ibaraboshi***

home > 小説 > , , > Lost in Daydream 4

Lost in Daydream 4

 シガロ・ゼムンは再生復興都市No.6《トードホール》のスラム街にある小汚いアパートメントの一室で生まれた。
 両親は共に人間で、二年前に生まれたシガロの姉もまた人間だったが、社交界に出席する訳でもなく、上等な教育を受けてきた訳でもない両親にとって、たとえ生まれたての赤ん坊が猫の耳と猫の尻尾を備えた上に六つの瞳を持っていたとしても大した問題ではなったようである。シガロはゼムン家の長男坊として大切に育てられた。その異様な容姿からスラム街に住む同い年の子供たちからはよく苛められたが、その度に姉が身を挺して守ってくれた。颯爽と赤毛を靡かせて、女の子ながら両手に木の棒やら何やらを振り回して登場する姉は恐ろしく強く、姉に助けられることで更に悪童たちから口汚く罵られることになっても、シガロは姉の柔らかい手を離そうとはしなかった。
 貧しいながらも家族仲は良く、働き者の母と父、それに天真爛漫に明るくて強い姉を得て、多少引っ込み思案な性格に育ってはいたが、シガロは幸せな毎日を送っていた。黄金色とは言わないが、錆付くことのない幸福。その日暮らしは楽ではなく、時にひもじい思いもしたが、それは大した問題ではなった。シガロには父母いて、姉がいて、それだけで他に欲しいものなど何もなかった。幼い心は満ち足りていた。この後もこんな毎日が続いていくのだと、信じて疑わなかった。

 けれど。

 貧しさは確実に家族を追い込んでいった。父は他所に女を作り、家に帰ってくることが少なくなった。母はそのせいで精神的不安定に陥り、酒やドラッグに浸るようになった。数ヶ月経つと母はすでに包丁を持って台所に立つことも出来なくなった。ただ、刃の欠けた刃を手に部屋の隅で呆然としていることが多くなった。当然、収入はなくなり、姉弟は常に空腹に耐えなくてはならなかった。食べるものはどんどんなくなっていった。金などもっての他だった。スラム街には姉弟と同じように貧しい身形の子供たちがたくさんいたが、恐らく二人ほど腹を空かせている子供はいなかっただろう。限界だった。水も止まり、一週間何も口にしていなかった。母はどうなったのかもうわからない。まだ、台所の隅で震えているのか。―それとも、もう、物言わぬ物体になっているのか。

 ある日、姉はいなくなった。

 シガロは空腹も忘れて、狂乱したように姉の姿を探したが、結局スラム街の何処にも、下水道の中にも屋根裏にも姉の姿を見つけることは出来なかった。憔悴しきって自宅へと帰りついたシガロは、玄関の前にダンボールが一つ置かれているのを見つけた。中を開けば僅かな食料とお金、明らかに姉の字で書かれた短い手紙。その文面から、漸く、シガロは、姉が、自分たちが生きる為に、自分の身を娼館へ売ったことを知った。

 それからの人生はシガロにとって全く意味を成さないものになった。

 数週間に一回、決められた額の金は送られてくる。けれど、それに反比例するように手紙は少なくなった。シガロはスラム街を昼夜問わずにふらつくようになった。何をするでもない。何か目的があるでもない。ただ、ただ、何か眼に見えない敵に怒りをぶつけるように、奇形の異形は街を練り歩いた。その内に何かの弾みで人を殺した。何処のどんな人間だったのかなど覚えていない。ただ、シガロの手によってまるで紙切れが潰されるように、簡単に人間は死んだ。シガロの手の内には生暖かく生臭い体温と僅かな達成感だけが残った。

 達成感。

 それは初めてシガロが感じたものだった。何一つ確かな姿を得ない世界の中で、唯一自分を繋ぎとめてくれると思ったもの。それを、シガロは求め続けた。求める為に武器を手に取った。殺した瞬間の音や感触がよく伝わるように、手に直接装着する武器を選んだ。技を磨いた。殺す為に。感覚を研ぎ澄ませた。殺す為に。闇夜を這い回った。殺す為に。ただ、ただ、ただ、ただ、それだけだった。毎日、毎日、毎日、毎日、鉄錆の匂いが体から離れなかった。ずっと続くとは思っていなかった。ただ、不幸にもシガロはあまりに、あまりにも殺人狂に適した異形だった故に、中々シガロを止めてくれる人間は、中々シガロにもう止めても良いと言ってくれる人間は現れなかった。だから、続けた。毎日、毎日、毎日。シガロ・ゼムン。死を謡う六つ眼の猫、と呼ばれるまで。毎日。そうして数年が経った頃、漸くシガロの腕に鉄の輪がかかった。

 白い監獄。
 初めて知った絶望。
 暴力と恐怖と激痛。
 悪魔(天使)の言葉。
 衰弱した猫は。

 蛙の巣から、蝶を連れ出し、ピンを手にした人間に引き渡した。

 みゃーお。

 猫の鳴き声で眼が覚めた。
 「誰」という訳でもなく、どうやら何処かの野良猫だったようだ。徐々に覚醒し始めたシガロは、耳の次に視覚を確認する。真っ暗闇だ。否、これは外が暗いのではなく、ただ単にシガロが布に埋もれているだけのようである。もそもそと身体を動かす。「先刻」よりも鉛のような倦怠感はなかった。しばらく布に巻きつかれたようにもがき、漸くシガロは出口から顔を出した。何やら自分は数枚の毛布によってぐるぐると簀巻きにされていたようである。誰がやったかはまあ検討がつくが、これはやり過ぎてはないだろうかとシガロはピンと立てていた耳を倒す。そのお陰なのか、何なのか、体の調子は大分良いが。
 窓から薄い日差しが差し込んでいる。何時なのか明確な時間は解らないが何処となく空気に水の気配があるので、スコールが降った後なのかもしれなかった。何時も通りの自分の部屋。視線を彷徨わせれば見慣れた景色の中に水の入ったペットボトルと洗面器がある。どうやら「あれ」は夢ではなかったようだ。夢であれば良かったのに、と一瞬シガロの思考は夢幻へ飛んだが現実は覆すことは出来ない。
 充分過ぎるほど取り乱したせいか、もう最近では全く見ることなどなくなっていた幼い頃の夢を一端ながら見たせいか、幾分か心は落ち着いていた。もそもそと身を起こし、手近に置いてあったペットボトルに口を付ける。自分では気がついていなかったが、どうも随分喉が渇いていたようで結局半分くらい残っていた水を全て飲み干してしまった。
 喉を潤し、まだ少しだけぼんやりする頭でシガロは毛布を纏ったまま部屋の隅で膝を抱える。青蜘蛛は帰ったのだろうか。疑問、答え、恐らく。尾が揺れる。彼の言っていた名前を思い出す。ルートヴィッヒ・ベアトリス。正直、思い出すのも疎ましい。だが、あの男がヤツハカの新しい分団長に就任する以上、ギルドの長であるシガロとの接触は避けられるはずもない。シガロは正直、あの男と対峙して、自分がどうしたいのかまだよく解っていなかった。ただ、受けた屈辱と絶望と、それに少なからずシガロの背筋を走った恐怖は忘れがたい。恐怖。自分はあの男を恐れているのだろうか。

 金色の髪を思い出す。碧い瞳を思い出す。軍服にサーベル。何十年も前に自分の中に封じた記憶。

 凍る、指先。ハッと思い出したようにシガロは辺りを探る。すると指先に硬い金属の感触があり、シガロは安堵の息を吐いた。そこにシガロの凶器はあった。丹念に手入れしているせいか、数多の血潮を浴びながらも錆一つない金属の煌き。この凶器を見た時の、姉の悲しそうな顔を、シガロは今でも覚えている。優しい姉。何もかも包み込んでくれる両腕と、何もかもを許してくれる慈愛の微笑。嗚呼、けれど、それ故に。シガロはまだ彼女に伝えることの出来ない言葉がある。何があっても、何を置いても、言わなければならなかったのに、まだ、伝えていない。

 どうしてだろうか?
     ―だって、嫌われるかもしれないから、
 何故、嫌われる?
     ―だって、俺は、姉上を、

「姉…上、」

 売ったのだ、この大いなる罪人は、実の姉を事もあろうにこの世で最も残虐な悪魔に売り払ったのだ!

 ずきずきと脳髄が痛い。その罪は忘れてはいけなかったのに、何時しかシガロの中で風化しようとしていた。この街で再会した姉があまりにも以前と同じで、あまりにも以前のように優しくて。忘れかけていた。忘れていけなかったのに。十数年の時を経てなかったことにされようとしていた。起きた事実はもう二度と零に戻らないと己が最もよく解っているはずなのに。シガロは痛む頭を振った。自らの罪の重みに屈している場合ではなかった。会わなくてはならなかった。世界で最も優しい姉、世界で最も卑怯な弟。邂逅は、恐らく果たされなくてならないのだ。
 ふらつく足を引き摺って立ち上がる。時間の感覚はなかったが、方向感覚の狂いはなかった。今のシガロには無事姉の下に辿り着ける足と目的地さえあれば良かった。夜が目覚める時間に。その扉を開く、百合と薔薇の花園へ。





再生復興都市 No.6《トードホール》

世界の中央部に位置する商業都市。
主に街道を経由しての輸送・貿易業が盛んであり、世界の南北の中継地点として発展している。
数多くの商人が集まり、独自のマーケットを形成しているが、
それ故に貧富の差も大きく、スラム街における貧困層は人口の凡そ20%を占める。
特に西南境界線を境にスラム街と商業街が隣り合う地域は、治安の悪化が著しく、
早急に格差是正、治安向上の処置が求められるだろう。

『世界復興機構再生復興都市定例報告書』より


08/02/25

新しい記事
古い記事

return to page top