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UNLOCKED HEART RED 2

 噎せ返るような熱気が空気という空気に満ちている。息を吸い込めば、纏わりつくような湿気が肺まで到達するようで、誰もが恨みがましげに空を見上げるが、そこには爛々と輝く炎の天体が堂々と鎮座しているだけだ。抜けるような青い空。雨も多いが、晴天はそれよりもずっと多い、この街《ヤツハカ》においては見慣れた色。正式名称は復興再生都市No.17《ヤツハカ》。十七番目だというのに「八つ墓」だとは、少々紛らわしいが、しかし、これには確かな由来があるのだから仕方がない。世界復興機構という名の新しい世界の《秩序》とやらが定めた、世界で第十七番目の都市。盆地という特異な地形に位置するこの街には、広い街道に沿った入り口に、最早一つの文字すらも読み取れぬ墓のような石碑のようなものが、八つ、あるのだ。それ故に、名は《ヤツハカ》。
 設立当初、街は規律と希望に満ちていた。それは世界復興機構、通称軍部の真新しい厳格さも要因の一つであったが、兎角、商業と産業で栄えることを義務付けられた都市は、街の中を流れ、そして、街の外へと流れてゆく運河を中心とし、発展を遂げた。廃墟と崩壊の隅っこで。そう、それは何処まで行っても結局は悪あがきだったというのに。しかし、人々は仮初の新生に酔った。これからの希望を謳うのに、今際の夢を見るかのように、酔いしれた。そして、当然生じる綻び。人々は―《人間》たちは、己の存在を脅かす存在が徐々に、徐々に、その数を増やしているのに、少しも気がついていなかった。否、気がついていて尚、気付かぬように努めていたのかもしれない。本能的に、慄然と。ただ、夢を見ていたかったのかもしれない。度重なる大戦で痛めた心と身体を、これ以上傷つけたくなかったのかもしれない。
 だが、逃避の余地もなく、《彼ら》は増え続ける。獣と人が交じり合う過程の存在―畏怖を込めて人はそれを《異形》と呼ぶ。人間とは異なる肌の色。人間とは異なる瞳の色。人間とは異なる身体能力。人間とは異なる翼や角や爪や耳や、力。《そんなもの》が。御伽噺の中の存在でしかなかった、《そんなもの》が着実に《ヤツハカ》では増殖していったのだ。何故かは解らぬ。しかし、確かに日が過ぎる毎に、年を追う毎に、異形の数は増え続け、そして何時しか、人間たちは、彼らがある一定の矜持と能力を持って、自分たちとは一線を画すまでの、強大なマイノリティを築いてしまったことを知った。街は―特に南地区のほとんどは異形たちが住まい、人間たちはどうにか自分たちで作り上げたと言い切れるような、高いビルディングの建ち並ぶ北部へと移って行った。引かれた大きな溝。決して埋めることは出来ぬ、けれど、それは、しかし。
 橋をかければ、済むようなもので。
 よって、《ヤツハカ》は他の都市から後ろ指を指されながらも、本日まで当たり前のように以前と変わらず存在し続けている。世界二十二の都市の内、治安の悪さは下から三番目。異形の数は全人口のおよそ三十六パーセント(推定数値)。コンクリートの密林と泥臭い果実の匂いと罪と罰と死体と聖者と金と悪意と愛と報復の街。名を、《ヤツハカ》。真っ当な人間には厳しいが、ならず者には優しいこの街は、今日も新たな移住者を受け入れ、そして混沌を極めている。混迷を。日常と健常の中に潜む、日没と異常。今や世界はどうすることも出来ず、そう《神》でさえもどうすることもなく、静かな混乱を受け入れているように思えた。それはあたかもぐちゃぐちゃのパズル。何時だって一つ、二つ、ピースが足らず、絶対に完成することはない。けれど、それで良いのだ。完璧なものは壊したくなる、とは果たして誰の言だったか。最早、そんなことはどうでも良い程に《ヤツハカ》は《ヤツハカ》として存在している。多くの矛盾を孕み、多くの生き物を抱えて。

 そして、彼も。そんな街で暮らす、《異形》の、一人。

 目的のレストランは三十分ほど歩いたところで漸く見えた。掲げられた看板には大きく帽子のマークが彫りこんであって、一見すればただの帽子屋。けれど、確かに良い匂いのする店先で、アリスゼルは僅かに汗をかいて立っていた。目の前にはドア。これを開けば、美味い食事にありつけるだろう。空腹は満たされ、仕事の疲れは癒される、天国への扉。開くのに何を躊躇う必要もない。だが、アリスゼルは限界の緊張感を伴って、そこ場に立ち尽くしていた。戦いは一瞬の判断がものを言う。全ては一瞬で決し、全ては一瞬が定める。だからこそ、集中力が肝要だ。大きく息を吸って、吐く。精神を集中させ、ドアノブに手を掛ける。開くのは一瞬だ。そして、閉じるのも、一瞬。開く!アリスゼルがその身体を店の中へと滑り込ませる―と、同時に灰色の物体が滑り込む!ばったん。
「て、っめ…!!」
 アリスゼルが肩を怒らせるのも無理はない。滑り込んだ店内。質素なテーブルセットが愛想なく並んでいる、少し薄暗い店の木目の床を背景にゆらりと揺れる巨体。確かに、先程の街道で出会った時と寸分違わぬ汚い犬が。寸分違わぬ格好でアリスゼルの目の前に足を揃えて座るところだった。蒼い瞳は相変わらず、アリスゼルを見上げてくる。
「な、んのつもりだ!!こんなところまでついてきやがって、ああ!?言いたいことがあるなら言いやがれ!!」
「………………………」
「…マジで、ムカつく…!!」
「…アリスゼル…?」
「ああ!?」
 思わず怒号のまま声のする方に振り替えったアリスゼルは、珍しくも僅かながら驚きの色を瞳に浮かべた店主を見た。カウンターの向こう側。着込んだスーツは一級品。髪は厳かな象牙色を保ち、すっきりと常に整えられている。瞳は鮮やかとは言いがたい孔雀石の緑。頭の横から螺子を巻いたような角は右側が途中からばっきりと折れていた。そして、何よりも目立つのは頭の上の全く実用性に向かない長いシルクハット。店の看板と全く同じデザインを有し、また彼の名前―帽子屋、という誰が聞いても納得のあだ名の由来でもあった。そして、その帽子の広いつばの上。何時もの如く白と黒のカメレオンが寝息も仄かに惰眠を貪っている。カメレオンの活動時間が何時なのかは知らないが、アリスゼルはほとんどこの生き物が目覚めている場面に遭遇したことがない。否、起きていたら起きていたらで、大変喧しいのでそれは別に構わないのだが。帽子屋の穏やかな物腰と鏡を反するようにして、かの爬虫類は反紳士的だ。
 まあそれは兎も角。友人とは呼びづらくとも、腐れ縁となら呼べる帽子屋の困惑さえ含んだ声に、アリスゼルは漸く我に返った。そうだ。折角、此処まで《これ》の存在を無視してきたというのに、そう敢えて、存在自体ないように振舞ってきたというのに。無論、何処へ行っても着実に、この犬が一定の距離を取って、着実についてきていることは解っていたのだけれど。街道を抜け、街へ入り、裏路地を抜け、店の前へ来ても、尚。泥と血にまみれたモップ状の物体、即ち犬は後ろにいた。そして、後ろにいるだけで何もしない。ただの一言も発することなく、アリスゼルの背後にまるで幽霊のように。
 幽霊。
 洒落にならない。とんでもねぇもんに憑かれちまった、と極度の疲労感に苛まれて、アリスゼルは大きくため息をついた。こうなったら、とことん憑かれるしかないのだろうか。勘弁してくれ、頼むから。嗚呼、全く何時だって俺は獣運がない。毒蛇には襲われ、猫に叩き起こされ、ネズミにも叩き起こされ。考えてみれば、今までアリスゼルと相性の良い獣など、何処にもいなかった。先天的にそういう体質なのかもしれない。どんな体質だ。汝、獣で生涯苦労するでしょう。
「今日は妙な連れだな、アリスゼル」
「連れじゃねぇよ…」
 どう見たら連れに見えるというのだ。スツールに腰掛けながら、帽子屋を見遣れば彼は少し間を置いて、唇を歪めてみせた。怪訝に思って、彼の視線の方向、即ち後ろを見遣る。すると、綺麗にアリスゼルの真後ろに前足を揃えて座っている、最早、記すのも億劫ではあるが、当然の如く犬が。じーっと視線を此方に向けたまま微動だにしない。
「………………、オムライス」
 もう笑うなら勝手にしてくれ、と注文を促せば、帽子屋は歪めた唇のまま(無論、それは彼なりに笑いを堪えた顔だ)、カウンターの向こう側で立ち上がった。手慣れた仕草でフライパンを用意し、炊けた白米に人参、玉葱、マッシュルームの、各種微塵切りを取り出す。コンロには青白い炎が灯り、冷蔵庫へと向かう彼が用意するのはバターに、卵、ケチャップ。何時も通り、頭の上のシルクハットが落ちる気配もなく、また、カメレオンも同様に落ちる気配なく眠っているのが、客人は不思議で堪らないのだが、帽子屋にとってはそれが当然のことなのか、淀みない手付きで料理を作り上げていく。ご飯の焼ける良い匂い。ケチャップがじゅあっと音を立て、あっという間に出来上がったケチャップライスを白い皿に取り、続いて鮮やかな黄色がフライパンに流し込まれる。バターの、大変芳しい香りと共に。本当に手早く、彼の料理の中でも、かなりの腕前だと思われる、オムライスが完成する。少なくともアリスゼルの中では、《DEATH MARCH》一の絶品料理だ。
「お待たせ様」
 銀色のスプーンを一つ添えて、カウンターの向こうから差し出されたそれ。バターの香りも度し難い卵の上には、たっぷりとケチャップの赤を使って、何故か「ALICEZEL」と書き添えてあった。
「………………………」
 彼曰くの「サービス」ということらしいのだが、しかし、どう考えても二十歳を越えた男に、ケチャップで名前を入れるのはサービスではない。嫌がらせだ。
「つか、字数多いから塗りたくり状態なんだけどよ…」
「名前を入れて貰った喜びに比べたら、微々たる塩分だろう?」
「だから、嬉しくも何ともねぇんだよ」
 冗談なのか本気なのか。いまいち計り知れない帽子屋に疲れた相槌を打ちながら、スプーンで一口掬う。黄色い卵と赤いライスとそれから山盛りケチャップと。美味い。塩分は少々多めだが、確かに美味い。もそもそと空っぽだった胃に食べ物が落ちていく満足感で、漸くアリスゼルは自分が相当空腹だったことに気がついた。確かに煙と金では膨れぬものもある、か。食べ物って大事、と今更のようなレッスンを一つ頭の中に加えて、食べることに集中するべくスプーンを動かす。しかし、その時。アリスゼルは、背中に露骨な視線を感じて、ふとその動きを止めた。何だか嫌な予感がする。振り向いてはいけない気がする。絶対、後悔する。だが、人とは不思議なもので、「絶対」の結果が見えていたとしても確認せずにはいられない生き物なのだ。案の定、アリスゼルも行儀悪くスプーンを咥えたまま、ゆっくりと肩越しに己の背後を振り返る。果たしてそこには。
 先程と寸分違わぬ格好で座りながらも、口の端からだらーっと涎を垂らした犬が。
 先程とは少し違う意味を込めて、此方を見つめていた。それはもう羨ましそうに、口惜しそうに、見つめていた。見れば、その腹がべっこりと凹んで、如何にも空腹そうだ。今正に一口目に満たされたばかりのアリスゼルは、耐えられずに視線を戻す。すでに己の定位置に戻っていた帽子屋が、やっぱり、口を歪めていた。この野郎。完全に楽しんでいる。
「その腹立つ顔、いい加減に止めろ、帽子屋」
「いや、何…、随分と…」
「………残飯とかねぇのか?」
「残念…ながら、当店では野良犬の餌付けは行っていないのでな」
 笑いを堪えて、震える声で言った帽子屋にアリスゼルは思わず半眼になる。だが、それで怯むような神経の持ち主でもない。帽子屋は、駄目ー、とまるで子供にやるように二本の人差し指で罰点印を作って、わざわざアリスゼルに掲げて見せた。嗚呼、本当に、本当にこういう嫌なところは昔からちっともまるっきし変わりはしないのだ、この《二人》は。
「…オムライス、一つ追加」
「承知した」
 全て心得た、というような顔をして立ち上がる帽子屋に、深いため息をつきながらも、アリスゼルは自分の皿のオムライスに、山と盛られたケチャップをスプーンで端へと避ける。確か、犬にはあまり過度な塩分は良くないのではなかっただろうか。否、これはたとえ人間でも良くないのだろうが。病とは無縁になりつつある異形に健康志向など笑い話にしかならないので、あまり意識したことはないけれども。とりあえず、見た目は薄い赤色にまで還元したオムライスを手に、アリスゼルは、スツールをくるりと回す。見れば、期待と驚愕で耳を動かした犬と眼が合い。アリスゼルはその期待に応えるべく、彼の足元に皿を置いてやった。ばさあっと重たそうな尻尾が本物のモップのように床を掃く。
「うら、綺麗に食えよ」
 無言の。
 けれど、尻尾を全力で振るう様子に確かな彼の感情が見て取れ、アリスゼルが思わず目を見開いたところで。大きな耳が、ぴくりと過敏に立ち上がる。蒼い眼が鋭さを増し、かち、と獣の強靭な爪が床を引っ掻いた。明らかに変貌した彼の雰囲気に、アリスゼルが声を発するまでもなく。次の瞬間には、犬の鋭い牙によって服の裾を噛まれ。その単車の加速並みの強い力によって、大袈裟な音をたててスツールから引き摺り落とされた。一瞬、何が起きたか解らず。また、油断していたせいか何の受身もとれなかった自分に若干のショック。しかし、呆けたのは一瞬で、次には口を開いて、目の前の犬に対して、大層な怒号を浴びせようとした、その、瞬間。
 たら、らららららら!
 まるで玩具みたいな発射音が脳髄に直接響き渡り、アリスゼルは本能的に身を縮めた。ぱし、ぱし、かしゃんっ、と店内のあらゆるものが粉砕されていく音に、頬を掠める熱風、火薬の匂い。独特の連射音は、恐らくサブマシンガン系列。今まで何処に隠されていたというのか、殺気という名の気配を纏って、店の窓硝子が一斉に割られる。闖入者は、窓という窓、ドアというドアから全部で六名。少数の機動部隊と思しき一隊は全身黒ずくめのボディアーマーで武装していた。んな馬鹿な。まだ通りすがりの物取りや通りすがりのテロリストだというならば、兎も角。これではまるで。
「軍…?」
 呟いたアリスゼルに答えるように懐に落ちたドルチェヴィータがちかちかと光った。視力を何倍にも高めるスコープに、提げた武器はサブマシンガン《デルタW-S》。鍛え上げられた屈強な身体に、その何処にも十七の印などないが、正しく。チッ、と舌打ちしたアリスゼルは向けられた六の銃口に唇を舐める。軍部に目をつけられる理由など知れない。だが、この街で最も敵に回したくないものを、今現在、敵にしてしまっているのは確かなようだった。サブマシンガン。弾切れを狙う訳にもいかず、かといって、至近距離型の鉄刀妖精では、考えるまでもなく不利。かの帽子屋の電撃を使えるのならば或いは、と言ったところだが、彼がどうしているかカウンターの向こう側で計り知れない。
 正しく八方塞りってやつか。
 突然落とされた窮地ながらも、冷静な思考で纏め上げ、その結果導き出された全く救いようのない事実にどうしたものか、と、アリスゼルはげんなり耳の先を下げる。どうも今日はついてない一日らしい。変な生き物に憑かれるは、軍部に理由も解らず襲撃されるは。言い切れるのは、本日、世界で一番ついていないのは、確かに今此処にいる、アリスゼル・ゼムンその人だ、ということだ。全く何かに憑かれているとしか思えない。否、正に目の前のこの犬に、憑かれているのだろう。八つ当たりとは解っていても、恨みがましい眼で汚れた毛皮を見つめてしまう。そう、アリスゼルに背を向けた犬は、体を低く保ち、全身を膨らませるようにして、目の前の敵を睨みつけていた。喉の奥から搾り取るような、低い唸り声。それは彼がリザードマンと対峙していた時に聞いたような、本物の闘志を秘めた生存本能の声だった。牙を剥き、耳を立てた犬は、けれど、それでも犬でしかないだろうに、何故か軍兵たちは、様子を伺って怯んでいるように見える。何故だ。そのままマシンガンの弾を撃ち込めば、それで終わりだろう。否、それとも《撃ち込めない理由でもあるのか》。
 何だ。何故だ。絶対の緊張の静寂が保たれた戦場で思考を巡らせるアリスゼルの性能の良い耳に、ピシ、と何かの音が届く。また、何か。何か、何だこれは。兵士がたてている音でもない。銃撃の音でも、電撃の音でもなく、これは。
 これは、何かが、凍る音だ。
 理解した瞬間、あまりにも突然に轟音をたててカウンターに備え付けられた水道の蛇口が吹っ飛んだ。当然、ストッパーを失った水道管からは押さえつけられていた膨大な量の水が溢れ出し、その白い飛沫が、《端から順に凍っていく》。ピシ、ピシ、ピシ、ピシピシ、と。まるで、此処が空気さえ凍らせる北の大地であるかのように。
「な、!?」
 その呟きは軍兵のものだったか、それとも帽子屋のものだったか、果たしてアリスゼルのものだったのか。しかし、それが合図だったかのように、犬は走り出した。俊敏な動作で床を蹴り、椅子を薙ぎ倒し、彼は疾駆する。飛び散った水の、更に氷の粒子を纏うように。蒼く輝く軌跡を描いて、ジグザグに己の敵へと向かって突進する。窓からの闖入者は何が起こったか解らなかっただろう。だが、犬の頭突きを受けた彼は、無様にその体勢を崩し、そして、次には足も手も終いには顔面を全て厚い氷に塞がれて、もがいていた。氷は当然ながら、酸素を通さない。通気性の低い固体に呼吸器官を塞がれては。まあ、想像するのは容易いだろう。水のない場所で溺れるようなものである。
 零度以下の氷を必死で剥がそうと爪をたて、息苦しさに暴れる同僚を前に彼らが動揺したのは、致命的だった。その一瞬の隙を、普通誰もが見逃さない。否、場数を踏んだ戦士ならば、逃すはずがないのだ。アリスゼルは、素早く立ち上がると、最も近くにいた兵士に向かって、突撃する。最早、飛び道具を恐れる必要はない。何故ならば最も水気を集め易い鉄の塊はとっくにその纏った水分ごと、凍らされていたのだから。引き金を引いても、何かで詰まったように動かない。がちがち、と空しく撃鉄を引く黒衣に向かって、強烈なアリスゼルの蹴りが炸裂する。
 どごおっ!
 コンクリートすらその気になれば粉砕するのは容易い踵が米神にヒットして、生きている人間はいないだろう。痛みに絶叫する間もなく倒れた男を前に、アリスゼルは軽やかに着地する。恐らく予感が正しければ。これ以上、戦う必要はないはずだった。此方に対して必要以上の銃撃を躊躇った兵士。少数の部隊。マシンガンと、後は恐らく近接武器のみの装備。即ち、彼らは恐らく任務を何が何でも成功させるべし、という命を負ってはいない。少なくとも此方を殺し、自分も殺し、そして誰もいなくなった的な結末を、最悪迎えても良い、と思っている訳ではないのだ。
「―撤収―!」
 部隊の隊長格らしき男の一声で全ての兵士が武器を仕舞い、手近な負傷者を抱え上げ、風の速さで黒い男たちは去っていく。それは彼らの襲撃と同様に。あまりのも突然で、あまりにも呆気なかった。拭えない違和感と共に、脱力が襲い、アリスゼルは窓硝子が全部割られて、随分風通しがよくなった店の中で、どうにか壊れていないスツールに腰を下ろした。最早、レストランというよりはガラクタ置き場のようになった店は、どどどどど、と未だ凄い勢いで水を出す水道管の音に、全てを支配されてしまっている。遠くの雑踏。蝶番が粉砕された可哀想なドアのキィーという音がまるで悲鳴のように聞こえた。
「…何だったんだ、いったい…」
 その問いに答える声は、当然のように此処には、いない。





裏路地の人気店 Vol.32 レストラン&バー《DEATH MARCH》

まるで帽子屋かと見紛うばかりのシンプルな看板と煉瓦造りが目印のレストラン&バー。
簡素な店内と落ち着き溢れる店主が作るビストロ風のメニューが心を落ち着かせてくれる。
無論、夜のカクテルも女性を中心として人気が高いが、昼の軽食も密かな人気を呼んでおり、
特にシンプルながら奥深いオムライスは評判が高く、常連になればケチャップで名前を入れてくれるらしい。
そんな遊び心溢れるサービスも裏路地レストランの魅力の一つだろう。

『ヤツハカココアルキガイド ~ちょっぴり危険な街へようこそ~』
3050年号より抜粋


06/11/12

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