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UNLOCKED HEART RED 4

 その後。
 蚤という名の侵略者から己の身を救う為、駆除剤を手に入れたアリスゼルは、何となく成り行きのまま、身体中の毛皮を蚤という名の悪魔に受け渡してしまった犬までまとめて救う羽目になり。狭い自宅のバスルームに、一人と一匹篭ったまま、泡と泥水と蚤と薬液にまみれること数十分。何時しか《ヤツハカ》にバケツを引っくり返したみたいな、通り雨が訪れ、そして雷鳴と共に過ぎ去り、遠くの空が鮮やかな茜色に輝く頃に。漸く毛皮も髪も綺麗に洗浄され、痒みと侵略者を一掃した一人と一匹は、任務完了の達成感とほこほこの湯気と共にバスルームから解放された。
「その辺ぺたぺた歩くんじゃねぇぞ」
「ああ」
 真紅の髪から水を払い落とし、タオルを引っ掛けておけば良いアリスゼルと違って、全身まだ生乾きの犬は、そう漸く犬として見れる程度に体裁が整った彼―ギムレットは、ふるふると敷かれたバスタオルの上で頭を振るってみせる。顔の大きさと比較しても大きな三角形の耳に鋭い眼差しを持つ瞳は、正しく湖水の青。透明色の、ブルー。長く伸びた鼻面は犬科の生き物そのもので、黒い鼻先と幾つか伸びたひげが時折何かを拾って、ひくひくと動いた。巨躯、巨躯、と言ってきたが、確かにその大きさは「犬」と呼ぶには多少貫禄に溢れすぎているようにも思われる。長い脚。どっしりとした足はその体躯を支えるのに適すように逞しく大きい。綺麗に汚れを落としてみて気がついたのだが、その前足後ろ足共に金属製の輪が嵌められていた。別に彼の体を蝕むつもりでもない、それでいて複雑な気配の宿るそれは、十中八九、氷の技を扱う為の魔機であろう。どうやら友人の獣商が密かに扱う暗器同様、相当のレア品のようだが、アリスゼルは魔機の専門家ではないので詳しいところはよく解らない。蜜蜂辺りに見せれば何か解るかもしれないが、それはそれで説明やら口止めやらが面倒そうだった。あいつ馬鹿だし。
 アリスゼルの自宅は、雑居ビルを改築した古い建物で、その間取りもかなり無理矢理な感じになっている。横に長細い為、自然と部屋の多くは横倒しになり、最も西側の外階段から繋がる玄関から入ってすぐが廊下。そこを抜けるとコーナーを利用したキッチン、そして、キッチンから直接繋がるリビングルームが建物の横一辺を、全て使用した形になっている。よって南側一面、立付けの悪い窓が並び、煤けた窓硝子からは鮮やかに染まった空が見えた。
 その一つをががが、と異音をたてて無理矢理引き開ければ、湿気を含みながらも僅かに涼しい風が吹き込む。日が落ちれば多少はこの暑さも和らぐだろう。特にスコールが降り注いだ日は、コンクリートの熱が緩和されるから良い。西の空に落っこちていく夕日の眩しさに真紅の瞳を細めながら、アリスゼルは久方ぶりに日の目を浴びた銀色の家電を構える。即ちそれは古来より「ドライヤー」と呼び習わされる、簡単に言えば火の属性と風の属性を持った魔機内部で使用し、温風を発生させる装置である。アリスゼルの髪は然程量も多くないし、大抵放置して乾かしてしまうので、ほとんど使われることなく眠っていたわけであるが、こうして役に立つ日も来るものだ。相手は特大ボリュームの毛皮。
「じっとしてろよ」
 一声かけて、ドライヤーのスイッチを入れる。ぶおーと途端に全力でファンを回し始めた家電に驚いたのか、大きな耳をそばだてたギムレットにアリスゼルは容赦なく温風を浴びせた。おそらく大抵の動物がそうであるように。きっと彼も風を吹き出すこの道具が嫌なのだろう。思い切り顔を背けているが、しかし、それで止めるような、仏陀も微笑んで道を譲るような性格を、アリスゼルがしている訳が、ない。むしろちょっと面白がって、ドライヤーの風を浴びせ、尻尾から背中の毛に至るまで。濡れていた毛は徐々に乾いて、ぺたりとした質感から、ふかりと体温を戻し始める。最初は泥に塗れ、果ては濡らされて黒っぽく淀んでいた毛皮が、本来の輝きを取り戻し始めた。その色。灰銀とも白銀ともつかぬ、不可思議な鋼の色合い。まるで、薄氷の月のような、それでいて金属の屈強さを秘めたような。鈍く煌く生まれついての色彩を、何日ぶりかに取り戻したギムレットはドライヤーの温風が止まると同時に、ふるりと体を振った。
「漸く、何とか見れるようになったな…」
「ああ。もう何処もこそばゆくないな」
「……毛皮がある奴ってのは蚤の痒みに耐性でもあんのか…?」
 少なくともアリスゼルは数匹髪に紛れ込んだだけで、居ても立ってもいられないような苦痛を味わったのだが。彼にとっては「こそばゆい」程度の感覚しかなかったらしい。恐ろしい。あんなものに身体を這い回られている、というだけで、悶死しそうになる人間は恐らく山ほどいるだろうに。ドライヤーを置き、窓際に寄りかかって座りながら、アリスゼルは耳に少し入った水を振るい落としている犬を見遣った。
「さて。それじゃ、ギムレット、だったか?」
「ああ」
「ギムレット…ギムレットか………。面倒臭ぇ、ギィで良いな」
「ああ、アリスゼルの好きなように」
 てっきりあまりに適当すぎるニックネームに怒るかと思いきや、意外にも彼はふわりと眼を細めて肯定しただけであった。どうも、こういうのは、調子が出ない、のだが。まあ、しかし、今更会話を強制終了させるわけにもいかず、アリスゼルはがしがしと真紅の髪を掻き回すと、あー、と唸った。訊きたいことは山ほどある。解ることも解らないことも、全て含めて今一度彼に確認する必要があるだろう。果たしてどんななりゆきとはいえ。こうして家にあげて、言葉を交わしてしまっている以上、アリスゼルは彼に関わってしまっているのだから。つまるところ帽子屋曰くの、「面倒ごとに首根っこを掴まれて」という奴だ。今回も例によって、アリスゼルの意志とは全く持って関係なく。巻き込まれている。
「まず訊くが。てめぇ何もんだ?…ああ、確かそりゃさっき訊いたな…。あー、つまり、お前はその犬の姿と、人の姿を、自由に行き来できる、のか?」
 そういう存在なのか、と。
 問うアリスゼルにギムレットはこっくりと頷いた。獣と人と。両方の姿を持つ存在。となれば、やはり、その存在は、奇跡。否、どちらかと言えば、《悪夢》なのだろうか。人と獣と異形と、そしてもう一つの、それ以外。誰も想定しなかったイレギュラー。誰も思いも寄らなかった新しい存在。人と獣の狭間の存在にして、半端を強いられる者。どちらにも縛られ、どちらにも縛られない。それは幸福なのか不幸なのか。アリスゼルには、解らない話であるけれど。
「なら…お前みたいな奴はもっと、いるのか?つまり、種として存在しているのか?」
「…いや。私は、私と同じような者には今まで一度も出会ったことがない」
「今まで?今までお前は何処にいた?森か?平原か?それとも、他の街か?」
「違う。私がアリスゼルに出会う前にいた場所は、暗く狭くそして血の香る場所だった」
「………血…?」
「私は自由を奪われていた。檻だ。金物と血の匂い。黒い人間が外にはたくさん居て、私を見張っていた。白い人間は少ししかいなかったが、稀に私の自由を奪って、色々なものを施した」
 クスリやメスやクダを。
「………………そりゃあ…、」
 それは、間違いなく、正しく、実験場だ。実験体だ。獣でありながら、人の身を持つ特異な存在を、誰も見逃さなかった訳だ。見逃して、くれなかった訳だ。恐らく囚われている間に頭上で交わされた会話から憶えたのだろう。クスリ、メス、クダ。そして、檻。黒い人間に白い人間。圧倒的な設備と圧倒的な叡智を持って、そんな所業が成せる場所など世界には、そう幾つもない。黒きは闇を這いずる白き神の下僕。世界復興機構、通称WRO。表向きは世界を復興させるべく、その諸手を全ての人民に振るうのを絶対の命題としているが、一度引っくり返せば。日の当たらない場所では。今でも。《昔からずっと変わらず》、叡智と知識を追い求める、人を人とも、獣を獣とも思わぬ活動が続いている。智を得るために智に囚われた者たちの終わらない、凄惨な宴とも呼べる、悪夢の檻に。この獣は居たのだ。恐らく全く己の意志とは関係なく。追い詰められて、閉じ込められて、暴かれて―逃げ出した。
「…お前何でそこから逃げ出した?いや、逃げたくなるってのは解るが、よく逃げ出せたな、というか、まあ、何かあったのか?」
「ああ。あの日、白い人間が私の檻に女を入れた。若くて白い女だ。白い人間は私に彼女との生殖を要求した。だから、逃げたのだ」
 淡々と告げるギムレットに、思わずアリスゼルは口を開けた。いや、実験動物である獣を交配に使うのはよくあることだ。実験の意味と実用的な繁殖の意味も込めて。特にギムレットのようなある意味、その本質すら全くの不明の、未知の生物と人間との交配を行うのは「可能」か否かを見極める為にも重要な意味を含んでいたのだろう。それは解る。解らない、のは、彼の行動だ。彼は生物学的には見ての通り雄、であり、あくまで生殖行為においては成す側である。痛むことはなにもない。むしろ、本能的な欲求として、逆に積極的に雌を求める方が自然というか何と言うか。
 …何と言うか。
 ひょっとしたら人間なんてのは、本当に禄でもない生き物に成り下がっているのかもしれない。獣にも抑えられるような欲求を抑えられず、他者を傷つけ生きる人間の何と世界には多いことか。やれやれ。無情だとは言わないが、無為だとは言わないが、しかし、アリスゼルはポケットを探り、煙草のパッケージを取り出した。描かれた毒蛾のイラストにディープパープルの「PISTOLS」のロゴ。白い紫煙をぼうっと吐き出して、天井を見上げる。
「馬鹿だな、ギィ。お前が犯さなくたって、その女、どうせ他の奴に使い回しだ」
「…そうか」
「そうだな。だが、まあ、」
 まあ、この世に救いなんてあってないようなもので。それでも一つ、人が救いを求めるとしたら。
「お前みたいな奴を、俺は嫌いじゃねぇ」
 ニィと笑みを刻んだアリスゼルに、彼は一瞬眼を見開いたが、次にはゆっくりとすっかり乾いた尾を軽く振ってみせた。フィルターを噛み、くるくる回る紫煙を追いながら、眼を閉じる。部屋に満ちているのは一匹と一人による沈黙であったが、不思議とそれは悪い感じはしなかった。ただ、遠くに喧騒が聞こえ、湿気た風が部屋の中へと吹き込む。夕暮れの、ほんの僅かな短い時間は。何故か、殊更ゆっくりと通り過ぎていく錯覚を覚えた。たっぷりと。数十秒も眼を閉じてから、アリスゼルは真紅の瞳をぱちりと開く。目の前には相変わらず、座った犬が此方を見ていた。蒼い、混じり気のない鉱石のような透き通った瞳が、以前と変わらず、そう出会った瞬間からまるで変わらず、真摯にアリスゼルを見つめ。そして、彼は口を開くと。
「アリスゼル、腹が減った」
 そう、切なそうに告げた。
「………てめぇは本当に緊張感がねぇな…」
 しかし、彼が涎を駄々漏れにするほど空腹にしながら、思い切り食事を食い損ねたことを知っているアリスゼルは、強く責める気にもなれずに、紫煙を咥えたまま、よっと立ち上がった。冷蔵庫の中身から戸棚の中身まで一通り記憶を探り、どうにも食材が少ないことに舌打ちしたくなったが、何とか小麦粉も卵も砂糖も牛乳もあることなので。
「パンケーキでも作るか。ベーコンエッグもつけてな」
「…ぱんけーき、とは何だ?」
「………………見れば、解る」
 少し前から思っていたが、どうもギムレットは人と獣を行き来するとは言え、生まれの方は全くの獣なのだろう。人間社会に関する語彙力が凄まじく貧困だ。ひょっとして、何やかやと訊かれる度に俺が答えるのか?と恐らく、間違っていない未来予想に面倒ごとの気配を感じ、耳の先を下げるアリスゼルはそれでもキッチンへと立った。狭い城ではキッチンへは約六歩。白くペイントされた冷蔵庫から卵と牛乳を取り出し、バターもついでに。戸棚にから取り出した小麦粉をボウルにどさっと振りいれ、慣れた手付きで卵を一つずつ片手割りしながら、そうだ、とアリスゼルは咥え煙草のまま背中越しに犬に問うた。一つ、これだけは確認しておかなければならないことがある。
「お前、これからどうするつもりだ?」
「…私、か?」
 成り行き上、何故かアリスゼルの家に居座っているが。彼にも彼なりの展望があり、望みがあるのだろう。たとえ、強制される性交渉が嫌で逃げ出してきたとは言え。それを可能にするのは莫大なリスクを冒さなくてはならない。そこまでして得た自由の末に何をするのか。何をしたいのか。何処へ行きたいのか。何処へ、戻りたいのか。それを純粋に問う意味であったのだが、しかし、背後の獣は何故かしばらく逡巡したような気配を寄越した後。
「私、は、」
 酷く重々しく真剣に四文字だけ発して、黙り込んでしまった。思わず何事かと三つ目の卵を片手に構えたまま、アリスゼルは只でさえ性能の良い耳を澄ませる。振り返るようなことはなくとも、待っている気配が伝わったのだろう。ギムレットはたっぷりと数秒は間を置いて、ゆらりと、惑うような迷うような躊躇うような、それでいて熱を含んだ、喉の奥から鼓膜へと直接吹き込まれるような甘ったるいバリトンで。「私は、貴方の傍にいたい」
 そう―。
 そう、言った言葉の意味を理解した瞬間に、アリスゼルは手の中の卵を思い切り殻ごと割り砕いた。
「………………………………………………………は?」
 ぼたぼたと殻も中身も全部含めて右手から垂れ落ちる不快感は、最早気にならない。まるで、油の差していない人形のように、ゆっくりと振り返ったアリスゼルの目線の先で、犬は困ったように首をかしげると、静かに尾で床を掃いた。いや、困りたいのはこっちの方だ。意味が解らない。何がというか、誰がというか、いや、今の状況でアレはない。あの台詞は、ない。今アリスゼルは彼の今後の展望を尋ねたのだ。その結果としての言葉がアレでは、まるで。
「………良いか、ギムレット。もう一度訊く。《これからどうするつもりだ》?」
「…アリスゼルの、傍にいたい。駄目、だろうか?」
「………………………………なんで。何でだ…」
「えっ」
 力なく訊いたアリスゼルの言葉に、露骨に動揺した犬は、思わずと言った感じに上擦った声を発した。そして、なんとなーく左前足を上げると、うろうろと視線を彷徨わせ、終いにはぱっと明後日の方向へ顔を背ける。
 ひょっとして。
 ひょっとしなくとも。
 こいつ、照れてる…?
 ふらあっと遠くなる意識。アリスゼル・ゼムン、女娼館《Butterfly》きっての美女の息子に生まれて早今年で二十一年。女性経験は両手では足りないほど。野郎に迫られたことも片手では足りず、その度に盛大に返り討ちにしてきたのに。嗚呼、世界は何時だって不条理で無情で非常で非道で救いなんてなくって、お日様は黄色くて、お月様は緑色。一体、俺が何をしたっていうんだ。それともそういう星の下に生まれた運命か変なものにまとわりつかれて、関わった挙句に告白されるのが日々を真面目に生きている俺に対するご褒美って奴なのでしょうか、ああ、本当に。アリスゼルはこの世界の神など一ミリグラムも信じていないけれど。今ばかりは、六枚も羽根を掲げやがった白い神の、その翼を上から順に毟り取ってやりたいと心底思った。そんで火にくべて、芋焼いてやる。
「……アリスゼル?どうした?」
 甘いバリトンは意識を遠ざけている内に何故か近く。すぐ傍でアリスゼルを見上げる蒼い瞳にかち合って、ぎょっとする間もなく、鋭い瞳が俄かに緩く、優しく、細くなって。不覚にも、その蒼氷の煌きに眼を奪われたアリスゼルは。
「やはり、貴方の瞳は近くで見た方がより一層美しいな」
 そんな彼の、心底嬉しそうな言葉に。考えるよりも先に拳が動いて、気がつけばその脳天に勢い良く鉄拳を食らわせていた。
 たぶん、アリスゼルにそんな、罪はない、と思う。
 きっと、たぶん。

 恐らく。





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06/11/14

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