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Lost in Daydream 5

 男娼館Spiderの重厚なエントランスを何時も通り顔パスで通り抜け、シガロは「COBWEB」と書かれたドアの前までやって来た。
 姉に会う為にはこの男の部屋を通過しなければならない、ということは解っていたのだけれど。いざ、目の前にするとやはり躊躇われた。あのような無様な姿を見せたのもあるが、何となくあの顔を見たくなかった。躊躇うように指先をドアノブに触れ、離す。逡巡を表すようにマントの下で尾がゆっくりと左右に揺れた。姉には会いたいと思う。けれど、ドアを開けるのは嫌だ。この場所に来るまでの道中も散々頭を悩ませた自分でもよく解らない理屈に、シガロは混乱し始めていた。
 そもそもシガロはあの男を「爬虫類の異形」であり「男娼館の主」という以外の何ものとも思っていなかったのである。いわば、それは姉とも甥とも違う存在という「ただそれだけ」であって、シガロにしてみれば路傍の石ころとあの男を並べられたところで大した違いはなかったのだ。敢えて言うならば男の方は切り付ければ赤い血液が迸るだろうが、それは些細な違いだった。だが、今、明確にシガロはあの男の存在を認識している。切り付ければ赤い血以上の何かがあり、言葉を吐き捨てれば無言以外の何かがある。
 シガロに全てのものを同一に見せている灰色の無機質な殻。それがどういう訳か彼の分だけ剥がれ始め、ちょっとずつだが色が見始めているのだ。黄金色の、気が狂いそうなゴールド。否、この色自体、全てのものをモノクロに見ることに慣れ親しんでいるシガロにとって珍しいことではないか。
 疑問符が頭を駆け巡る。混乱は度合いを増した。余計に解らなくなっていた。シガロは姉に会いたい。けれど、ドアを開けるのは嫌だ。この先には恐らくあの男がいるだろうから。爬虫類の太い尾。逞しい腕と背中と。腹立たしい、歪んだ笑い。

「おい―、」

 ドア越しの声に思わずシガロは全身を硬直させた。まさか、自分が、気配に気付かないなんて。
 明らかにドア一枚隔てた向こうに立っていると思われる男の声に、《死謡》と呼ばれたこともある百戦錬磨の猫は普通に落ち込んだ。考え事をしていたせいなんて言い訳にしか過ぎない。これで向こうにシガロを殺す意志があれば、今この場に胴体と首が繋がった猫はいなかっただろう。自然、耳と尾が垂れる。何だ、この男が悪いのか。ドアは開かない。けれど、伝わる気配。ドアノブが回る。混乱を敵意に変えたシガロが予想する男の頭の位置を睨みつける。ゴールドの瞳は予想通りの位置に現れた。

「何時までそこにいるつもりだ…?」
「…我輩の勝手だ」

 シガロの言葉に何時も通り皮肉めいた笑いを返してくると思いきや、無表情のまま青蜘蛛はドアを開く。相変わらず古典趣味の広い部屋。高級ホテルのホールと言ってもいいような質の良い絨毯が敷き詰められた玉座の間には、微かな樹の香が焚き染められ、アンティークの調度品と壁にかかった幾つかの古い型を模した刀剣。そして、百合の花園へと続く扉。その扉の方に向けて、青蜘蛛は軽く顎をしゃくってみせた。
 瞬間、意図が解らずシガロは思わず瞳を一つ瞬きして彼を見上げてしまった。伝わらないと悟ったのか、男は口を開く。

「行け。鍵は開いている」
「どういう、意味だ」
「会いたいのだろう、姉に」

 瞬間、

 カッとシガロの頭に血が上った。かしゃん!と金属音がその怒りに呼応するように長く伸び、黒いマントの下から確実に男の喉元を狙って繰り出される。ひゅっと風を切った刃を、けれどまともに受けるほど、青蜘蛛も素人ではなかった。理解するよりも速く、体が勝手に動いたのだろう。見事な低い体勢からの跳躍で絨毯の上を大きな体躯が転がって避けた。シガロはマントを翻し、口から細く息を吐き出しながら、熊手を戦闘に適した位置で構える。何時どんな攻撃が来ようと、防御し、受け流し、反撃できるように。顕わになった金属の爪は相変わらず冷たい殺戮の予感に満ちていた。金色の瞳が薄く驚愕を含んで此方を見上げる。

「我輩を馬鹿にしているつもりか、青蜘蛛よ」
「…そんな…つもりは…」
「なかったと言うか」

 言葉と時間の経過によって、青蜘蛛の瞳から混乱と驚愕が消えていった。まるでほんの数秒前のシガロのように。冷たく、研ぎ澄まされて、穏やかに、けれど熱く。巨躯が立ち上がる。相変わらずの空手。しかし、異形の鱗に覆われた硬い皮膚は何よりも軽く強靭な鎧だ。握り締めた拳はウォーハンマー並の破壊力があるに違いない。シガロに負けず劣らずこの男も戦闘の適した人種なのだ。恐らく相手に危害を加えることに躊躇いも迷いもない。静かな殺気が空間を支配する。聞き取れぬほど低い音域の獣の唸りのような、明らかな敵意と殺意。シガロの耳の先の毛が逆立つ。これは恐怖ではなく―武者震いだ。

 先に床を蹴ったのはどちらだったのか。

 シガロは気がつけば大きな一歩で相手の懐を狙っていた。だが、相手もシガロの爪が超近距離ではなければ有効でないと知っているだけに、簡単には入らせてはくれない。大きく退くように足を下がらせる。ぞっと布が裂けるような音が響く。空気を断ち切る連続音。シガロは引かない、止まらない。ぎょっとする気配が伝わってきた。だから、どうしてそこで動揺を相手に知らせるのか。二重三重に甘い青蜘蛛に嘆息めいた息さえ吐いて、シガロは男の鳩尾を狙って肩から体当たりを仕掛ける。

 誰も熊手を打ち込むなんて言っていない。

 ずどんっ!と二人分の体重が床に激しく打ちつけられる音が響いた。と言ってもシガロは概ね筋肉布団の上にダイブしたようなものなので、ほとんど痛みなど感じなかったが。強かに背中と後頭部を打ちつけた青蜘蛛はそれどころではないようだった。上にシガロ一匹分の重みが乗っている為に悶えることも出来ずに硬直している。シガロは冷静に立ち上がると、まだ眼を見開いている男の顔の側に熊手を突きたてた。ざくっと良い音がして、刃は床へと突き刺さる。チェックメイト、とは流石に言わなかったが、あまりにも呆気なく決まった勝負だった。恐らく相手が悪い。

「俺の負け、か…」
「ああ」
「…では…今度こそ、心置きなく通るが良い…」

 その言葉に今度はシガロが硬直した。嗚呼、そうか。姉に会いに来たのだ。此処を通って、彼女の城へ、彼女の場所へ。会って、話を、伝えなくてはいけないことが、会って、伝えるべきことが、ただ、ひとことでも。でも。

「俺は、許しを請う資格があるのだろうか…」
「…何、」
「許されて、良いのか。この俺が。
 姉上を、たった一人の姉を、この手で地獄に突き落としたこの俺が!」

 声は激流のように溢れて、指先は震えた。腕は力なく今にも腐り落ちそうだった。姉は、一体今までどんな気持ちで自分のことを見ていたのだろうか。己が自由の為に姉を売り払った弟を。笑顔で迎えられようはずもないのに。今まで嫌悪感一つ示さず。今まで溢れる情愛を一つ漏らさず。シガロにとって姉は幼い頃から今に至るまでずっと変わらず姉のままだった。変わったのは自分だけ。意地汚く、卑怯な自分が、何故、堂々とした面を提げてあの人に会うことができるだろうか。今までシガロが重ねていた姉との面会は全てが自分の為だった。一度たりとも、姉の気持ちを考えた事が、自分はあっただろうか?あの地獄から帰ってきた姉が、あまりにも以前と同じで、あまりにも同じように優しくて、それで。―わすれていた?

「……お前の情緒が先日から不安定なのは…あの男のせいか…?」

 青蜘蛛の低い声が下から届く。シガロは答えない。それはシガロの考えていることとは若干違ったが、殊更見当違いと言えないことでもない。空ろな紫水晶が男の目線を捉える。怖いくらいに真剣な表情だった。

「あの男と知り合いか」

 シガロは答えない。答える義務もない。何故そんなことを聞くのかさえ解らない。

「あの男と何かあったのか」

 シガロは答えない。熊手は未だに床に食い込んでいる。ぎしと引き裂かれた板が悲鳴をあげた。

「あの男がいなければ、お前は幸せか」

 シガロは答えない。
 しかし、耳が揺れ、瞳は揺らいだ。あの男がいなければ。シガロが何度思ったかしれない仮定だ。あの男がいなければ。シガロが捕まらなければ。姉が娼館に行かなければ。母がドラッグに染まらなければ。父が他の女など作らなければ。家が貧しくなければ。シガロが、異形でなければ。未来は違っていたのだろうか。違う人生だったろうか。違う生き様だっただろうか。けれど、それは幾度仮定しようと仮定でしかないのだ。起こってしまった事実は変えられない。シガロが負った罪も、悪も、あの男も、姉も。全て取り返しなどつかない。

「そうか。では、俺があの男を殺そう」

 それなのに。
 次いで聞こえてきた言葉にシガロは自分の獣の耳を疑った。思わず耳の先がぴくぴくと二回ほど動いてしまったが、それも致し方ないことだっただろう。何を、何を言ったのだ、この男は。意味が解らない。混乱する。何も文章が繋がっていないではないか。あの男がいなければ良いと確かにシガロは思ったが、それは仮定であって、「確かな仮定」であって、それは現実ではないのだ。それは、無論、実際にこの手であの男を葬れれば良いと思ったことは一度ではないが、しかし、だからと言ってそれを青蜘蛛が実行する意味が解らない。何なんだこの男は。真面目な顔をして狂っているのか。
 シガロは思わずまじまじと六つの眼で、叩き伏せられ、刃を突きつけられ、尚意味不明な言葉を吐く男を見つめてしまった。屈強な体躯。硬い鱗に攻撃的な刺青。シガロと同じ異形のようで全く違う男は思考回路まで異なるのだろうか。何故、と努めて平静を装って低い声で聞く。理由など検討もつかなかった。聞いてもまともな返答が来るとは思わなかった。何故ならばシガロにはこの男の言う言葉が現時点で何一つ理解出来ていないからである。
 問いに男は相変わらず真面目な顔をして口を開く。すっと通った鼻梁。鋭い視線。気が狂いそうなゴールドのはずなのに。

「お前を愛しているからだ」

 更に気違いめいた言葉を吐きやがった。

 シガロは今度こそ混乱の極致に達し、ふらりと眩暈すら覚えた。駄目だ、この男は狂っている。もう手の付けようがない。あまりに理解の範疇を越え、怒れば良いのか呆れれば良いのかそれさえ解らない。シガロだって愛という言葉ぐらい知っている。しかし、それは決してこのような場面でこのような男から聞かされて正解と言えるような言葉ではなかった。先程とは違う感じで頭がぐわんぐわんと鳴る。シンバルとトランペットと大太鼓が同時に頭の中で自棄演奏されているようだった。最低だ。

「それは…笑えない類の冗談か、青蜘蛛…」
「否、本気だ」
「そうか…それは良かったな…俺は帰る」
「待て」
「帰らせろ」

 今度は此方の気が狂う。床から凶器を引き抜き、マントを翻してシガロは脱出を試みる。しかし、もう一度待て、と後ろから声が追いかけてきて、続いた言葉が一端ドアノブにしがみ付いたシガロの足を止めた。

「ルートヴィッヒ・ベアトリスが街に来るのは二日後だ。すでに本部を隊列が出発している」

 二日後。現実的な数字にシガロは知らず身震いした。残り四十八時間。シガロに与えられた時間はそれだけか、若しくはそれ以上に残酷なほど有り余っているのか。笑みすら忘れ、唇を引き結んだ猫に、もう一つ、と起き上がり床の上に胡坐をかいた男は付け加える。

「時計兎―クロック・タイムには気をつけろ」
「…なに、」
「あれは表向きはルートヴィッヒの実弟であり…本当は息子だ」
「どういう、意味だ?」
「ベアトリス中将―つまりルートヴィッヒの父親の後妻とルートヴィッヒの間に出来た子だ。
 異形の為に家から蔑ろにされているが、必ず兄につく」

 それは意外な繋がりだった。あの兎と記憶の中の男は全く似ていないのだが、しかし、異形ではそれも大して珍しいことではない。僅かに頷き、二重の意味で混乱しつつある頭を引き摺って、シガロは今度こそ蜘蛛の巣を後にした。ゴールドの視線が後を引く。無理矢理引き剥がした。
 どうするのか。どうしたいのか。どうすればいいのか。カチリと鳴る金属の凶器の矛先一つさえ、まだシガロには決める事など出来なかった。


08/02/25

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