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荊の下でさえ猫は鳴く

 雨が降り続いていた。深く沈んだ曇天はどれほどの水を貯えているというのか、降り止む素振りも見せず白く煙る雨を降らせ続ける。濃密な水の匂い。ばしゃ、と一つ水溜りを踏みしめると、シガロは漸く辿り着いたアーチに人知れず息を吐いた。《Spider》―刻まれた文字は見慣れたもの。雨のせいで薄闇にも似た靄がかかっているが、まだ宵の口も過ぎていない現在、この悪徳の館は営業時間ではない。ただ、客人を迎える為の見事な薔薇たちが雨に打たれながらも、大きな花弁を広げていた。
 シガロは瀟洒な鉄製の門扉を勝手に片手で押し開ける。鍵はかかっていなかった。背負い上げた男の体がずるりと滑り落ちそうになり、何度目になるか解らない同じ動作で引き揚げる。オリーブグリーンの髪が視界の隅で雫を落とす。巨大な筋肉の塊のような男は相変わらず目覚める気配はなく、猫はそろそろ悪態の一つも吐きたくなっていた頃だったのだが、もう目的の場所には辿り着いたのだ。無意味な罵詈雑言は止めることにしよう。濡れた石畳を踏む。煉瓦積みの館へと続くゆるりとしたカーブから、突き出したエントランスの屋根、巨大な観音開きの扉へ。丁寧な細工が施された金色の取っ手と細かな彫刻が施された正に男娼館に相応しい威風堂々たる門構え。その前にまるでこの館が建立された当初から立つ彫像のように身動き一つせず、一人の青年が立っていた。
 艶やかな黒い燕尾服に白い手袋。黒いネクタイを締め、オールバックに整えられた髪。ぴくりとも動かない無表情が男の意識の有無さえ不明瞭なものにしていたが、その視線がシガロとその荷物に留まると、ゆっくりと姿勢を正し一礼した。シガロは雨のカーテンの向こう側へと渡る。僅かな段差を得て、執事(紛いようもなく執事である)の元へと辿りつく。男は物のように猫に担がれている己の主人を見下ろすと、特別その表情に変化を起こす訳でもなく、此方へ、と呟いてドアを開いた。重厚な音を立てて館の扉が開かれる。昼尚暗い、否昼だからこそ暗い館内には明かり一つ灯っておらず、シガロは濡れそぼった髪を軽く振ると二度三度瞬きした。暗闇に眼が慣れるまで数秒。難なく玄関ホールの調度品がはっきりと見えるようになり、シガロは館内に足を踏み入れた。

 執事の先導に従って、普段とは違う扉をくぐる。一つ廊下へと抜けるドアを通り抜け、しばらく赤い絨毯の上に足跡を付けながら歩き、別段変わり映えのしないドアから部屋へと通される。中は相変わらず絨毯が敷き詰められ、高価そうな装飾の施されたソファが二台、黒檀の縁に硝子が嵌め込まれたローテーブルが一脚。壁には絵画が飾られ、部屋の隅にはこれまた高価そうな花瓶に満開の薔薇の花が生けられている。どうも客室らしい一室で執事は足を揃え、改めて深々と頭を下げると泥と血と水で汚れた主人をシガロの肩から受け取った。割合体格の良い彼は異形、なのだろうか。別段苦にするようでもなく屈強な男を抱え上げ、ソファへと座らせるように降ろす。高価そうなソファの高価そうな布地に恐らくもう二度と落ちないと思われる染みが広がるが、執事は全く気にした様子もない。
 ただ、ローテーブルの上に備え付けらしい金色のベルを慣れた手付きでリンリンと二回ほど鳴らした。すると、ノックの音が控えめに響いて、開いたドアから可憐なメイド服に身を包んだ少年が二人、恭しい礼と共に入ってくる。白と黒を貴重としたヘッドドレスからニーソックスまで完璧なメイドが消毒薬の匂いのする籠とタオルを山のように抱えて入ってくるというのは、中々日常では見られない光景だったが、普段から悪徳の館イコールメイドという思考回路が出来上がっていたシガロは特に驚くこともなかった。彼らは執事に促されるように己の主人を両脇から囲むと、まず裂かれた服を脱がせ傷を顕わにし、籠から消毒液の瓶を取り出すと脱脂綿に含ませて塗りつけ、一方でもう一人がタオルで丁寧に男の髪から鱗から体までを拭いていく。衛生兵のような手慣れた仕草に思わず安堵に似た吐息をつきながら、シガロはふるふると頭を振った。濡れた髪から雫が迸る。一度濡れた毛皮が乾きにくいこともあり、水に濡れることを嫌うシガロはうんざりと尾を脚に打ち付けた。ぱす、と僅かに重たい音に、ふと顔を上げたメイドの一人が気付いて、タオルを片手に駆け寄ってくる。乾いて真っ白なそれを断る理由もなく受け取れば、執事がソファへと腰掛けることを勧めてきた。これでソファ二台が修理ないし廃棄処分となるが良いのだろうか。しばらく悩んだが、結局相手が良いと言っているのだから良いのだろうという結論に達し、シガロは男と向かい合う形で腰を下ろした。

 右手に嵌められている熊手の金具を左手で器用に外す。かしゃん、という音に一瞬肩を跳ね上げた少年たちは初めて不安そうにシガロを見、続いて執事を見上げたが、やんわりと首を横に振られて自分の業務に戻った。血と雨で濡れた上着を脱ぎ捨てる。シガロは男と異なり、目立った外傷はほぼないと言ってよかった。破れ耳から髪にまで及ぶ水気を丁寧に拭きとり、眼を瞑って首回りを拭く。しなやかに筋肉の付いた上半身は若干の擦過傷などはあるものの、やはり血が滲んでいる場所は見当たらない。思い立って足を持ち上げる。足裏を確認してみると、泥と血が混雑して付着してはいたものの、細かい傷はほぼ塞がっているようだった。タオルでがしがしと撫でてみる。特に問題ないようだ。

「………シガ、ろ…?」

 声が聞こえた。執事でもメイドでもない低い音域。思わず顔を上げると、腕にも腹にも消毒薬臭い包帯を巻かれた男がソファからぎりぎりと機械仕掛けのように背を起こすところだった。青蜘蛛様、とメイドたちが小鳥のように静止するのも聞いていない。金色の視線が中空を彷徨い、何かを探すように指先が動き、胡乱な剣が明確な光を帯びる。紫苑の水面に刃一つ。猫の姿を認めた男は深く―深く、深く、息を吐き、頭を垂れた。その瞳が、その耳が、その指が、何を考えているのかは解らないけれど。ただ、シガロは耳の先をふるりと振った。
 何かを察したのか、沈黙の降りた部屋で執事はメイドたちを促す。美しい少年たちは常ならぬ主の様子に不安げだったが、やって来た時と同様にテキパキとした動作で治療具を片付け、スカートの裾を翻して一礼をすると部屋から退出していった。やがて、その後を追うように執事も一礼をし、部屋にはシガロと男だけが残される。
 沈黙、静寂。居心地の悪い呼吸音だけが残され、猫は何となく足を抱え上げたい気分になったが、動作を起こすのも困難な重苦しい空気の中それさえも憚られた。時計一つない部屋である。流石に防音設備が整っているのか、ノイズは一つも聞こえず、天井にあるシャンデリアだけが音のない光を放っている。雨の音は聞こえない。世界中に平等に降り注ぐ雫の集合体はもう止んだだろうか。それともまだ降り続いているのだろうか。

「………あの男は…死んだのか?」

 静寂を破る声。見遣れば金色の視線を前髪の隙間から覗かせた男が問うていた。猫は頷く。

「ああ」
「…そうか」

 ほんの短い遣り取りの後、再びの沈黙。本来ならばシガロには男に言うべきことがたくさんあった。来るなと言い置いていたにも関わらず何故来たのか。何故一人ルートヴィッヒ・ベアトリスに立ち向かったのか。何故シガロの敵に手を出したのか。ルートヴィッヒが手心を加えたから良いようなものを、運と時が悪ければあの場所に転がっていたのは気絶した男ではなく、死体となった男だったに違いない。「そうなった場合、どうするつもりだったのか」。
 否―この問いは男に対してではなく、シガロ自身に向けられるべきだろう。そうなっていた場合、シガロ・ゼムンはどうするつもりだったのか。永遠の仮定に答えなどありはしない。だが、幾つか戯れに想像してみるならば、恐らく猫はルートヴィッヒ・ベアトリスに対してあれほど冷静に立ち向かうことは出来なかっただろうし、恐らくあれほど高みにある剣戟を繰り返すことはなかっただろうし、恐らく宿敵の死に敬意を払うような殺し方はしなかっただろう。いずれも無体な仮定ではあり意味などありはしないが、だが少なくとも今此処に二つの「生」が残存する可能性は零になっていただろう。

「…すまん、」

 男の言葉が落ちる。

「お前の勝負を汚しただけではなく…役にも立てなかった…本当に…すまない、」

 大きな体躯が実に小さく見えた。震える指が僅かに動き、シガロは何も言わないつもりであったというのに―あったというのに、一体どうしたというのか。変な感情が心の中でカコンと音を立てて湧き起こり、気がつけば、そうでもない、と口走っていた。それはまた、言うべき言葉とも違うもの。ゆらりと金色の光が蠢く。視線がシガロの見えない瞳に向けられ、唇へと移動し、不可思議なものでも見るように揺れた。

「俺の命はお前に救われた。一瞬だが失くしたと思った両腕も両脚もまだ俺の意志で動く」

 信じられない、というふうに男は眼を見開いた。やはりあの時のことは憶えていないようだ。ということはほとんど無意識の内にあの重量級のハルバードを放ち、見事ルートヴィッヒの腕を切り落としたということだろうか。とんでもない強運と意志、というか無意識かだからこそあの殺気に一際敏感な老軍人の裏をかけたということも言えなくもない。何にせよシガロが今もこうして五体満足でいられるのは、この男の存在があるからに相違ない。もしも、あの場にこの男が―カルーアがいなければ、恐らく結果は違ったものになっていただろう。無論、最初の展開から違っていた事も考えられるが、それでもあの五分五分の戦況の中で、シガロが一度でも不利になる確率は甚だしく高かった。そして、一度陥った窮地から脱するのは―恐らく他者の介入なくしては難しかっただろう。だから、とシガロは言葉を続ける。未だ金色の瞳を瞬かせている男に向かって、眼を覚まさせてやるように。得意のにやにや笑いを唇に刻んで。

「感謝する。礼と言っては何だが…こんな気味の悪い猫で良ければ幾らでもくれてやろう」

 恐らく男はシガロの言った言葉の意味が解らなかったに違いない。呆けたように眼を見開き、彷徨うように尾が揺れる。真新しい包帯の巻かれた腕が後頭部に回され、がしがしと硬質な髪を掻く音がする。どうもこれが現実か夢幻か考えあぐねているらしい。煮え切らない男の態度にゆらと脳内に湯が沸いた猫は、相変わらずテーブルマナー無視で硝子版に足裏を乗せると手を伸ばし鱗に覆われた男の長い耳をがしっと上に伸ばした。い!?と声にならない悲鳴をあげた爬虫類に向かってよく聞こえるように、シガロは低い声を張り上げる。

「欲しい、と言ったのは貴様であろう。いらぬのならばやらん」
「…いや、待て、シガロ…いらぬとは、言っていない」

 甘ったるい空気など皆無で二匹の恋人未満たちは睨みあう。これは何なのだろうか、と思っていたのはきっと男の方で、恐らく大真面目なのは猫の方だった。
 そう欲しいと言ったのは男の方だ。無様にも無残にもこの薄気味悪い猫を望み、執着し、血塗れた爪を諸共せず、手を差し伸べ、妄言を吐き、欲しいと言ったのは男の方だ。こんな猫の何がよいのか。我ながら一片たりとも己の長所や利点を上げることなど出来ないが、それでも望んだのは彼だ。何を勘違いしているかは知らない。何を夢見ているのかは知らない。けれど、その手を伸ばして欲した以上、そして、シガロがそれに心を揺り動かされた以上、シガロはこの気が狂いそうな感情に答えを出す必要があったし、男はこの気が触れたような猫の答えを選択する義務があった。
 鱗のついた耳から手を離す。彷徨する指先。紫苑色の六つの瞳の焦点は一つ残らず男に向けられる。真後ろの瞳でさえ何かを伺うように見開いている。シガロは口を開く。

「こんな気味の悪い猫で良ければ、幾らでもくれてやる―三度目は言わんぞ」
「………………気味悪くは…ないだろう」

 短い沈黙の後、ぼそりと低い声が落とされた。金色の射抜くような眼光にけれど背筋が震えるような甘いものが混じっているのに猫は気付く。耳の奥を打つ音。狂った鱗の悲鳴のような。濃い、吐息。肺中の空気と共に吐き出されたような言葉が、静かに室内を満たす。

「高潔で、自由で、恐ろしく強い…そんな美しい猫を…俺は一匹しか知らぬ」
「…それはまた…変わった観点だ」
「くくっ…お前が俺と打ち合うようになってから…ずっと思っていたことだ…」

 喉の奥で自嘲的に笑う。積み重なった恋慕をほろほろと崩していくように。男の顔が揺れる。

「初めてだ…こんなに欲しいと思ったのは…。だが…俺の欲するものがどう足掻いても手に入らぬこともまた…解っていた…心の大半は諦観が占め…その諦観にさえ絶望し…ともすれば無理矢理奪い取ることさえも思わぬほどに、」
「それは物理的に不可能だろう」
「手厳しい」

 笑い声。

「俺は…これまで…自分の望んだものは何一つ得ることはなかった…何一つ己の手で掴むことはできなかった…己の人生でさえ、自分の思い通りになったことなど一つもない。俺は軍人になどなりたくなかった。俺は戦場で死にたくなかった。俺は翼の生えた神になど仕えたくなかった。俺は俺の人生など送りたくなくて逃げ出したというのに…結局はこの様だ」

 男の過去がはらはらと剥がれる。まるで壊れたメッキの玩具のように。シガロは耳を澄ませて男の声を聴いていた。軍人、戦場、神、という言葉が脳内を滑り、霧散していく。それを一つ一つ取り上げて、糾弾する気にはならなかった。何故ならばすでに男の中でその言葉そのものが風化していたから。猫にとって重要でないものは、また男の中ですでに重要ではない。まるで意味を失った単語のように。男の口から語られる過去には現実味がない。ただ、今正にシガロを見つめる金色の瞳だけが煙るように熱を帯びている。業火に焼かれる灼熱の星のように。

「男娼館の主という地位でさえ俺の望んだものではない。何時失っても何ら惜しくはない。ただ、俺が此処で生きていく為に必要だからこそ、得ただけのこと」

 男は言う。

「だからこそ…不思議だ」

 男は言う。

「お前は何故………此処にいる?」

 気が付けば引き寄せられ、分厚い胸板に抱かれていた。真新しい包帯から強い消毒薬の匂いが届く。規則正しい鼓動。鱗の手触り。何もかもが自分と違う。けれど、今この世界中において最も近い場所にいる他者に、シガロは軽く眼を細めて見せた。問いに答える。口を開く。愚問だった。何故、此処にいるかなんて。猫に問うべきことではない。猫は何時だって自由で、呆れるほどに自分勝手で。だからこそ。

「猫は自分の居場所は自分で決める。それだけだ」

 喉を鳴らす。愛しい人、と呟く代わりに。腕の拘束が強くなる。鼓動。体温。

「………………シガロ、ゼムン、」

 男が言う。表情は見えない。ただ、じんわりと歓喜を滲ませた声で。

「俺の…恋人、」

 そう漸く現実味を帯びた声色で呟いた男に。シガロは答える代わりにその肩口に静かに額を押し付けた。


08/03/13

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