ibaraboshi***

home > 小説 > , , > STEEL WOLF on the BED

STEEL WOLF on the BED

 何処からか犬の遠吠えが聞こえて、ギムレットはピンと耳を立てた。薄昏い月光に照らされた、これ以上なく散らかった部屋。その真ん中に正に主役と言わんばかりに鎮座する堂々とした広いベッドの上、腹這いに寝そべっているのは大きな犬―否、狼。灰銀とも白銀も言えぬ毛並みに大きな太い尾。屈強な脚を器用に折りたたみ、重ねた前足の間に頭を置いて、リラックスした体勢を取りながらも、彼は同類の声に敏感に反応して、その蒼い透明色の、ブルートパーズの瞳を開いた。
 無論、此処が自分の生まれ育った北の大地ではないことは重々解っている。だが、これまでの人生で培われた野性は、そう簡単に失われるものではない。遠吠えの音程から己と同じ巨躯を持つ狼でないことを確認し、また声の大きさから大まかな位置までを予測する。此処からは遠い。大丈夫。遠吠えの意味合いも、攻撃的なそれでなく、ただ己の存在位置を誰かに指し示したかっただけのようだ。誰かに。《誰か》―続いて響いた二度目の遠吠えに、またぴくんと耳を動かしながら、ギムレットは頭を持ち上げた。それはそう、人間の言葉でたとえるならば、恋の呻きにも似た、とでも言おうか。《誰か》が《誰か》を求めている。まだ恋の季節ではないし、直接的な官能を煽る声ではないけれど。確かに、呼んでいる。高く切ない旋律が、持てる全ての音階で「愛しい人」、と呼んでいる。
 薄く眼を細め、ギムレットは太い尾をぱさりと振った。
 もしも、これが以前のギムレットだったら―《彼》と出会う前の若狼であったならば、何の感慨を抱くこともなかっただろう。けれど、今ならば解る。切ない声の響き。心臓そのものが音をたてるような、狂おしいほどの気持ち。何にたとえることなど出来ない。ただ、「愛しい」としか言葉に出来ないような声なき声が、ぐるりぐるりと腹の中で渦を巻く。そして、柔らかな蔓草の芽にも似たその声はやがて心臓を取り巻いて。花を咲かせる。満開の花。花弁の一枚一枚を、撫でたくなる様な愛しい花に名前はきっとないけれど。けれど、とても美しいことだけは、間違いのないような。
 つと視線を動かせば、真紅の、燃え上がるような火色をした髪の毛が眼に入った。ギムレットの呼吸に合わせて、上下する腹を枕にして寝ている《彼》、アリスゼルの寝顔は鋭い視線を有する瞳が閉じられて、まるで子供みたいに見える。彼の気の強い、まるで射抜くような真っ赤な瞳も嫌いではないのだけれど、けれど、こうして稀に見せてくれる表情も、勿論、嫌いではない。褐色の肌は透き通るように美しく、彼を異形足らしめる長い耳は時折、何かの音を拾って、無意識にぴくりと動く。滑らかな筋肉が付いたしなやかな肢体。ギムレットと同性でありながら、華奢な印象が強い両腕は、けれど、その手に真紅の鉄刀を握り締め、単身敵に立ち向かっていくような雄々しい武器でもある。彼は強く、そして美しい。
 それが我が事のように誇らしく、そして嬉しくて、ギムレットは再び尾をゆうらりと揺らした。ギムレットが目覚めたせいで、浅い眠りを彷徨っているのか、アリスゼルは唐突に口元を動かしてむずかるような仕草をする。枕になっていることを失念していたギムレットは、瞬時に反省して、無機物たらんと身を硬くした。蒼い視線をそろりと動かせば、彼はしばらくむぐむぐと唸っていたが、結局目を開くことなく、もう一度深い呼吸音と一緒に夢の中へと落ちていった。黒いタンクトップにトランクス一枚という実に男らしい格好で熟睡しているアリスゼルは、基本的に暑がりなのか、何時の間にか眠る前は確かに掛けていたシーツをまた何処かに蹴り落としている。亜熱帯を誇る《ヤツハカ》の街、無論、気温は夜であっても必要以上に下がることはないが、それでも腹丸出しで眠っていて良いことがあるはずもない。
 きょろりと視線を探れば、白いシーツはベッドの横に所在無さげにしぼんでいた。ギムレットはしばらく迷ったが、アリスゼルの寝顔を見下ろし、ぴくりとも動かない耳を見て、彼が深い眠りの内にいることを確認すると、静かに体を動かした。
 すとんと毛皮の上を真っ赤な髪がすべり落ち、ベッドの上に沈む。彼は僅かに身動ぎしたが、目覚める気配はなかった。ふかふかと足場の悪いベッドの上でギムレットはぎこちなく立ち上がると、ほんの二歩の動きでフローリングへと降り立つ。アリスゼルの私物がごろごろと遠慮なく転がった床の上、物を踏まぬように気をつけながら、白いシーツを見つけると、その端っこを軽く咥えて、そのままベッドの縁に前足を引っ掛け、勢いを付けてシーツをベッドの上へ引っ張り上げる。広いベッドに相応しく巨大なシーツは厚みがない分扱いづらく、随分苦労したが、それでも何とかアリスゼルの上へと、覆い被せることが出来た。まあ、多少裾の方がぐしゃぐしゃだが、どうせまたアリスゼルは蹴落とすだろうから。
 静かな寝息をたてる彼の顔を眺めながら、ギムレットは満足して尾を振った。しんと静寂が転がったような部屋。再びベッドの上へと上がり、最早枕になるのは無理としても、ただ寄り添って寝ようと後ろ足を折ったところで届く―振動音。
 思わずびくりと背中の毛を逆立てたギムレットは、忙しなく大きな耳を動かした。ぶうう、ぶうう、と気違いの猪の鳴き声のような、その音が四回ほど鳴ったところで、漸くギムレットは思い当たる。あれは《携帯電話》の音だ。アリスゼルが持っている妙な物。掌ほどのサイズで折りたたみ式。金属で出来ていて、遠く離れた人が同じ機械を持っていれば会話ができる、と、一通りの説明を思い出してから、そうか、誰かがアリスゼルと喋りたがっているのか、とギムレットは納得した。言わば、遠吠えと同じだ。《誰か》が《誰か》に向けて(この場合はアリスゼルだが)、呼びかけている。真夜中に。月の夜。此処で、ギムレットの傍で眠るアリスゼルへ向けて、《誰か》、ギムレットではない、《誰かが》。
「………………………………………」
 何故か、心臓の辺りがちくりと痛んだ気がして、思わずギムレットは自分の体を見下ろした。毛皮に覆われた巨躯の、何処も彼処も暗闇の中でぼんやりと霞んでいる。困惑したように耳を倒したが、一度感じた違和感は簡単には拭い去れない。蒼い視線を動かせど、眠るアリスゼルは起きる気配すらなく、ただ健やかに寝息をたてている。一瞬、放って置こうと思った。アリスゼルに向けて差し出された呼びかけなのだ。ギムレットが答える権利はないし、また彼を起こす義務もない、はずだ。
 だが。
 ぶうう、ぶうう、とやはり気違いの猪にしか聞こえない振動音は途切れる気配がない。もう何十回鳴り響いているのか。耳を澄ませば、それはアリスゼルが脱ぎ捨てたジーンズのポケットから鳴っていると解って、意味もなくギムレットは尾を揺らした。どうしようか。心が揺れる。本音を言えば、彼に向けて投げられる呼びかけの主に、興味があった。こんな真夜中に、無論、夜行性であるはずもないので眠っているアリスゼルに、無遠慮に声を掛け続けてくる人とは一体誰なのだろう。一旦膨らんだ疑問は無論、すぐに萎むことなどない。鳴り続ける振動音もそうだが、ちらりと視線を落とした先。ぐっすりと眠り続けているアリスゼルのことも相まって。ギムレットは懺悔するように一度鼻を鳴らすと、ベッドから飛び降りた。
 脱ぎ捨てられたままに散らかったくしゃくしゃのジーンズ。それに手を伸ばす為に肩に力を込めて、ギムレットは《変わる》。それは説明するには酷く曖昧な感覚なのだが、簡単に言えば《全身を着替える》ようだとも言えるだろうか。ギムレットがギムレットであることには変わりない。だが、微妙に感覚や視線が変わり、そして外見は大きく変わる。毛皮は脱ぎ捨てられ、その身を覆うのは白い皮膚。銀色の髪に蒼い瞳は変わらず、けれど四足は二本の腕と二本の脚へ。そこに一人立つ素っ裸の青年は確かにギムレットで、彼は自分の現状を見下ろすと、とりあえず常日頃からアリスゼルに、言われている通り、なるべく露出している皮膚の面積を減らすべく、そこら辺に落ちていたもう一枚のシーツを肩から被った。
 その間にもいい加減、嫌になってきた振動音は続いており、ギムレットは何となく緊張した面持ちでジーンズのポケットを探る。銀色の小さな機械。ギムレットの掌に置かれると殊更小さく見えるそれを、ぱかりと開くと、振動に加えてちかちかと、大きなボタンが光っている。画面には数字の羅列しか映されていない。無意識に難しい顔をしながらも、ギムレットは、以前教えられた通りに、緑色に点滅するボタンをぷちっと押した。途端、振動音は止まり、何故か息をつめて、ギムレットは受話器を耳に当てる。無音の中に細かな電子音が聞こえたが声はなく、不自然なまでの静寂が満ちる。二秒か、三秒か。しばらくの耳に痛いほどの沈黙が続き、しかし、やがて、ひんやりとした受話器の向こう側から。
『…アリスゼル?』
 柔らかい、優しい、声が聞こえた。女性だ。特徴的な高音域の声。途端、心臓を跳ね上げたギムレットは、思わず電話を取り落としそうになったが、何とか持ちこたえる。どうしてこれほど自分が動揺しているのかは解らない。
けれど、動揺していた。愛らしい、まるで少女のような、けれど艶やかな色香を匂い立たせるような声が、切ない吐息をつく。
『もう、どうして取ってくれないの?ひょっとしてこんな時間―あら、嫌だわ、もうこんな時間なのね…。ごめんなさい、気がつかなかったわ。でも、どうしても、貴方の声が聴きたくて』
 声が言う。
『あの子から話を聴いたら居ても立ってもいられなくなってしまったの。…ねぇ、無事なの?怪我、してないかしら?貴方にはドルチェもいるし、そんなに心配していないけれど…』
 金糸雀みたいな、声で。
『でも、無理は駄目よ?貴方は強いけれど、でも、それでも、「もしも」ってあるでしょう、アリスゼル?もしも、貴方がいなくなったらって、考えたら、私は…、』
 アリスゼルの名を呼んで、
『………アリスゼル?どうしたの?怒ってるのかしら?』
 呼んで―
「ギィ?」
 その声に、思わずギムレットの心臓は止まりそうになった。ギムレットを、銀色の毛並みを持つ巨狼を「ギィ」と呼ぶのは、世界で一人しかおらず、そもそもそのよく通る声を、寝起きで多少ぼんやりしていようとも、聴き間違えるはずもない。硬直した首の筋肉を叱咤して振り返る。すると、案の定―当然だが、案の定、ぼさぼさになった赤い髪を掻き回す彼が、くはぁと巨大な欠伸を噛み殺すところだった。その真紅の瞳がぼんやりと動いて、ギムレットを見て、次いで電話へと移る。銀色の機械は何故かてっぺんがぴかぴかと光っていて、現在使用中であることはバレバレだっただろう。恐らく与えられるだろう制裁に一気に全身を硬直させたギムレットは、次に伸びてきた腕に強く眼を瞑ったが、しかし、予想した痛みも言葉も落ちてはこなかった。ただ、アリスゼルの器用そうな指が、ギムレットの前を横切り、その手に力なく握られた携帯電話をついと取り上げる。そして、何の気負いもなく、その受話器を長い耳の耳朶辺りに当てた。
「んだよ、こんな夜中に誰だ…って、てめぇかよ…」
 受話器の向こう側から甲高い声が聞こえ、露骨にアリスゼルが顔を顰める。その表情に何故か僅かに先程から、心臓を苛んでいた痛みが薄くなるのを覚えて、ギムレットは自分で自分に首を傾げる。どうしてだろうか。我ながら意味が解らない。
「あ?ああ…チッ、アイツもいい加減、姉離れしろってんだ…シスコンめ………。ああ?解ってる、解ってるっての!無事だよ、俺もドルチェも!五体満足だっつの!
また会いに行きゃ良いんだろ?ったく、てめぇのとこ行くの面倒なんだぜ…解ってんのか?」
 けれど、乱暴な言葉の遣り取りの中で、僅かにアリスゼルが柔らかい雰囲気を滲ませるのを、ギムレットは見逃さなかった。やがて、もう二言、三言、言葉を交わすと、アリスゼルはじゃあな、という素っ気無い一言と一緒に電話を切った。さもどうでも良いように、銀色の機械を放り出すと、がしがしと赤い髪を掻き回す。目ぇ覚めちまったじゃねぇかと毒づいてから、その完全に目が覚めた瞳がギムレットに向けられる。今度こそ糾弾されるのを覚悟で、ギムレットは背筋を伸ばしたが、アリスゼルはそんな彼を不思議そうに見遣ると、何時まで床の上にいるつもりだよ、と欠伸交じりに呟くに留まった。
「…アリスゼル?」
「あ?」
「怒って、いないのか?」
「怒る?何を?」
 本当に解らないらしい彼は、早々と眠るのを放棄して、ベッドヘッドの辺りに転がっていた煙草を手にしている。カチカチっと響くジッポーの音と一緒に四角い箱から取り出された煙草に火が灯る。くゆるりと紫煙が円を描いて、昇る。その光景を何となく目で追う余裕もなく、ギムレットは姿が狼であるならば、完全に耳を伏せた状態で、言いよどんだ。
「その…電話、勝手に取った」
「ああ…それでそんな格好してんのか。シーツ被ってごそごそしてるから何かと思ったぜ」
「……怒って、いないのか?」
「怒ってねぇよ。大体、大した電話かかってこな…、」
 そこまで言って、アリスゼルは咥え煙草のまま、ニヤァと意地悪く笑ってみせた。その途端、悪寒が背筋をぞぞぞと這い上がり、ギムレットは思わず尻込みしたくなる気持ちを必死で抑えて、その場に踏み止まる。彼は、一旦煙草を灰皿の上に放ると、ベッドの上を四つん這いで前進してきた。床の上に胡坐をかいているギムレットと、ベッドの上で寝そべるアリスゼルと、ちょうど目線が一緒だからだ。赤い視線が笑みを含んで差し向けられて、思わず、逸らす。
「お前、何か勘違いしてんな?」
「……?」
「さっきの電話の奴…俺のオンナだ」
「!!」
「って言ったら、」
 どうする?と言ってアリスゼルはけらけらと笑った。完全にからかわれていた。解ってはいるが、対処法を知らぬギムレットには、どうしようも出来ない。ただ、こういう時に尾がないと、もやもやと一緒に振るうことが出来なくて不便だと思いながら、ブルーの瞳でじっとアリスゼルを見つめる。すると、まだ眦に笑みの余韻を残しながら、彼が怒るなよ、と言って、右手を伸ばしてくる。何時もと変わらず、銀色の髪をくしゃくしゃと撫でられて、反射的に眼を細めた。嗚呼、どうしたって、どう頑張ったところで、どんな強靭な爪が、牙があったって、彼には敵わないのだ。真紅の鮮烈な輝きに焦がれ恋している間は。
「冗談だっての。アイツはな、俺のお袋だ」
「お…?」
「あーなんだ、母親だよ、母親。サキュレ・ゼムン。娼館のマダムをやってる」
 そうさらっと言って、アリスゼルは僅かに嫌そうに眉を潜めた。何が不愉快なのか。ギムレットには解らない。ただ、一瞬見せた表情は全く勘違いじゃないかと思うほど、次の瞬間には何時も通りのアリスゼルに戻っていて、
彼は欠伸を噛み殺しながら、ベッドの上でごろりと仰向けに寝転がった。赤い髪がぱらりとベッドの縁から落ちる。
「アリスゼルの…母上、」
「そう。どういう訳か異常に若ぇんだよ。声だけ聴いたら、どう考えても餓鬼だろ?」
 その言葉に薄ぼんやりとした思考のまま、ああ、と何とか返す。何時の間にか、心臓を苛む痛みは完全に消えていて、唐突な変化にギムレット自身が一番戸惑っていた。どうしてなのだろうか。意味が解らない。
アリスゼルへの呼びかけを感じた瞬間、痛みは生まれ、それが母親だと知った瞬間、その痛みは消えた。全く解らない。これは一体何の奇病だと言うのか。無意識の内に自分の胸に手をやりながら首を傾げていたギムレットに、
しかしなぁ、とニヤついたアリスゼルの声が届く。見れば、またも唇を歪めたアリスゼルが、猫みたいに笑っていた。否―訂正、彼の叔父のように笑っていた。母親とはどうか解らないが、しかし、確かに血の繋がりは争えない。
「お前、意外と嫉妬深い奴だったんだな」
「し…っと、」
「ヤキモチ焼き」
「…そ、んなこと…ッ」
「ないって?」
 にやにや笑う彼の表情が居た堪れなくて、ギムレットは視線を逸らす。ヤキモチ。嫉妬。ギムレットは、電話の相手に、アリスゼルに無遠慮に呼びかけてきた《誰か》に嫉妬していたのだろうか?解らない。けれど、そう言われれば、何処かですとんと納得している自分がいるのも確かだった。アリスゼルにもしも、他の誰かから求愛の声がかかるとする。その予測だけで全身の毛がぶわりと逆立ちそうだった。怒りとも悲しみとも付かぬ感情に。ひょっとして、それが「嫉妬」だろうか。
 他の誰にも彼を渡したくないと。譲りたくないと。共にいるのは自分だけで良いと思うのは。
 嫉妬?独占欲?この昏い、気持ちが?
 ふるふると頭を振るった。嫌な感情に心全てが支配されてしまいそうだった。《これ》は良いものじゃない、決して。しかし、何時の間にか、確かにギムレットの中に《これ》は根付いてしまっているようだった。しっかりと着実に。感情の意味の多くを知らなかったギムレットに、新しく芽生えたもの。恋を知る花とは違い、何処か腐臭さえするような、そんなどす黒い色をした蔦草をイメージしていしまい、ギムレットはぎゅと両手を握って、眉を顰めた。アリスゼルは。彼は、嫌ではないのだろうか。こんな感情を抱いた生き物が、隣にいるのは、嫌では、ないのだろうか。
「アリスゼル…、」
「ん?」
「私が嫌いか?」
「は!?」
「私は、《嫉妬深い》、から…嫌いか?」
 一瞬、何を問われたのかわからない顔をしていたアリスゼルは、けれど、やがて眼を見開いた表情を盛大に破顔させると、喉の奥でくつくつと笑い始めた。ギムレットとしては真面目に問うたつもりであったのだが、思わぬ反応にぱちぱちと瞬きする。やがて肩まで震わして笑いながら、アリスゼルはちょいちょいと手招きをしてきた。ベッドの上をごろりと転がって、スペースを空けた彼の前に、シーツを引き摺りながらもよじ登ると、その途端にぐいと右腕を引かれた。強い力。華奢な腕とは言え、異形の怪力を持つアリスゼルに引かれ、ギムレットは呆気なくシーツだらけのベッドの上に転がる。目の前には、まだ笑いの余韻を残した彼の笑顔。伸びてきた両腕に頭を掴まれて、そしてそのまま唇が近付き。
 キスを。
 ちゅ、ちゅ、と触れるだけ、数回繰り返されて、ギムレットは硬直する。獣の姿の時とは違う。毛の厚みのない、皮膚と皮膚とが触れ合う。そろりと視線を動かせば、彼の形の良い鼻先と長い睫毛がすぐ傍にあって、そして、離れる。笑みを残して。アリスゼルは、間近でくつりともう一度笑った。
「この馬鹿」
「………ばか、」
「恋人が嫉妬深いから、って理由だけで嫌いになる奴が何処にいるってんだよ。
てか、むしろ、ちょっと可愛いだろ」
 かわいい?
 思わぬ単語にギムレットが目を白黒させていると、あーでもなーそれなら携帯勝手に見たのはちと有罪かもなー、と、どきりとするようなことをアリスゼルが呟いた。思わず肩を跳ね上げて、恋人を見遣ると、彼はその唇を笑みに刻み。一晩腕枕の刑で許そう、と尊大に言い放った。腕枕。つまり普段、彼はギムレットの腹を枕にして眠っているのだが。今夜ばかりは腕を枕にしたい、と言うことだろうか。慌てて、片腕を差し出せば、彼はふふんと満足そうに鼻を鳴らして、その形の良い頭をギムレットの腕の上に置いた。屈強な二の腕は彼の軽い体重を乗せてもびくともせず、一瞬、男のプライドが刺激されたのは、アリスゼルは不機嫌そうに眉根をひそめたが、結局何も言わずに目を閉じた。ギィ、とよく通る声が響く。するりと寄り添ってくる体温が、心地良くて、ギムレットは彼の身体をそおっと抱き寄せた。
 二枚分のシーツに埋もれる。
 温かな体温。
 とくりと触れ合う皮膚と皮膚に。
 ギムレットは今度こそ両腕に力を込めて目を細めると、銀色の携帯電話を足でベッドの隅へと追いやった。


07/01/12






新しい記事
古い記事

return to page top