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Lost in Daydream 3

 監獄の中は暗く、冷たく、そして寒かった。人の気配は立ち消えて、痛いぐらいの静寂。「最低限生きていけるだけ」の栄養は常に透明な管によって強制的に摂取させられていた。ピッピッ規則正しく続く電子音。視界の隅を黄色い液体が流れていく。両腕と両脚を繋ぐ鎖。死ぬことさえ自由でない場所。手当ても碌にされない傷が痛む。今日は右腕と左足が痛い。尾の痛覚はとっくの昔に麻痺してしまった。恐らく看守と取調べ人という名の拷問魔もいい加減に飽きがきたのだろう。最近は専ら猫の骨と皮だけの身体を痛めつけることに熱中しているようだった。

 そこにはかつての殺人狂と恐れられた男の姿はない。

 《六ノ眼》と畏怖を込めて呼ばれた男の姿はない。《死謡》と恐怖を込めて呼ばれた男の姿はない。《首狩り》と子供から泣き叫ばれた男の姿はなく、《長鳴き闇》と大の大人を震え上がらせた男の姿はない。

 そこにいるの絶望し、衰弱し、狂気し、絶望し尽した一匹の猫だった。

 最早、紫色の瞳には何も映らない。空ろな白い天井。眺めても眺めてもそこに懐かしき街のくすんだ夜空が浮かぶことなどない。猫は確かに多くの罪のない人間を殺してきた。その両腕の爪を真っ赤に染めて、老若男女関係なく、その臓物を引き裂き、眼球を抉り、骨をへし折ってきた。だから、ひょっとしたら此処でこのような目にあっていることは自分の報いなのであって、当然のことかもしれない、と。そこまで。

 そこまで、猫は侵食されてきていた。恐怖と絶望に。

 恐らく以前の彼のならば殺人に罪悪感を覚えることなど一秒たりとも有り得なかっただろう。殺すことが当然である彼にとって、殺人とは生きていくための日常であり、それは別段特殊なことではない。だからこそ、彼は逮捕された当初は何も語らなかったし、何も行動を起こさなかった。罪悪感などなかったから。自分に懸賞金がかかっていたことは知っていたけれど、それも大したことだとは思っていなかったのだから。けれど、実際に猫は軍によって捕まり、監獄へと入れられた。一応の法の裁きを受け、下された運命は「死」。それでも彼は泰然としていた。何一つ慌てる必要などないように思えたから。死など恐ろしくなかった。相手と命の取り合いをすることに、怯えた事などただの一度だってない。だから、猫は思っていたのだ。此処でも同じだと。この両腕を振るい、この両脚を使い、戦って死ねるならそこに何の悔いもない。全身の血液を沸騰させ、千切れるほどに腕を動かし、頭を回転させ、生きる為に殺す。そこに恐怖など微塵もないはずだった。そこに悔恨など一つも残らないはずだった。けれど、此処で待っていたのは、ただの―暴力と白い絶望。

 監獄の扉が開く。眼を向ける気力もない。視界の隅に金色の髪が映る。天使のような、天使、というものを猫は此処に来て初めて知ったのだけれど、碧い瞳と金色の髪と澄んだ声の、

「御機嫌よう、シガロ・ゼムン」

 悪魔。

「今日は良い報せを持って来た」

 天使は言う、

「お前は此処から出られるかもしれない」

 甘美な声で、

「お前には姉がいるだろう?」

 囁く、

「美しい蝶だ。業突く張りの蛙たちの巣穴に隠れて、中々姿を見せないが…」

 甘い甘い声、

「弟のお前が誘えば、彼女は容易く巣穴から出てくるに違いない」

 混乱する、

「私たちはお前の姉に会いたいのだ」

 惑わされる、

「協力、してくれるだろう?」

 そこで初めて猫は天使の姿をはっきりと視界に捉えた。金色の髪、碧い瞳。滑らかな白い肌に、かっちりとした体躯、ダークグリーンの軍服、腰から提げたサーベル。白い手が翻り、条件を提示するように示される。迷わされる、惑わされる。猫は此処から出たかった。何としてでも出たいと願っていた。恐らくこの誘いを断れば、二度目はない。直感で解っていた。そうすればきっと猫は殺されるだろう。今までの拷問よりももっと酷い方法か、それとも銃殺か、絞殺か。死、死、死、死、死。間近に迫る恐怖に、男の顔が重なり、唇が震えた。しにたくない、とおもった。
 猫は縋るように尾を丸めた。耳を伏せ、屈服と服従を伝えるように額を床に擦り付けた。口を、開いて。かの、天使に。

 絶叫。

 シガロ・ゼムンは跳ね起きた。全身にびっしょりと汗をかいている、頭が混乱し、後頭部がぐあんぐあんと唸る。此処は何処だ?混乱する頭を振りながら、シガロは考える。ほぼ真四角の部屋。調度品と呼べるものは特別になく、低い天井、見慣れた壁の傷、積み込まれた洋服や放り出されたままの空の酒瓶。狭い室内は黴と埃の匂いとが充満していて、高い窓からは午後の日差しらしき明かりが差し込んできている。
 此処はシガロの自室だ。
 ほっとした途端に酷い倦怠感に襲われ、シガロはずるりと何時の間にか被っていた毛布の中に崩れ落ちた。シガロの部屋にはベッドなどという上等のものはない。何時も床で毛布に包まって寝るシガロの正しく此処が寝床であることは間違いないのだが、しかし、どうやって此処まで帰ってきたのか全く記憶になかった。そもそも一体シガロは何処にいただろうか。今は何時の何時頃なのか。
 何一つ解らずシガロは鍋の底で殴り続けられているような頭を抱える。「何一つ解らず?」否、憶えているじゃないか。忘れたかっただけじゃないか。あの屈辱、あの悔恨、あの、恐怖を。

「おい、大丈夫か、」

 ノックはなかった。だが、軋みの激しいドアを開けて飛び込んで来たのは何処かで見たような珍しく慌てた様子の屈強な爬虫類の異形で、手には琺瑯の洗面器にタオルと水の入ったペットボトル。名は忌々しくも忘れられない。青蜘蛛。何故だ。何故、お前が此処にいる。
 しかし、疑問は口を突くことなく、シガロは込み上げてきた不快感に毛布を握り締めて蹲った。何もかもが気持ち悪い。視界が、世界が回転している。それも逆回転だ。おい、ともう一度低い声が耳朶を打ち、足音が近付いてくる。足音。革靴が床を打つ。
 無意識に自分の両腕を確認する―熊手が、なかった。瞬間、背筋を駆け抜けたのは明確な恐怖、悪寒。短い尾から背中の産毛まで逆立てて、シガロは喉の奥から声を絞り出す。回った視界。恐るべき世界。恐ろしい、恐ろしい、恐ろしい、恐い、

「近寄るなッ!!!!」

 常に彼ならば有り得ない切羽詰ったような強い声音だった。シガロの気迫に気圧されたのか、青蜘蛛は歩みを止める。シガロは毛布を引き寄せ、灼熱の鉛のようになった内臓を身に抱えたような重さを感じながら、じりじりと壁の隅に向かって後退する。金属の煌きは眼の届くところにも、手の探るところにもなかった。何処にあるんだ。何処にある。あれがないと、あれがないと、俺は、

「俺の、武器を、何処にやった…ッ?」
「…シガロ、落ち着け」
「気安く俺の名を呼ぶな!!何処にやった!」

 手負いの獣のようなシガロの唸り声に青蜘蛛は無表情のまま口を閉じた。彼は一端、洗面器と水を床に置くと、近くの積み重なった本の上から金属製の獣の爪を模した武器を取り出す。冷たくて鈍い輝き。数多の人間の血を吸い、真紅に染まってきた手甲鉤はシガロが「この街に来る前」から愛用していたものだ。青蜘蛛は慎重な仕草でシガロに近くの床に、その凶器を置いた。主人の手から久方ぶりに離れた凶器は鈍く相変わらず輝いて、酷く冷たく見える。装着しているときはまるで自分の体の一部のようで少しも気にならないが、こうして離れて見るとシガロは稀に不思議に思ってしまうことがあった。何故、これを着けなければならないのか。それはこれが武器だからであり、シガロが戦う為であり、シガロが戦わなくてはいけない為であるが、けれど、一体、どうして、何時から、これを手に付けるようになったんだ?
 シガロは末期の気管支炎の患者のように息苦しく喉を鳴らしながら、凶器に手を伸ばそうと身体をずり動かした。ずるりと今はもう体全体が鉛のように重たい。けれど、この金属を手に着けなければならぬ。何故?だって、これを持っていなくては、持っていなくては、殺されてしまうだろう?

「シガロ!」

 けれど、シガロは熊手に触れる前にずしゃっと頭から床に向かって崩れ落ちた。視界がぶれる。青蜘蛛の声が耳朶を打つが、その言葉の意味にまで心を傾ける余裕はなかった。ただ、大きな腕がシガロの上半身を軽々と抱き起こす。さわるな、と弱々しい声が天井に吸い込まれていく。ゴールドの狂気の瞳が、けれど今だけは、狂気の色も冷たさもなくして、心配そうに見下ろしていた。何だその顔は。知らない。そんなもの、猫は知らない。
 さわるな、ともう一度言おうとした喉が焼け付いて声が出なかった。アイパッチの奥の眼球が熱されて痛い。熱くて、苦しかった。まるで灼熱の業火に炙られているように。熱い。眼を開けていられない。金色がぶれる。気を失ってはいけない。此処は危険だ。安全じゃない。牽制と嫌悪の意味を込めて、もう見えない何かに向かって爪をたてる。カツと皮膚に食い込んだ感触があったが、相手は微動だにしなかった。何故だ。痛いだろう、痛いはずだろう。猫の爪だ。痛いに決まってる。それなのに、何故。

「―もう、止めておけ…」

 一言ぽつりと素っ気無い言葉と共に大きな掌が額に当てられる。長い前髪をかきあげられ、汗が冷えるのが解った。冷たい体温が気持ち良い。嗚呼、この感触は何処かで見覚えがある。大きくて優しい掌。シガロが苦しくて辛い時、何時だってこんな手が助けてくれたのだ。シガロ、と誰かが名を呼んでいる。誰だろうか。敵意は感じない。そんなものは、恐らくこの世界にはない。優しくて、安心した。
 白い眠りが再び、訪れる。





手甲鉤(Tekkokagi)
通称・熊手。手の甲から指の先までを爪のような金属で覆う形で作られる武器。
獣の爪を模しており、バグ・ナクや猫爪などのバリエーションがある。
爪の先に毒物を塗ったり、ワイヤーを仕込んだりといった使い方も可能で、
どちらかというと正攻法な戦闘よりは、暗殺などの身を隠しながらの攻撃に有効。
最近では死刑の判決が下された殺人狂が使っていた事で有名である。

世界武器凶器研究学会 『世界武器大全』 直刃書房 3048年
P665より


08/02/24

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