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Lost in Daydream 9

 新世界暦3051年、または死神暦696と45年の九月第二週。有り触れたカレンダーの一日。有り触れた午後の茹だるような暑さの時間。有り触れた喧騒に包まれていた《ヤツハカ》の街を、一発の轟音が揺るがせた。

 その日、隊列を組んだ世界復興機構本部の軍用車の列は、再生復興都市No.17《ヤツハカ》の北西の大通りの入り口に午後二時に到着予定だった。行路はほぼ予定通りで、特に問題もなく、強いて言うならば本部から最寄となる《ヤツハカ》最北の入場口が道路上の事故により侵入することが適わず、No.18《ノイザイ》停泊中に急遽行路が変更になったことが問題らしい問題であった。隊列はパフォーマンスも兼ねて軍服を着込んだ兵士が乗ったトラックが十数台続き、すぐ後ろに見事な黒塗りの軍用車が三台控え、更に護衛用車が辺りを取り囲み、その後ろからは様々な備品を積んだカーゴトラックがやはり十数台並んでいた。天候にも恵まれ、特に行路に問題はない。予定時刻より一分半ほど遅れて、隊列は《ヤツハカ》の北西の大通りへと侵入した。巨大な工場が立ち並ぶ工業地帯。高い煙突が並び、水蒸気を吹き上げ、金属のパイプや壁が乱立する通りを半ばほど進んだところで。異常は発生した。
 最初、恐らく隊列は、否、見張りを兼ねた先頭集団の兵士たちでさえ何が起きたかは解らなかっただろう。何しろ突然目の前を炎と煙に覆い尽くされたと思ったら、工場の隙間から一体今まで何処に隠れていたのかと思うほど多くの兵士が―そう兵士である―突如として現れたのだから。更に建物という建物の影からはマシンガンの銃口が現れ、トラックに乗っていた生身の兵士たちは概ね頭を一発打ちぬかれて、物言わぬ死体へと成り果てた。隊列は大混乱に陥り、あらゆる車があらゆる方向へと逃げ始める。しかし、巨大なカーゴやトラックは元々小回りに向いていない。結局応戦するしかない彼らを出迎えたのは、ルーフのない悪路用ジープの助手席に立ち、漆黒の髪を棚引かせ、アザレア色の瞳を鮮やかに染めた女―此処にいるはずのない女の、蠱惑的な笑みだった。

「始まったか、」

 遠い爆音をシガロは廃工場と廃工場の隙間で聞いていた。積み重なったまま放置され腐った木箱の影に身を隠しながら、猫は数人の部下と共に獲物を待ち構える。部下と言ってもシガロの部下ではなく、山茶花の部下だ。彼女が選りすぐりだと言った男たちはある者は強固なジープに乗り込み、ある者はシガロと同じように身を隠し、じっと待機している。また、辰紗や山茶花、それに彼女たちの部下も同じようにこの廃工場街の何処かに身を隠しているはずである。

 ボルドー・カッツィアの作戦はこうだ。まず本部から送られてくる隊列だが、この戦力ははっきり言って「グズ」だと言って良い。そもそも軍事力をもって襲われることを前提としていない隊列である。確かに反対勢力とも言えるゲリラに襲われることはあるかもしれないが、まさか相手もまた同程度の軍事力をもって襲われることなど想定しようがないだろう。世界で唯一の秩序。世界復興機構。唯一の弱みは「戦争というものを経験したことがない軍隊」というところだ。
 その軍隊と対等に渡り合う為に、ボルドーはまず北の大通りを潰した。ゲリラの仕業ということにして、道路を大きく陥没させ、通行不可能にしたのである。北の大通りは住宅街のど真ん中を通過し、真っ直ぐ第十七分団に通じており、小回りや防衛の観点から敵の侵入を許すと色々と厄介な場所なのである。
 一方、北通りを潰された隊列は、北西の通りを選択した。東に大通りがないことを考えれば実に自然な選択であり、此方の望んだ通りの選択であった。北西の通りは入り組んだ工場街の真ん中を通り、更に第十七分団に行き着く為には運河を渡らねばならない。また、大通りで攻撃を受ければ、隊列は身の隠しようのない通りの真ん中で応戦せざるを得ない上に、戦況不利の場合は廃工場街に逃げるしかないが、そこには巨大なトラックやカーゴは入り込むことはできないから、多少小回りのきく軍用車が逃げ込むにしても、護衛の数は大幅に減少する。
 一端、廃工場街に逃げ込めば、道は無数にあるように思え、逃走は容易のようだが、実際は障害物や道幅の関係で自然と決められた道筋に集約されてしまう。何百という抜け道と路地を調べつくしたこの地図から、何千通りという逃走経路を数通りにまで絞り込む事は不可能ではなく、そこを叩けば頭―即ちルートヴィッヒ・ベアトリスを落とす事は容易い―。

 と、このような理詰めの論法に最初はシガロも難色を示した。机上の空論とまではいかないが、現実感の薄い話ではある。全ては仮定と想定に過ぎず、これらが実際に戦場で実行されるかどうかは正に確率の問題であった。同じように現実主義のきらいがある辰紗や山茶花も眉をひそめたが、ボルドー・カッツィアは自信を崩さなかった。彼女は言った。この戦争は勝てる戦争だと。それも完膚なきほどに此方が有利なのだと。実際、勝率が高いのは侵攻よりも防衛だが、この度の戦いは此方に防衛の地理と侵攻の不意がある。相手は混乱している。此方は冷静だ。相手に進路選択させているようで、此方で操作する事は「意外と簡単」だ、と。
 熱弁を振るうでもなく、淡々とただ自信を滲ませて語るボルドーに、最終的にシガロを含めギルドの面子は納得した。確率に全てを賭けることはできない。だが、どういう訳かボルドーにはそれを信じさせるような説得力があった。この女の言うことならば、本当になるかもしれない、という特に根拠のない、例の無駄に溢れ出る自信である。

 そして、彼女の言葉に従い、爆音から約八分後。

 来た。本当にエンジン音がシガロの耳に届いた。背後の部下に素早く「ビンゴ」の合図を送るように言う。結局あの女の言うとおりになったようだ。ボルドー・カッツィア。やはり侮りがたい。恐らくあの自信と論理と野望で部下から異常なほどに慕われているのだろう。そうでなければ、第十七分団の全てが彼女に自らの意志で従っているなどと、到底想像もつかない状況である。だが、真実、彼女は部下から慕われていた。マッドサイエンティストにして夢想家の顔だけでなく、優秀な統率者の顔も持っているのである。全くもって末恐ろしい女だ。

 エンジン音は徐々に近付いてくる。魔機を利用した車が舗装されていない道を走る音。一、二、三台か。恐らく全て同じ車種。黒いマントをずるりと引き摺り、シガロは手にした火薬に火を点けた。何てことはない爆竹。それを、タイミングを見計らい、木箱の陰から飛び出すと、思い切り眼に飛び込んできた鉄の塊に向かって、投げた。
 パンパパン!と強烈な破裂音が鳴り響き、シガロは思わず耳を抑えたまま道の向こう側まで転がった。午後の暑い日差しに照らされた乾いた道。急ブレーキと共に停止した車がやはり三台。縦に連なるように止まっている車が黒光りに輝いていた。強い反射光にも怯まず、視線を車の内部に送る。シガロは息を呑んだ。金属製の爪がほぼ無意識の内に鳴る。車の強固な防弾硝子の向こう側。多少老けているが、見間違えようもない。金色の髪。碧い瞳。あの男、あの男が―いた。

 雄叫び、と、咆哮。

 それに呼応するように複数の男たちが工場の影から飛び出し、車を取り囲み、今にもその手にした武器で硝子を叩き割ろうとした。だが、シガロの爪は男どころか、車にも、硝子にも届かない。その腕を、足を、何かが留めている。何だ。まるで蜘蛛の巣にかかったような、この糸は―糸。反射的に、シガロは叫んだ。しかし、動くな!!という警告が正しく伝わる前に、ずごっという鈍い音を立てて若い男の首が二つ宙を舞うのをシガロは見た。真っ赤な鮮血。零れだす血液。空ろな瞳を見開いたまま生首はごろごろと埃まみれになりながら、道の隅へ転がっていった。シガロは一切の動きを止めて、六つの瞳を動かした。糸の攻撃範囲は広くない。精々、数メートルから十数メートルの中距離型だ。三百六十度の視界を上に下に右に動かし―――いた!
 それほど高くない廃工場の屋上に白い兎が立っていた。眼を引く白髪に長い耳。この場に似つかわしくない草原の色をした瞳に、相変わらずこの熱気の中、ぴっしりとしたスーツに黒い手袋。懐中時計の鎖をポケットから垂らし、見えない糸を人形師のように構えた兎が、若干驚いたように眉を跳ね上げ、猫を見下ろした。

「へぇ、流石は《六ノ眼》…軽率には動きません、か」
「クロック・タイム…何故裏切った」
「訊くまでもないでしょう。僕にとっては"これ"が現実ですよ」

 平生と告げた兎は車の方に何事か合図をした。それを待っていたかのように、真ん中の黒塗りだけが突如アクセルを踏み、甲高い音を立てて走り去る。舞い上がる砂埃。正に、その中に、あの男がいた。悔しさに唇を噛み締め、シガロはぎっと兎を睨みつける。だが、兎の方は何処吹く風でただ眩しそうに猫を見ただけだった。哀れみか侮蔑か。彼は知っているのか。シガロには関係なかった。シガロに今関係するのはあの男を殺すことのみだ。
 だが、その難度を示すように残った二台の車からは軍服に拳銃を構えた男たちが降りてくる。護衛官か。全部で六人。舌打ちするシガロを前に彼らはプロフェッショナルらしく、表情一つ崩さずにその銃口を眉間に向けた。猫の額のど真ん中。鉛玉を受ければ一発で死に至る場所へ。動けない猫などただの的である。シガロはもう一度舌打ちをした。死ぬ覚悟などない。何とか生き延びる方法を探さなくては。ぐるりと視線を動かす。六つの瞳のどれか一つにでも何か映らないかと探す。何か、何か、何か―ちらりと、映ったのは朱と白の輝き。

「白兎ちゃん、遊びまショウッ!!」

 朱色の青竜刀が宙を舞う。空気を薙ぐ音、ノイズ、糸が緩む、糸が切れる、糸が、消えた。銃声。
 相手の行動は早かったが、シガロの行動はもっと早かった。鉛玉が額に到達する前に頭の位置を逸らし、踏み込み、右手で薙ぐ。肉が切れるというよりはこそげる感触に悲鳴絶叫血飛沫。再び銃声。シガロは後ろの眼で敵の位置を確認すると、そのまま真横へ跳んだ。跳躍する位置は低い。相手の視界の外。バックステップのまま近寄り、その脇腹に重たい一打を叩き込む。ばきばきっと肋骨が砕ける音が響き渡り、またも悲鳴に絶叫。残り四名。
 一端息を吐き、体勢を立て直し、再び身構えたシガロに、けれど眼に入ってきたのは四人分の死体だった。軽く眼を見開く猫の眼に血に染まった紅白の巫女服が眼に入る。袴の裾を翻した清純の巫女はふわりと生臭い風に髪をなびかせ、手に血と臓物に汚れた金棒を担ぐと、晴れやかな笑顔で此方に振り向いた。スプラッタホラーだった。

「お疲れ様です」
「………うむ」
「《六ノ眼》ー!白兎ちゃんはアタイたちに任せてアンタは不能を追いかけな!
 この先は入り組んでるから、アンタの足なら追いつくさ!」

 大きくスリットの入った真紅のアオザイを着こなし、朱色の瞳を剣呑に煌かせた辰紗が青竜刀《シュラオウ》の切っ先を兎の喉元に突きつけたまま大声を張り上げた。その刃の先では兎が唇を噛み締めて立ち尽くしている。辰紗の声は明るく、顔は笑顔だが、明らかにその眼は笑っていない。しかも滲み出す殺気が本物である。地獄より酷い拷問は見ていて決して楽しいものではない。シガロは軽く頷くと、乾いた土を踏みしめて、黒いエンジン音を追いかけることにした。辰紗の舌なめずりと山茶花の微笑を背後の聞きながら。

 別に兎に同情することもなく走り出す。

 途切れることなく続くタイヤ痕を追いかけてゆけば、車を追うことは簡単だった。
 ただ、どんなにシガロが俊足だとしても、車の方が圧倒的に速く、車が永遠に走り続けていけば、シガロは永遠に車に追いつくことは出来ない。照りつける太陽は徐々に機嫌を悪くしてきたのか、遠くの方で雷鳴が聞こえる。重く湿気てきた空気の匂いを敏感に嗅ぎ取りながら、シガロは地面を蹴った。
 廃工場街はその名の通り捨てられた工場の墓場である。割れた硝子片やふつふつと異臭をさせるドラム缶以外には人気はない。遠い遠い場所から爆音や銃声、怒号が時折聞こえてくるが。それも徐々に遠ざかっていた。エンジン音も聞こえない。ただ、目の前に続くタイヤ痕だけが、その名残を残していた。だが、雨が降ればそのタイヤ痕も消えてしまう。時間との勝負でもあった。空気は確実に重たくなってきている。
 細く迷路のように入り組んだ道を、車は思いのほか苦戦して進んでいるようだった。あの幅の車では仕方がないかもしれないが、そんなに細かく曲がったりはしない。ただ、一度右折し、それから左折を二回、比較的大きな廃工場の傍を通り、右へ曲がった途端。

 シガロの眼に異様な光景が飛び込んできた。

 それを異様と判断したのは見慣れぬというだけでなく、それがシガロの全く予想しなかった光景だったからに相違ない。タイヤ痕は十数メートル先で途切れている。黒塗りの車は緊急停車したかのように僅かにスリップし、壁に激突して止まっていた。その周囲には腕を切り落とされ、首を跳ね落とされ、臓物をばら撒かれて死んでいる兵士の死体が四体。どれも即死のようだった。そして、その傍には。一人、立つ男。かっちりとした軍服。金色の髪。碧い瞳。何十年も以前の記憶がまるで昨日のことのように思い出される。監獄で出会ったあの男。天使のような姿をした悪魔が、ダークグリーンの頭を踏みつけていた。

 瞬間、理解できなかった。

 その頭が屈強な胴体にくっ付いており、更にシガロの見慣れたものであり、見慣れた尾があり鱗があり刺青があり、彼が一応まだその命を永らえていることに気付くまで三秒かかった。だが、その三秒の間、向こうも何を動くでもなく、ただ興味深そうにシガロを眺めていただけだった。サーベルの剣先が倒れ付した男の脇腹からぐすっと引き抜かれる。軍服の男は血を振り落とし、シガロの方へと向き直った。微かな笑みさえ浮かべて。ルートヴィッヒ・ベアトリスはシガロの記憶よりもほぼ二十年分老け込んだ顔で、二十年前と同じような甘ったるい笑みを作ってみせた。

「流石は異形…あの頃とほとんど変わらぬ容姿、羨ましい限りだ」
「…そういう貴様は老けたな」
「ああ、老けたとも。もう後四十年も生きられない」

 そう言うと男は自分の言葉が可笑しかったのか、一層豊かに笑った。よく見ればシルクのように艶やかだった金髪にも所々白いものが見え始めている。二十年前、シガロが天使だと思った男は、正に人間なのだ。改めてそれを実感し、改めてそれを殺意に変え、シガロは金属製の爪を鳴らした。
 漸く怨敵に対峙できたというのに、シガロは恐ろしいほど冷静だった。それはそこで伏している爬虫類のせいかもしれないが、何故か此処にきて恨みも復讐も半ばどうでも良くなってきていた。確かにこの男はかつてのシガロ・ゼムンを殺した男だ。この男を殺さない限り、シガロはシガロ自身を取り戻せない、と今でも信じている。だが、今は純粋に。この男と戦い、打ちのめし、看破したかった。この男。体は老けたが腕は衰えていない。あの時と同じように。圧倒的に強い。全身に殺気を漲らせ、無機物の先まで緊張させる。ゆっくりと息を吸い、吐き、ルートヴィッヒは言った。

「猫よ、二十年の時を経て、私を狙う理由は何だ?」
「人間よ、貴様に猫の理屈が解るのか?」

 答えは、ない。

 疾走。跳ぶように走り出したシガロは真っ直ぐに対象を狙って突っ込む。超近距離の接近戦。そうでなくては、シガロの爪は生かされない、殺傷能力を発揮しない。真っ直ぐに爪を向ける。男の心臓の位置。狙う。阻まれる。強固なサーベル。ガキン!と高い金属音が響き、男は両脚でその重みを支えた。流石だ。普通の対象ならばシガロの爪の重みを支えられずに、よろけるのが普通か、少なくとも体勢と位置を崩す。彼は微動だにしない。シガロは浮かんでくる笑みを堪えきれず、にやにやと唇を吊り上げた。爪を引き、相手の攻撃を受ける。相手も受けると解っている攻撃。流す。サーベルの切っ先はマントを突き破り、肩の留め具が外れた。シガロは黒い布に微塵の後悔も残さない。破り捨てる。びりびりと布が裂ける音と共に、足を踏み込んだ男がシガロの脇を通り抜けていく。
 再び対峙。爪が鳴り響き、シガロは跳躍した。敢えて跳躍。相手はサーベルの切っ先で受ける。随分と純度の高い金属を使ったサーベルだった。恐ろしく切れ味が鋭く、しかも相手はそれを正確無比に打ち込んでくる。面白い。笑う。シガロは敢えてサーベルを爪で受けた。二本の爪でサーベルの刃を挟み、滑らせる。しゃしゃしゃしゃと擦音を鳴り響かせると、一瞬、相手の表情が変わる。同時にシガロは地面に着地。力でサーベルを地に捻じ伏せ、左手を鋭く相手の心臓目掛けて突き出す。
 回避。男は大きく身を逸らし、シガロの爪を避けると、サーベルを爪から逃れさせた。反撃。鋭い切っ先がシガロの頭を狙う。急所の一つ。シガロは爪でそれを払う。猫のようなバネを活かし、低い体勢に逃れると、後ろへ跳ぶ。それを男が追う。再び特攻。背後は工場の壁と窓。シガロは割れた窓から工場内へと飛び込む。がしゃんという重たい音を聞きながらも、追撃の有無を確認。なし。男は室内で戦うリスクより、シガロを待ち受けることを重視したようである。
 緊張感に満ちた静寂が落ちる。工場内に散らばった硝子をシガロの足裏がパキパキと踏み、その破片で血が滲んだ。痛みは感じない。精神が興奮しているせいで、痛覚が麻痺しているようだった。シガロは笑う。恐らくこの「殺し合い」は先に一撃打ち込まれた方が負けだ。先に気を緩めた方が負けだ。そのレベルにまで高まっている。楽しい。純粋に楽しい「勝負」だった。負けた方は死ぬ。勝った方は生き残る。単純なルールに縛られた、それだけの「勝負」。楽しい。楽しい。楽しい。笑いが止まらない。シガロはゆっくりと工場内を円を描くように歩き回り、そして、爪を伸ばした。割れた硝子の向こうに男が見える。男も、笑って、サーベル構えた。

 どう!

 合図は遠い雷鳴。窓から外に飛び出したシガロの弾丸のような攻撃を、男はサーベルで受け止める。シガロが仕掛ければ男が受け、男が仕掛ければシガロが受ける。どちらの切っ先も心臓か頭のどちらかを狙う殺し合いの攻防戦。当たれば死ぬ。伏せげば生き残る。キンキンキンと金属音が連続し、徐々に速くなっていく。重たくなる空気は湿気を含み、雷鳴は呼応するように近くなる。鋭い突き合いの繰り返し。キンキンキンとサーベルと爪が打ち合い、防ぎ合い、また打ち合う。繰り返し繰り返し、心臓を狙う、頭を狙う、また心臓を狙い、頭を狙い、徐々に速度が速くなる。男は笑っていた。猫も笑っていた。理屈が通じぬ者同士が、何故か同じように笑っていた。成る程、此処には何もない。誰もいない。ただ、剣戟の音だけがあった。猫と人間。爪とサーベル。ただ、それだけの。

 ガン!

 鈍い音が何なのか、一瞬理解できなかった。シガロの横の眼が吹っ飛んでく右手の手甲を捉えた。続く打ち合いに恐らく堪えることが出来なかったのであろう。扱う方ではなく、扱われる方が。隙はコンマの世界。けれど、熟練した勝負師にとっては充分な時間だった。碧眼が近くなる。雷鳴が耳の奥で鳴り響いた。嗚呼。終わる。そう思った。音が消えた。全ての世界がスローモーションで逆さに回る。何も考えられない。思考が奪われた。後悔の多い人生だった。罪の多い生き様だった。今だって後悔している。今も。今も?

「な、に…」

 衝撃はなかった。痛みもなかった。ただ、目の前で男が眼を見開いて立っていた。その腕がなかった。噴き出す赤黒い血液。生暖かい液体がシガロの頬にかかった。腕とサーベルは血溜まりの中に落ちている。シガロは何も考えなかった。ただ、左手を振るい男の心臓に突きたてた。四本の爪を開いて心臓を取り囲むように。爪が内臓を突き破り、背中にまで貫通した感触が伝わった。しかし、男は即死しなかった。シガロは何も手加減した訳ではない。ただ、偶然にも男は死なず、ただ右手を失い、口の端から血を噴出し、ふと笑ってみせた。シガロの足元には血に汚れたハルバードが突き刺さっていた。斧と槍と鉤爪を備えた武器で知られるハルバードだが、今シガロの足元にあるものは随分と斧部分が大きく、その部分に赤黒い汚れが付着していた。どうやらこれが男の腕を切り落としたらしい。シガロは六つの瞳で男を見据える。間近で見た二十年前の男は、やはり随分老けて、みすぼらしく見えた。死にそうだからだろうか。
 遠い雷鳴。雨の気配が近付いていた。どんよりと重々しく曇った空が頭上に迫る。強い雨になりそうだった。シガロは何も言わなかった。男も何も言わなかった。お互いの人生になど興味がなかった。ただ、一人の男と一人の猫は此処で殺し合いをし、そして片方は死にかけている。それだけだった。
 一際大きな雷鳴が鳴り響いた。金属音に似た天の唸りが、鳴り終わるか否かというところで、男が何か思い出したように口を開く。溢れる赤黒い泡。まるで二十年来の旧友をからかうように、瞳に僅かな笑みを映していた。

「ところで、」

 ごぷっと唇の端から血糊を溢れさせ、今にも崩れそうな体で笑う。

「お前たちは、どちらが先に惚れたんだ?」

 問いに。

「当然、向こうだ」

 答えた。
 男は笑い、死んだ。

 シガロは男の体から爪を引き抜く。死体はずしゃりと地面に崩れ落ちる。最後に心臓を握り潰してやろうかと思っていたのだが、何となく止めておき、シガロはぼんやりとその魂の抜け殻を眺めた。
 ぽつり、ぽつり、と雨が降り始める。モノクロームの世界を白く染め上げていく雨。砂埃を舞い上げ、次第に強く叩きつけてくる雫に、猫は眼を細めた。猫は水が嫌いなものだ。血と水が交じり合った水溜りを踏みつけ、シガロは爪を収めると、倒れ伏している男の傍へと寄った。相変わらずでかい体である。屈強な腕や背中に血が滲んでいるが、いずれも致命傷ではない。脈を確認する。弱いが、ある。手加減されたな。未熟者が。吐息を吐いて、シガロは男の腕を引き摺り上げた。小柄だろうが異形のシガロにとって男の体一つ引き摺って帰るのは訳ないことだ。首の後ろの腕を回し、勢いをつけて背負い上げる。男は相変わらず気を失っているようで、よくもまあこの状態でハルバードなど投げつけられたものである。嘆息し、その時点でシガロは自分の爪を片方忘れていることに気付いたが―しかし、振り返ることはやめた。
 ずしりと重たい体を引き摺る。生ぬるい雨が体を打ち、雷鳴が響き渡った。すぐ横には眼を開けている時よりも幼い男の顔があり、背中には決して途切れることのない男の鼓動があった。口元を何となく緩めてみる。まあ、こういうのも悪くないと思いながら、シガロは重たい一歩を踏み出した。


08/02/29

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