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冷めたスープのような幸福

「シガロ、」

 低い声が耳を打つ。柔らかい温度が全身を包んでいて、寝返りを打つとふかふかと肩口が布の海に沈む。この温もったベッドから逃れるのは拷問に等しい。不満を示すように尾を振るが、肝心の相手には布の中に埋もれて見えていないのだろう。吐息が一つ。シガロ、ともう一度名前を呼ばれる。今度は呆れの色が混ざった声。

「起きろ、シガロ…魚が食いたいと言ったのはお前だろう…?」

 その言葉にぴくんと耳が立ち上がり、正直な胃袋が空腹を訴えた。そう言えばそんなことを言ったような記憶がある。数十分ほど前に揺り起こされ、朝食がチキンだと聞いた時にそんなことを言って再びベッドを取り戻したような。もそもそと名残惜しみつつも布の中から顔を覗かせる。紫苑色の髪に同色の獣の耳。所々食い破られたように皮膚を損失しつつも、何とか猫科の体裁を保った耳にあるべき場所にない瞳。かつて《六ツ眼》の殺人狂として大いに恐れられていたシガロ・ゼムンの瞳は皮製のアイパッチが張り付いた眉の下ではなく、首の付け根にきっちり六つ。やはり紫苑の宝玉のような色をした眼球が辺りを伺うように一回ずつ瞬きした。
 その一つが金色の瞳を捉える。鋭い光に一筋瞳孔が刻まれたそれは彼が爬虫類の遺伝子を色濃く受け継いでいる印だ。オリーブグリーンの硬質な髪。長い耳は濃緑の鱗が覆い、そこから首、腕、背や腹にまで至っている。元来人間の皮膚がある場所にも深い色をした刺青が覆い、屈強な体を一部の隙もなく見せていた。カーゴパンツに着崩したシャツという何時もの格好をした彼―男娼館《Spider》の主人であり、鰐の異形であり、シガロのパートナーでもある男は、此方と目線があったと気付くと柔く笑ってみせた。大きな掌が伸びてくる。指の一本一本まで太い右手がくしゃくしゃとやや乱暴に髪を撫でる。カルーア、と鳴いて、軽く抗議したが何時も通り聞いてなどいやしない。カルーア―正確にはカルーア・ウォルハンドというのが《青蜘蛛》という名を背負った男の、もうあまり呼ぶ者などいない本当の名である。

「起きたか、」
「………魚、」
「白身だ」

 白身。鱸か平目か鱈か。一瞬で数匹の魚が脳裏を泳ぎ、シガロはベッドから這い出す決意をした。漸く猫が動き出したのを見て、男も苦笑めいた息を吐くと尾を翻す。厚い鱗に覆われた太い尾が目の前をゆうらりと揺れるのを視界の隅で捉えながら、シガロはベッドから毛の長い絨毯へと降り立つ。襟元がゆるゆるで裾が膝丈まであるほどに長い部屋着は、シガロが自宅兼仕事場であったギルド南館から持って来た唯一のものと言ってもいい。これが一番着易くて眠り易いのだ、とすでに古着の域を超越した服を手にシガロは力説したのだが、結局男の方はそんな襤褸を纏った猫を前に始終無言なだけだった。その爬虫類の尾が居心地悪そうにひこひことずっと先の方だけ揺れていた事を、無論シガロは知らない。
 相変わらず裸足の裏で沈む絨毯を踏みつけ、猫はゆったりと前を見遣る。そこには何時も通り丸い小さなダイニングテーブルと椅子が二脚用意されており、僅かながら白い湯気が見えた。男の方はすでに椅子にどっかりと腰掛け、シガロももう一脚の椅子へと腰を据える近付いた。良い匂いが鼻先を擽る。アンティーク調の重厚な家具で揃えられたこの部屋にあまり似つかわしくないこじんまりしたテーブルの上には白い皿が二枚、白いカップが一つ。一つの皿の上には男の言葉通り白身魚のソテーが盛られ、付け合せにはオリーブとポテトを恐らくハーブで炒めたもの。もう一枚の小さな皿には焼きたてらしい白パンが載っていて、カップには胡椒の欠片が散った緑色のスープが薄い湯気を上げていた。どれも慎ましいながら出来たての良い匂いを漂わせ、殊更猫の空きっ腹に響いた。
 シガロは椅子を引き、足を抱え上げると椅子の上に納まる。よく磨かれた銀製のフォークを特に言葉もなく白身の魚へと突き刺すと、齧り付いた。カルーアはと言えば猫の行儀の悪さに怒るでもなく、肩肘をついて鋭い瞳を細めながら此方を見ている。その様子だと男はすでに食事を済ませてしまっているようだった。そういえば今は何時なのだろうか。この地下の部屋に四時六中引き篭もっていると、つい時間的感覚が狂う。まあ、猫にとって時間など大して重要なものでもないので、今が何時でも構わないと言えば構わないのだが。

「美味いか…?」
「ああ、」
「それは良かった…」

 満足そうな表情に猫は首を捻る。普段からこういう食事の取り方をすることは侭あったが、男が食事の感想を聞いてくることなど一度もなかった。今朝(今朝なのかは解らないが、とりあえずこれは朝食である)は一体どうしたというのだろうか。不審そうに尾で椅子の背もたれを打っているシガロに気付いたのか、ああ、と低い声が落とされる。白パンを二つに割り、現れた柔らかそうな断面に食いつきながら次の言葉を待つ猫に、彼は普段通りの声で囁いた。

「この食事は俺が作ったので、な…」

 感想を訊いてみたかったまでだ、と言って喉の奥で笑うカルーアにシガロは思わず手を止めた。何と言うか意外だった。この男は料理とは全く無縁の場所にいるような気がしていた。何しろ男娼館の主であるし、「男娼館」と言うだけで何処か浮世離れした空間のような気がするので、ともすれば食事をしているようなイメージすらない。無骨な手は武器を取る分には構わないかもしれないが、包丁を握ったり、野菜を千切ったりするのかと思うと、途端に可笑しい。イメージギャップである。それに先ほど言ってしまったが、確かにこの料理美味いのである。これが最も意外だ。普段は台所にも立たない男が片手間に作ったような味ではない。塩胡椒にバターが効いた白身魚のソテーもほくほくしたポテトとオリーブも漸く猫が口をつけられるほど冷めてきたスープも、味にはあまり拘らないシガロでさえも美味と思うほどに、普通以上に美味なのだ。

「意外だ…料理などするのか」
「そうか…?」
「似合わない」
「それは何度か言われたが…」

 そうもはっきりと言われたのは初めてだな、と何故か嬉しそうに男は笑う。
 この爬虫類の異形はどういう訳だか何時もこのような感じで、シガロが何を言っても大抵嬉しそうに眼を細める。金色の瞳。以前はあんなに鋭く攻撃的に尖っていたような気がするのに、今では何処か柔らか味のある琥珀に似てきていた。猫にとってもすでに男の声は不愉快ではない。会話をするのが息苦しいほどに不快だということもない。何か問われれば面倒でない限り返事をするし、男もシガロが何か問えば余程のことでない限り答える。昔のこと。この館のこと。館にいる人々のこと。かつての仕事のこと。好きなこと。嫌いなこと。日増しに二人の間に共通する情報が増えていく。
 たとえば、カルーアが風呂好きで時間があれば一時間でも二時間でも入っていることをシガロはこの間身をもって知ったところだし(そして辟易した)、シガロが極度の猫舌であることにカルーアは半信半疑であったのだがどうやら納得したようだし(そして冷えたスープを残念そうに見ていた)、カルーアの刺青のパターンが古い時代の民族の模様でそれが火の神と水の神を表しているのだと教えて貰ったのはこの間のセックスの後で(何だか眠くて後半はよく聞いていなかったが)、シガロの持つ熊手の手入れ方法を何やら眺めていたカルーアが自分のハルバードまで持ち出してきてまあ偶にはと始めたのはつい昨日のことで(どうやら彼は武器の手入れはサボりがちだったようだ)。
 ゆるゆると混ざり合っていくような、このなんとも言えない感覚。シガロ・ゼムンがこれまで生きてきた一生の内で一度たりとも味わったことのない毎日だった。すぐ隣に誰か他の存在がある。手を伸ばせば触れることが出来、声を発すればそれは届く。そして、その存在は決して不快ではない。当然のように。そこにある人の安心感。戸惑いと幸福と。半分ずつの感情に揺れながら、けれどシガロは此処が嫌いではなかった。この男の側で欠伸を繰り返しながら生きていくのは、悪くない。

「そう言えば…調理番が言っていたのだが、」

 白身魚とパンを平らげ、すっかり冷え切った緑色のスープを啜っていたシガロはその声に顔を上げる。どうもブロッコリーを擂り潰してミルクと混ぜ合わせたらしいスープは口当たりがまろやかになっているに加え、適度に胡椒が効いていて大変に美味かった。どうやら男は本気で料理が得意らしい。やはり似合わぬ趣味だと真正面の瞳を眇めるシガロに男は気付いた風もなく、言葉を続けた。

「最近、猫が集まってくるらしい」
「ねこ?」
「毛皮を着た猫だ…野良猫が二匹ほど毎日ほぼ同じ時間に、餌を強請る訳でもなく、敷地内をうろついて帰るらしい。
 何時も同じ猫だと、ルナは言っていたが…」
「ルナ?」
「ああ…調理番の名だ…ルナ・マーチ。元々、此処の男娼でな」
「今は調理番、なのか?」

 男はああ、と頷いた。それも妙な話であるが、もっと妙なのは猫の話だろう。餌を強請る訳でもないとは。
 シガロの脳内をちらりとひょっとしたらという予感が掠める。毎日現れる猫。野良猫でありながら餌を求めている訳ではなく、敷地内を歩き回って帰る。何かを探しているかのように。何か。何か、というか、誰か、だろうか。大人しく甥に懐いてくれるかと思ったら、どうやらそうもいかないらしい。

「心当たりがあるのか…?」
「…多少、な」
「…ふむ。では、ルナに詳しく話を聞いてみるが良い…。
 大抵調理場にいるが、耳の折れた黒兎だ…美しい容姿をしているからすぐに解る…調理場の場所は…?」
「何となくならば、解るが、」
「一階の北側だ。解らなければその辺りの者を捕まえて訊くと良い。
 お前に対しては俺と同等の扱いをするよう、言い置いてあるのでな…」

 雑な対応をする奴はいなかろう、と何てことないように言った男に思わずシガロは咽そうになった。この男は、自分が何を言ったか解っているのだろうか。否、恐らく解っていないだろう。何処の世界に自分の情人(―この言い方はシガロ自身好きではないが)に自分と同等の権限を与える権力者がいるのだ。万一、権限を与えるつもりがなくとも、部下に対してそう言い渡しては自らの地位まで引き揚げたと示すのと同様である。それがこの小さな男娼館というピラミッドの中でどういった騒ぎを引き起こすか、解らぬほどこの男は愚かではあるまい。愚かではないだろうが―残念ながら人というものは色恋が絡むと愚かになってしまう生き物だということを、シガロはこの身をもって実感したばかりだった。
 飲み干したカップを置いてシガロは六つの眼を同時に眇める。何処か空気が剣呑になったのに相手も気がついたのだろう。眉を僅かに顰める男はそうするだけでかなり凄みを増したが、シガロは全く怯むことはなかった。ただ、重たげに口を開いて言葉を紡ぐ。

「貴様…俺は飼い猫の位置に据えろと言ったであろう」
「―何の話だ?」
「俺に力を与えるな。俺に地位を与えるな。
 この館の主は貴様だ。皆、貴様に従っていれば良い。俺は只の猫だ。」
「だが、お前は俺の恋人だ」
「………良いか、カルーア。人の話を、」

「シガロ、」

 男の声が遮る。金色の瞳が鋭い輝きを覗かせ、更に凄みが増し、

「俺は…俺がお前に与えたものによって、この館と俺自身が全てを失う結果となったとしても、一向に構わない」

 静まり返った部屋に落ちる、深く低い声、

「お前にならばこの心臓だってくれてやれる。何もかも失っても恐ろしくなどない。ただ、恐ろしいのは―」

 泣きそうな、それでいて可笑しそうに歪む口元に、

「この俺の手からお前が逃げることだ―」

 笑みを刻んで、狂いを帯びた、

「お前を逃がさぬ為ならば俺は何だってしよう…この力も、地位も、財力も、全て、お前を繋ぎ留める役に立つなら、」

 泣きそうな、

「…莫迦が」

 吐き捨てて、シガロは跳んだ。

 助走などつけない跳躍。椅子の上から皿を飛び越えてテーブルの上へ。一つの動作で男の目の前にまで迫り、予期しなかった展開に思わずといったように眼を見開いた男へと手を伸ばし。太い首に腕を絡めて。その逞しい胸に崩れ落ちる勢いのまま唇を合わせた。乾いた皮膚と皮膚が擦れ合う。ざらついた舌で舐るように唇を押し付ければ、しばらくの後、応えるように口が開かれた。濡れた舌が絡み合うように伸ばされる。くちゅ、と粘着質の音をたてて、混ざり合う唾液。見開いた金色は漸く事実を認識したのか静かに細められ、大きな掌が腰に回される。自分とは異なる体温。張り付いた鼓動が聞こえる。しばらく言葉を奪い合うように口付けを交わし、ゆっくりと、離れた。濡れた唇が網膜の裏に焼き付く。それは何も言葉を発することなく、そしてシガロもまた何一つ言わず。
 男はきっと何を言ってもシガロを甘やかすことを止めないだろう。シガロに己の地位と権力を分け与えることを止めないだろう。しかし、それでも良いと思った。恐らくこの男にこれ以上言い募っても無駄だ。それはシガロの諦観であり、敗退でり、歓喜であった。この男はシガロを只の飼い猫にしておくつもりなどない。自分の隣に立つ只一人の「人」として自分に、他人に、認めさせようとしている。只一人。この名を呼び、応え、温もりを分け合うつがいの一羽を得られただけでなく、その翼を決して離れぬ不動のものとしようとしてくれていることを嬉しく思わない恋人が何処にいようか。巨大な歓喜と巨大なリスクを天秤にかけ、シガロは―あっさり歓びを取ることにした。

「シガロ、」

 永遠に続くかと思われた静寂を、しかし、低い声が破る。男が猫の名前を呼ぶ。腕に僅かな力を込められ、抱きしめられる。視界いっぱいの男の体。猫はもう一度、莫迦が、と吐き捨てた。愛しかった。この愚かな男が、心の底から。こんな猫一匹に自分の全てを賭ける男など、世界中捜しても恐らくこの力強い腕の持ち主一人しかいるまい。愚かで、愚かで、愚かで、嗚呼、なんて愛おしい。ただ、鼓動の音を聴く。この体温を甘受し、この狂気が愛だと勘違いすることにしよう。そうすれば、恐らく二人は世界中できっと一番幸せであり続けることができるだろうから。

「…愛している…」

 低い声に猫はぐるぐると喉を鳴らし、六つの眼を柔らかく細めてみせた。その言葉に嘘偽りないことを、直感的に確信しながら。冷めたスープのような幸福に尾の先から弛緩していくのを感じて、ただ爪の先にだけ僅かに力を込めた。


08/03/10

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