりと尾を揺らす。濡れた真っ黒い鼻がどうにも出来ぬ無力感を表すように動き、常に優しい色を映す瞳が真剣に動いた。アリスゼル、と呼ぶ低いバリトンは似合わない緊張感を伴う。ポケットから煙草を取り出し、アリスゼルはとりあえず、一本抜き出して口に咥えた。アリスゼル、ともう一度、彼が呼ぶ。
「黒い人間は危険な存在だ。彼らが私を探しているというのなら、必ず見つけ出すだろう」
 咥えたまま、揺らして。
「私は、きっと貴方に迷惑をかける。大変な目に、合わせてしまう。それならば、」
 言い募ろうとした彼の言葉を、遮って。
「おい、犬」
 振り被って一発。アリスゼルの握り締めた拳は、がつんと彼の脳天に直撃した。たとえ、二度目と言えども、否、何度目だろうと慣れることなどないだろうアリスゼルの拳骨を食らい、案の定ぐあんぐあんと足元を覚束なくさせる犬の耳を、今度は容赦なくアリスゼルが横へと引っ張る。びよーん、と。案外よく伸びる耳の奥の脳味噌に直接聞こえるように、アリスゼルは声を張り上げた。
「なぁに今更ほざいてんだ、このクソ犬が!!迷惑だあ?んなもんとっくの昔に山盛りかかってんだよ!!この上、軍隊の一杯や二杯加わったところで何も変わりゃしねぇってんだ、この馬鹿が!!」
「いたいいたいアリスゼルいたい」
 目を白黒させながら痛みを訴える犬の耳を乱暴に離し、ふん、と鼻を鳴らしたアリスゼルはジッポーで紫煙に火を点けながら、尊大に立ち上がった。空は青く。煙は白く。横の犬は情けなく頭を振るい、嗚呼、全くもって何でこんなことになってるのかは、さっぱり解らないけれど。そんなことは。たぶん、まあ、そんなことは、あまりもう問題ではなくて。
「―行くぞ。腹減ってっからそういう後ろ向き茸が生えんだよ。まず、人生飯ありき。飯を食うぞ、飯を!」
「…アリスゼル、」
 それでもやはり不安そうに声を漏らしたギムレットに、アリスゼルは小さく細く煙を吐き出すと、真紅の瞳を真面目に落とした。彼の蒼い視線を眼が合う。綺麗な蒼。真っ直ぐな蒼。《ヤツハカ》の空よりも繊細そうな蒼は、こうしてじっと見てみれば、好感が持てないこともない、と思う。何となく。何となく、そういうことを考えないでもない。
「…戻りたくねぇだろ?檻の中に」
「………ああ」
「だったら、足掻け、もがけ、戦え。てめぇは人だが、獣でもある。獣ってのは自分の好きなように、思うように、プライド高く生きてこそ獣ってもんだ。それがどんだけ他人から見て馬鹿げたプライドだろうと、プライドはてめぇの中に掲げてこそ意味がある」
 そう。だから、あがけ、もがけ、戦え。
 そのつまらなくて、下らないものを、守る為に、掲げる為に。
 自由である為に。自由であることを証明する為に、生きて、みせろ。
「アリスゼル、」
「さて、何を食うかな…リクエストはあるか、ギィ?」
 伸びをしたアリスゼルに、ギムレットはほんの一瞬だけ遠くに視線を遣った後。眼を細めて、本当に嬉しそうに眩しそうに愛しそうに眼を細めて、一言。
「パンケーキ」
「……そんなに気に入ったのか?」
 昨日、八枚も食べたばかりの焼き菓子を所望した。





《六ノ眼》 シガロ・ゼムン

またの名を《死謡》、《物見》、《首狩り》、《眼なし猫》、《長鳴き闇》とも言う伝説の死刑囚。
ネコ科の耳を保持する所謂《異形》であり、その両目は盲目。しかし、首の周囲に六つの瞳を持ち、
三百六十度の視界を可能としていた。圧倒的な身体能力を持ち、両手に通称熊手、と呼ばれる鉄甲鉤を装備。
あらゆるものを薙ぎ倒し、殴り殺し、何よりも凄惨に殺害する能力に長けていた。
しかしそれも、連続無差別頭部損失事件(新世界暦3040年)を最後にして、軍部により捕縛。
その後、復興再生都市No.1《ワールド》における最高神立裁判所で死刑を言い渡されたが、
執行前に原因不明の病魔に侵され死亡。刑は不執行のまま終わり、遺体は火葬された。
懸賞金額:―W 提供条件:―

-世界復興ギルドによる賞金首リスト(巻末・世界の犯罪者たち) 3049年発行版より抜粋―


06/11/15

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