ibaraboshi***

home > 小説 > , , > Lost in Daydream 8

Lost in Daydream 8

 午前十一時。昼の中途半端な時間を照らす太陽の日差しは強く、街は熱気に包まれていた。遠くに見える建物が陽炎でゆらゆらと歪んでいる。白色の空は乾いているようで、しかし、相変わらず空気はたくさんの湿気を含んでいる。熱が体に纏わりつく。もったりとした粘着質の物体に絡みつかれているような重さを感じながらも、猫は足音も立てずに通りを歩いていた。相変わらずの黒いマント。暑さを感じないのか、汗一つかかずに猫は裸足のまま揺らぐ街の中を進んでいく。目指すのは、薔薇の花園―街の商店街を抜け、細い路地を幾つか曲がれば、それは唐突に目の前に現れる。
 煉瓦造りの古典趣味な屋敷が翼を広げるように向かって二棟。黒く汚れた煉瓦積みに格子窓が嵌った風情は中々街中では見られないこともあり、周囲のコンクリート建築からは雰囲気共々一線を画していた。しかし、この館において一際眼を引くのは建物ではなく庭の方だろう。向かって右側には溢れんばかりの薔薇の花。紅、黄、白、緑に至るまで鮮やかな花弁と豊かな香気を零れさせる薔薇が満開に咲いた庭園。向かって左側には可憐と言う他ないような白、黒、橙、黄の繊細な花弁と強い香気を開く百合が満開に咲いた庭園。何時もは夜の月明かりや外灯の下で見てばかりだが、昼の太陽の光の下で見る花は、何故かより一層神秘めいて見えた。
 まるで夢幻のような季節を問わず花々が咲き乱れる庭園に続くのは鉄製のアーチ。シガロは迷うことなく右側を潜る。記された銘は《Spider》。青い蜘蛛が君臨する館。
 シガロは乾いた石畳を踏みしめながら、巨大な門扉の前までやってくるとドアベルをからんからんと鳴らした。本来ならば夜のみの営業である館は非常識な客人を迎えることはないだろうが、今日の客人は他の誰でもないシガロ・ゼムンである。よく躾けられた薔薇園の蜘蛛たちはまさかマスターの客人を門前払いになどにはするまい。しばらく時間がかかったが、結局、扉は音をたてて開いた。しかし開いたドアの先に立っていたのは、何時も出迎えてくれる少年メイドではなく、明らかに用心棒のような風貌をした若い男だったが。明らかに困惑した様子で些か髪も乱れた男が躊躇うように口を開く。

「ゼムン様…このような時間にどのような用向きで?」
「青蜘蛛に用だ。通る」

 有無を言わせぬ口調でシガロはとっとと館内へと入り込んだ。赤い絨毯にダイヤモンドのシャンデリア。外の熱気を奪い取るような空調の乾いた風。相変わらず懐古趣味の強い室内を物色するでもなく、横目で見ながら、普段はスーツのガードマンが立っている扉を片手で押して通り抜ける。後ろから男の声が追いかけてきたが、無視して薄暗い回廊に足を踏み入れた。歩き慣れた道をてくてくと何時もの速度で歩く。何度も曲がったり曲がったりしつつ、静まり返った館内を行く。幾つかのドアの前を通り過ぎ、やがて目の前に現れる巨大なドア。そこには何時も通りスーツ姿の青年が控えていて、シガロの姿を見ると不審そうな顔をしたが、猫が動作だけで開門を促すと、彼は躊躇いつつも金色の鍵の束から一つを選んで扉を開いた。
 シガロは会釈もせず彼の前を通り過ぎると、扉のすぐ先に客人を飲み込むかのように口を開ける深い階段を迷いもせずに降りていく。冷たい石の感触。空調とは違うひんやりとした空気と湿気が体を包む。石積みの壁に掲げられた蝋燭の光を頼りに階段を地下へと降りれば、やがて地上と同じように絨毯の敷かれた廊下が見え、真正面には巨大なドア。プレートには蜘蛛の巣を示す文字。シガロはドアノブへと手を伸ばす。

「ゼムン様、」

 しかし、シガロがそれを回すよりも早く、落ち着いた声音が耳を打った。見れば燕尾服を着込んだ無表情の男が廊下の向こう側で視線を此方に投げていた。何処から見ても執事の格好に何処までも冷たい灰色の瞳。感情がない人形などではないかと疑うほどに動作にも表情にも起伏がない男の名前をシガロは憶えていない。確か花の名前だったような気がするのだが。しかし、首を捻るよりも早くシガロは記憶を探るのを放棄した。無意味なことに労力は使わない主義なのである。

「青蜘蛛様はまだお休み中で御座います。用件をお伝え致しましょうか」
「直接言う。通せ」
「………………………………………。それでは、此方へ」

 長い沈黙の後、諦観なのか従事なのか、執事は深い一礼をするとシガロを招いた。暗い廊下の向こうに呼ばれる。シガロは逡巡することなく燕の尾を追った。仄かな明かりに照らされて同じような太い廊下が続き、やがて一枚のドアの前に辿りつく。プレートも何も一切ない。執事はそのドアの前で止まり、軽くノックをした。返事はない。もう一度。やはりない。
 執事は表情が変わらないので、何を考えているのか解らないが、しかし、この様子からして返事一つしない主人も恐らく珍しくはないのだろう。このままだと執事は永遠にノックを繰り返し、シガロは半永久的に此処に突っ立っていることになりそうだった。埒が開かない。シガロは彼の手を軽い動作で押し留めると、鍵は、と問うた。執事は首を振る。不法侵入を決断する。
 執事がシガロを止める前よりも速くドアを開き、身を滑り込ませる。マントの裾まで忘れず引き入れるると、がちゃ、と後ろ手でドアを閉めた。廊下の明かりが一瞬だけ部屋に差込み、するりと吸い込まれるように消えた。
 残ったのはぼうっとした間接照明に浮かび上がる室内。光源は床に置かれたスタンドライトで、アンティーク趣味の高さがまちまちのものが幾つも壁際に並んでいた。壁にかかっているのはどうも薔薇園を描いたらしい絵画。大層な重厚感溢れる木材で出来たチェストに隣に並ぶのは同じ質感の机と椅子。何らかの書き物を嗜むのか、それとも単に仕事で扱うのか。古風な羽ペンがインクの瓶に突き刺さっていた。更に部屋の奥に眼を転じれば天蓋付きの巨大なベッド。シガロが三匹並んでも楽に寝付けそうなふかふかの羽毛にゴブラン織という無駄に豪奢で巨大なベッドの上に。一人の異形が寝ていた。
 足音を立てない何時もの癖だが、シガロは何となく何時も以上に用心して彼に近付く。短いオリーブ色の髪は枕の上に乱れ、閉じた瞼の上に腕を置いているせいで表情は半分も解らない。鱗は長い耳から首に至るまでを埋め尽くし、余った皮膚の部分でさえ炎のような迷路のような刺青が覆っている。屈強で分厚い体。この手の異形が生まれつき持っているものとはいえ、シガロのように小柄な異形にとっては多少羨望を抱かざるを得ない。ノースリーブの黒いシャツにカーゴパンツ。明らかにオフの格好をした男の腰の辺りからは硬い鱗に覆われた太い尾が生えて、ベッドの上に伸びていた。
 シガロはゆらりと尾を振る。別にシガロは男の寝姿を眺めに来た訳ではないのだが、彼は一向に眼を覚まさない。恐らくシガロが部屋の中に入った時点で気付いているはずだ。青蜘蛛はそんなに鈍い男ではない。しかし、何の意図があってやっているのか知らないが、彼は寝たふりを決め込んで動かない。最初はまあ付き合ってやらなくもないという寛大な気持ちでいたシガロだが、段々苛々してきた。金属音を鳴らさぬように片手をマントの下から出す。シガロの武器である熊手は収納式になっており、普段の状態では手の甲全体を爪の部分と手甲部分が二重に覆っている。その為、割と大変な重量と強度になっているのだが、それをシガロは難なく虚空に構えると、手の甲を下にして裏返し、そのまま、

「ぐふッ」

 男の鳩尾に叩き落した。攻撃した方は大した痛みもないが、受けた方は冗談ではない、という実に効率の良い攻撃に青蜘蛛は一発で目を覚ましたようだった。ごほごほと咳き込む巨躯を見下ろし、シガロは六つの瞳でぎろりとねめつける。

「貴様…最初から起きておっただろう」
「ふ、…夢かと…思ってな…」

 刺青の刻まれた腕が退かされ、ゴールドの瞳が漸く明らかになった。未だ整わない呼吸のまま意味不明なことを呟く男にシガロは耳を横に倒してみせる。夢であるはずがないではないか。相変わらずこの男の言うことは意味が解らないと思った。実際にシガロは現実の手順を経て、此処に入り込んでいるのだ。無断だが。
 ―否、そんなことよりこの男に言いたいことがあって、一応伝えておきたいことがあって、シガロはこんなところにまで来たのだった。漸く咳き込むのを抑えつつある青蜘蛛に向かってシガロは尊大に口を開く。ベッドヘッドに上半身を起こした男は長い耳を持つその他の異形と同様に、拾った音に敏感に反応して耳を動かした。

「姉上に告げ口したのは貴様だな」
「…告げ口とは…失敬な…」
「礼を言う」

 素早く告げたシガロの言葉がそんなに意外だったのか、青蜘蛛は普段のにやついた笑みを捨て去って、一瞬無表情になった。今まで見たこともない表情にシガロは思わず一つ瞳を瞬きさせたが、相手の方はそんなことにも気がついていないようだ。ただ、ゴールドの瞳がみっしりとした密度でシガロを見つめてくる。見つめ続けたところで猫は猫なのであるが、という意を込めて、シガロは軽い溜息をついたが相手はそれにも気付かない。どうやら言葉以外は通じない状況になっているようだ。仕方なく、シガロは言葉を付け加える。

「姉上と今、貴重な言葉を交わせたのは、貴様のおかげだ。礼を言う」
「………………」

 青蜘蛛はやはり眼を見開いたまま黙り込んだ。ただ、しばらくすると漸くシガロから視線を外し、口を開かず何かに祈るように天を仰ぐと、ゴールドの瞳を閉じ、シガロ、と名前を呼んだ。シガロが露骨に眉をひそめ、人の名前を気安く呼ぶな、という前に。金色の瞳は明らかに何時もとは違う生気を宿した色を刷いてシガロに向けられ。彼は一つ真剣な眼差しで如何にも重大なことを告げるかのように、あの重々しくも低い声でこう述べた。

「結婚してくれ」
「死ね」

 今度は金属の手甲が水平に移動して男の鳩尾にめり込んだ。学習能力のない爬虫類は再び盛大に咳き込み、大きな体を二つに折った。やはりこの男の頭は相変わらず狂っているようだ。気違いだ。変態だ。脳味噌の中を蛆虫がそぞろ這い、眼球の中を蝸牛が踊り、舌の上で悪魔が歌っているのだ。ダークグリーンの髪。ゴールドの瞳。爬虫類の鱗に全身に施された刺青。長く逞しい尾。屈強な体躯。全てがシガロを苛々させ、全てがシガロの劣等感を刺激する。男娼館に巣くう蜘蛛。濃緑に埋没する爬虫類。気が触れた生き物。嗚呼、けれど、考えてもみるがいい。

 果たしてこの世で気が違っていない生き物など、ただの一匹たりとて存在すると思っているのか?

 この男は狂っている。だったらシガロは狂っていないのか。答えはノーだ。あの少女は狂っている。だったら自分は狂っていないのか。答えはノーだ。太陽も月も空も猫も犬も蜥蜴も蛇もみんなみんな狂っている。誰一人として正常な生き物などいない。狂えた世界の狂えた住人。その中でもとびきり狂った男が二人。実に滑稽なお話だった。
 シガロは未だ咳き込む男を前に六つの眼を小さく細める。しかし、次の瞬間には瞳の中の剣を研ぎ澄ませるようにして、全身の神経を緊張させた。緩むのはまだ早かった。まだもう一つ、やることが残っている。かつての猫を殺した男。その男を猫の手自らで殺さなければ。夢の終わりにはほど遠い。

「―俺はあの男を殺す。貴様は手を出すな」
「………しかし、」
「あれは俺自身の敵だ。俺が殺さねば何の意味もない」

 シガロの硬い声に青蜘蛛も重々しく言葉を吐き出す。その瞳が真っ直ぐに向けられる。映し出された色は何と言うのだろう。心配か、不安か。シガロには全く縁遠いその感情。向けられる理由も原因もない。けれど、その屈強なゴールドの色が揺らぐのを見ているのは悪くなかった。シガロは、その唇を、三日月の形に刻む。にやにや笑いの気違い猫。引き裂けそうな笑みの向こう側に一つの狂気が存在している。刃のような。焔のような。否、やはりこれは刃だろう。暴力的で、刹那的で、抱きしめるほどに壊したい。そんな気違いの。

「貴様ではどうせ適わん。大人しく待っていろ」

 気違いの猫は片手を鳴らし、金属製の爪を伸ばした。どんなものであろうと切り裂き、どんな人間であろうと切り裂き、どんな異形であろうと切り裂いてきた刃を、シガロは初めて切り裂く為にではなく相手に向けた。四本の爪はミリの差で金色の眼球の直前に停止する。ほんの少しでもシガロが力を加えれば、否、僅かでもシガロの手元が狂えばこの瞳は潰れ、恐らく一生視力は戻らないに違いない。息を呑む男を前にシガロはにやついた笑いを更に深くした。男は息を呑むことこそすれ、決してシガロの爪を払い除けたり、後ずさったりはしないのだ。なんて愚かで、なんて賢い獣だろうか!
 シガロは再び唇を吊り上げ、爪を眼球から頬へ、頬から唇へと這わせ、その切っ先は喉元―頚動脈の上で再びぴたりと停止した。極上の緊張感。猫は鬱蒼と笑い、上から金色の瞳を見下ろした。きがくるいそうな。あまくて、びょうてきなそのいろ。

「大人しく待っていろ…良いな?」

 囁いた声に返事はない。ただ、重苦しく凝り固まったような吐息と共に、生殺与奪の権利を奪われているはずの男は、正にその権利を握っている男に対して、心配だ、と呟いてみせた。場違いだった。大いなる場違いだった。だが、今度こそ堪えきれずシガロは笑みを零した。嗚呼、本当に気違いだ。狂っている。この男は可笑しい。だが、また己も同じように可笑しいのだ。笑うに是非を。シガロは爪を男の動脈から外し、手甲に収めると、そのままマントを翻してドアに向かって歩き出した。男は追ってこない。ただ、視線だけがシガロの背中を追い、言葉だけが追いかけた。

「シガロ!」

 低い声。笑いが消えた。

「死ぬことは…許さん」
「―承知」

 猫は現れた時と同様、足音一つ立てずに部屋を後にした。にやにや笑いは残さない。どうせ、また戻ってくるのだ。今回は忘れずに、戦場まで持っていくこととしよう。にやにやにやにやにやにや。猫は笑いと共に姿を消した。


08/02/27

新しい記事
古い記事

return to page top