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Lost in Daydream 6

 夜が更ける。煌々と輝くネオンの明かりを飲み込むように夜が迫ってくる。熱気はとりあえずの落ち着きをみせつつも、日の出の灼熱を焦がれるように地面の下に燻っている。遠い喧騒。甘ったるい腐りかけの果実が緩い風に乗って流れてくる。

 シガロは鋭敏な嗅覚でマンゴーとパイナップルを嗅ぎ分けながら、己の自宅でもあるギルド南館の裏口から身を滑り込ませた。後ろ手にドアを閉めた途端、喧騒は遠ざかり、見慣れた壁と細い廊下が眼に入る。常に裸足の猫は特に足裏を払う訳でもなく、家の中へと上がった。誰も文句を言うものなどいない。この建物の全てを管轄し、この建物によって行われる業務の全てを管理するのはシガロ一人なのだから。台所、洗面所のそれぞれのドアが薄く開けっぱなしになっており、それぞれの窓から入る遠い街の明かりが廊下に光の筋を作っていた。シガロは朝から、というか、何時から物を口にしていないかも解らなかったが、台所も洗面所も通り過ぎて、真っ直ぐと寝床へと向かった。
 空腹は感じなかった。ただ、酷く体が疲れていた。ひょっとしたら頭も疲れているのかもしれない。考えなければいけないことが多すぎた。それは業務の面で言えば、同僚たちに自分が得た情報を流すべきか、流すならば何時か、連絡はとれれるのか。ボルドー・カッツィアはどうなったのか。どうする気なのか。ヤツハカはこれからどうなっていくのか。ギルドは、街は、異形は。得た情報の整理と判断と実行。全てがシガロの頭の中で停滞していた。
 感情の面で言えば、それは更に混乱していた。結局、シガロは姉に会うことなく目前で逃げてきてしまったことになる。彼女と顔を合わせるのが怖かった。彼女と言葉を交わすのが怖かった。あの男が再びシガロの耳に入ったことで、勝手に動き出した過去の罪の清算。清算、など。ひょっとしたらそれさえ自分にはする権利すらないのかもしれないけれど。シガロは自嘲を無理矢理何時ものにやにや笑いに変えて、廊下の壁に爪を立てた。キリキリと木製の壁が一本の線のように削れて行く。キリキリキリキリ、まるでシガロの首を絞める音のように。
 寝床に続くドアノブに寄りかかるようにして、捻り開ける。低い天井、黴臭い匂い。毛布の上に崩れ落ちる。暗い部屋の中で明かりさえ灯さず、猫はぼんやりと床の上で蹲った。六つの眼に薄暗い闇しか映らない。三百六十度、誰も見れない世界を見ることができるはずなのに、シガロの世界は薄暗く歪んでいた。さかしまのせかい。逆回転する空。ただ、墜ちていくだけの世界で、一体どんな悪あがきがこの猫にできるというのだろうか。何も解らない。暗闇だ。真の闇などこの街にはないと思っていたけれど。存外近くにあったようだ。それは、ほら、手を伸ばせば、すぐそこに。

 リィィン リィィン

 突然、空気を震わせて部屋にあるオールドタイプの電話が鳴り響いた。壁から引いた電話線に引き摺られるように、床に転がっていた黒い電話が確かに呼び出しのベルを告げている。シガロの部屋に続く電話の番号を知っている者は極僅かである。そもそも必要性があまりないので、誰に教えるということしないのだ。姉か、甥か、ギルドの面々か。いずれにしても今は会話を交わしづらい相手ばかりだ。出来れば諦めてくれることを祈って、シガロは耳を塞ぐように部屋の隅で丸くなった。しかし、電話は諦めない。二十、三十、四十、五十。コールを止めない。コールは止まらない。壊れかけの電話の不協和音はシガロの聴覚を不快に刺激する。静寂の夜に鳴り響くベル。段々苛々してきた。
 これで間違い電話だったら電話線を叩き切ろうと決めて、シガロは渋々寝床から這い出すと受話器を手に取った。掌にずっしりと沈む重み。以前甥に見せて貰った「携帯電話」とかいうやつとは雲泥の差と言わざるを得ない重量に、些か辟易しながらシガロは通話口に口を当てる。あの小さな電話だと自分の耳には声が届きづらいのだ、と思いながら。

『……誰だ』
『………シガロ?』

 無愛想なシガロの声に驚いたのか、遠慮がちな声が耳に届く。可憐な声、優しい声、安心したような、花が綻ぶような。
 間違えようはずもない。シガロの姉の―サキュレ・ゼムンの声だった。思いがけない姉の声にシガロは耳と尾をピンと立て、不躾な口を聞いたことをまず詫びようと口を開くが何も言えず、結局何故か電話機を引き寄せて、もがもがと意味不明の言語を送信するに留まった。受話器の向こう側でくすくすと姉が笑っている。此方を馬鹿にしている訳ではなく、ただ単に楽しそうな笑い声。何時もの姉だった。何も変わらない。昔から彼女はずっとこんな様子で、シガロが何をしても、シガロが何であったとしても、拒まず、嫌わず、受け入れて、そして、微笑む。

『来てくれたのですってね、青蜘蛛から聞いたわ』

 漸く笑いを収めた姉がそんなことを言う。その名を聞いたところで彼女が何を知っているとは限らないのだけれど、反射的にシガロは緊張した。嗚呼、そうだ。言わなくては。彼女に。全て。許されるなどと思っていない。何が変わるのか言われれば何も変わらないかもしれない。しかし、たとえ、意味などなくても。伝えなくては、「何も始まらないと思った」。
 機械越しの沈黙と静寂。チリチリと入るノイズがシガロの耳の奥深くに蟠る。静かに息を飲んだ。無意識に喉が鳴った。緊張で受話器が手から滑り落ちそうになる。暗闇の中で手を伸ばす。紅色の光はすぐそこにあって、けれど、決してシガロには届かない。それでも、腐り落ちるだけの腕ならば、炎に焼かれるほうがずっと良い、と思った。

『姉上、』
『ねえ、シガロ』

 しかし、シガロの言葉を遮って姉の声が届く。優しい声音、穏やかな口調。シガロが物心ついた時から変わらない、彼女の声。

『私、とっても昔に貴方と一緒に暮らしていた時から思っていたの。
 私って、何て可哀想な子なんだろう―って』

 その言葉にシガロは思わず声を失った。だって、そんな、昔は、一緒で、みんな、幸せで。

『だって。私は何も持っていなくて、お家は貧乏で、お金もなくて、食べ物もなくて。
 私の友達にね、ちょっとだけお父さんが仕事で成功した子がいたの。その子が持っていた小さな石のついた指輪が羨ましくて仕方がなかった。私はどう頑張ってもそんなもの着けられなかった。そんなもの持てなかった。洋服は何時も誰かのお下がり。髪の毛はぼさぼさで靴は穴が開いては母さんが直して継ぎ接ぎだらけ。悔しくて、惨めで、仕方がなかったわ。世界で一番不幸なのは私なんだろうってそんなことまで思ったわ』

 それはシガロにとって思いがけない言葉だった。たとえ貧しくても家族の中で最も明るく、毎日を笑って過ごしていた姉。その彼女がそんな思いを抱いていたなんて。そんな感情を持っていたなんて。シガロは知らなかった。彼女と毎日のように過ごしていたのに。シガロは、あの時が、最も幸福だと、信じていたのに。

『だから、本当は家を出た時、ちょっと期待していたの。娼婦になれば、綺麗な洋服を着て、綺麗な宝石を着けて、綺麗にお化粧をしてお金が貰えるって。でも、それも期待はずれだったわ』

 彼女は自嘲したように微かに笑う。

『娼館での私はまるで体のいいお人形。毎日、毎日、綺麗な洋服を着て、綺麗な宝石を着けて、綺麗にお化粧をしてお客さんの相手をしたけど、それはまるで、私であって、私でなかった。可笑しいでしょう?私、昔が懐かしくなったのよ。以前のぼろぼろのアパートメントに帰りたくなったの。毎日のように昔のことを思い出したわ。あのお家、水道管が壊れて、何時もシンクにお水が溜まっていたでしょう?それを目当てに鼠が集まって喧しく騒ぐものだから、母さんが怒って蝿叩きを………シガロ、憶えてるかしら?』

 姉は笑う。楽しそうに。

『そんな時、私はあそこから出るチャンスに恵まれたわ。些か強引ではあったし、行き着いた先は…確かに娼館と大して変わらなかったかもしれないけど…私はあそこでとっても大きな宝物を貰ったの』

 宝物。

『ねぇ、私、今でも信じられないのよ。私に子供がいるの。双子よ。もうすっかり大きくなったけれど、今でも私の子よ。
 あの二人が私のお腹に宿った時から、私は可哀想ではなくなった。私は世界一幸せなお母さんになった。不幸も怒りも悲しみも恐怖も全部あの子たちが私の中から連れ出してしまった。私の中に残ったのは、愛しい思いだけ。
 だからね、シガロ』

 電話越しの姉が微笑む。

『貴方は、貴方の好きなようにすれば良いのよ』

 嗚呼。

『姉上………、』

 最早、言葉もなかった。シガロは許された。これは贖罪などではない。シガロは何もしていない。ただ、ただ圧倒的な存在から罪を許されただけ。本当は許されたと思ってもいけないのかもしれない。肩から、指先から、力が抜けるようなことがあってはいけないのかもしれない。けれど、こんなにも。胸が、熱い。六つの瞳を開けていることが出来なかった。シガロは視界を閉じる。訪れた暗闇に鮮やかな真紅が広がる。温かな両腕に抱きしめて貰っているような感覚。優しい花の香り。シガロはただの猫だ。弱くて卑怯で愚かな猫。誇れるものなど何もない。この世界で助けたものよりも、叩き殺したものの方が多い。嗚呼、けれど。そんな自分であっても。

『姉上、俺は神など一切信じぬが、』

 受話器を強く握り締めて。

『もしも、目の前に後光を差した人物が現れたとしたら、真っ先に貴方の名前を呼ぶとしよう』

 弟の何処か晴れ晴れとした声に姉は、私はただの貴方のお姉ちゃんよとしばらく笑い、シガロもそれにつられるように僅かに笑った。笑うことなど、何十年ぶりだろうと思うほど、シガロにとってそれは久々のことのように思えた。無理矢理作る歪んだ笑みではなく、単純に込み上げてきた笑いだった。心地良い振動が体の奥から末端にまで広がる。可笑しかった。見慣れたはずの部屋がまるで昨日とは違って見えた。積みあがった本の数々。面白い本があった。興味引かれる内容があった。床の隙間に開いた穴。鼠が間違って顔を出し、シガロが思わずその尻尾を踏みつけたこともあった。転がった酒瓶。年代物のコニャックは今でも大事にとってある。何時も情報をくれる猫たちとこの部屋で一杯やったこともあった。アリスゼルから貰ったマタタビが何時の間にか猫たちに渡り、大騒ぎになったこともある。毛布の積みあがった寝床。毛布が何時もの数倍多い。暑苦しいはずなのに、温かくて、心地良かった。部屋が、街が、時間が、世界が、世界は、

 嗚呼 こんなにも明るかったのか!

 シガロは眼を細めた。急に全ての視界がクリアになった気がした。今までの自分は一体何を見ていたのだろうか。そんなことを思うほどに。世界は蒼穹を携えて、シガロの目の前にあった。心地良い沈黙。身は隔てていようとも、姉は急に押し黙った弟に不審の言葉一つ投げなかった。恐らく彼女も微笑んでいるのだろう。そうする以外に恐らく今、何もすることなどない。だが、唐突に姉がそうだわ、と柔らかな声を吐き出した。何事かとシガロが身構えるのに反し、彼女はしばらくも逡巡することなくストレートに、青蜘蛛のことなのだけれど、と切り出した。今、あまりその名前は聞きたくなかったのだが、シガロの思いなど知る由もない姉は穏やかに幼い子供に語りかけるような口調で言った。

『あの子のこと、嫌わないであげてね、シガロ』
『―は?』
『あの子、本気なのよ、怖いぐらいに、本気なの。本当に、本当に、真剣なの。此方が吃驚してしまうくらい。
 …それは勿論、シガロが嫌だというのなら、私からは何も言うことはないのだけれど…』
『…姉上…何を…』
『あら、もうこんな時間?御免なさいね、シガロ。私、これから新しいメイドたちの指導があるのよ。
 何時もは牡丹がやるのだけれど、今日はあの子休暇だから…』
『いや…あの、姉上、』
『シガロ、』

 ぱたぱたと途端に騒がしい音が受話器の向こう側から聞こえてくる。けれど、その中で甘くも凛とした響きを失わない彼女の声。強く、逞しい。導いて、迷わない。その光。眩いほどに。

『好きなように生きなさいな。貴方は幸せになる権利があるのよ』

 猫でも?

『猫でも異形でも、よ。だって貴方は私の弟だもの』

 彼女はきっぱりと―恐らく笑顔で―言い切った。


2008/02/26

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