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午後三時のバターナイフ

 男娼館《Spider》は上空から見ると巨大なロの字を描いているように見える。
 南側に当たる正面玄関と薔薇園から見れば単に立方体の巨大な屋敷のようなのだが、三階建ての本館を奥に向かって進むと東西の端に渡り廊下が設置されており、そこを渡ると今度はコの字型の別館に移動出来るようになっている。本館は言わずもがな男娼館として客を迎える為の施設が整っており、逆に別館の方は男娼たちや此処で働く人々の居住スペースになっている。芝生と、前庭から間引かれてきた何本かの薔薇、果実のなる木々が植えられた中庭を望む別館は何時も息を潜めたように静まり返っていて、騒がしいことはあまりない。ただ、時折中庭に面した廊下を蒼白い顔をした美しい少年が行き交うばかりで、何となくその現実離れした横顔を追っていたシガロはふいっと目を逸らした。

 今、用があるのは別館の方ではないのだ。相変わらずふかふかの絨毯を踏みつけながら、猫はてくてくと長い廊下を歩いている。本当はこの本館の一階奥を目指していたはずが、何時の間にか二階にまで上がってきてしまっていた。防犯上の理由なのか、この館は殊更迷い易い構造となっている。フロアを移動する為の階段が連続して設置されていることはまずないし、廊下も頻繁に折れ曲がり、しかも同じデザインの壁とドアが連なる為、距離感覚まで狂ってくる。まるで迷宮を歩かされているような錯覚に陥って早数十分。これは素直に誰かに道を尋ねた方が良かったかもしれないな、と猫はゆるりと耳の先を下げた。とは言っても夕暮れにはまだ早いこの時間帯。本館をうろつく人影はなく、尋ねたくとも尋ねられないという結果が待っているだけなのかもしれないが。しかし、この廊下に面した窓から別館が見える以上、目的地は遠くないはずである。このまま垂直に下に降りれば、目指す場所はきっとすぐだ。ぎょろりと六つの眼を駆使して、廊下の分岐点ごと確認しながら一階へと降りる階段を探す。一つ目、二つ目、三つ目―――あった。
 ぽかりと暗い踊り場を仄かな洋燈の明かりが照らしている。「1F」と記された矢印に従い、シガロはぐるりと折れた階段を降りる。全部で三十段ほどの短い階段を降りて一階に舞い戻ると、漸く目的地らしきものが眼に飛び込んできた。広い廊下の向かって右側には観音開きの大きな樫作りの扉があり、金色のプレートには「dining room」と記されている。恐らく此処で多くの従業員(―というのか?)が食事を摂るのだろう。男娼館《Spider》は給仕サービスを基本的に行っていないはずなので、客を迎える場でないことはまず間違いない。更に向かって左側には片面ドアが一つ、二つ、三つ並び、最も手前のものが開けっ放しになっていた。

 別に後ろめたいことをしている訳ではないのだが、何となく気配を殺しつつシガロは手前のドアから中を覗く。人気はないが、濃密なスパイスの匂いが漂っていた。北側は中庭に面しているのだろう。幾つもある窓から午後の気だるい光が差し込んでいる。長方形の広い空間に整然と設置されたステンレス製の作業台とステンレス製のシンクが銀色の鈍い光を放つ。磨かれた木製だった廊下とは違い、リノリウムの床には細かい傷がたくさん刻まれており、年季入り方が容易に想像できた。ドアから入ってすぐには巨大な冷蔵庫が置いてあり、小さな作動音を響かせていた。その扉には一枚の紙がマグネットで留めてあり、几帳面な細かい字で毎日のメニューがびっしりと書き込まれている。ちなみに本日―「ゴーヤのカレー(サフランライス)とレンズ豆のサラダ」―シガロの嫌いなレンズ豆である。
 コンロの上では巨大な鍋が蓋の隙間から蒸気を吹き上げている。恐らくこれが匂いの元だろう。一抱えほどもある鍋に近付けば更に香りが強くなる。ターメリックやアスターなどの刺激物が適度な混沌をもって混ざり合った匂い。鼻をくしゃりとさせて、シガロは今一度辺りを見回した。白い食器ばかりが整然と並べられた食器棚。瓶詰めにされたピクルスやスパイスの保管棚。巨大なボウルに木製のレイドル。どれも丁寧に大切に使い込まれていることから、此処の番人の気質が知れようというものだが、しかし、肝心の番人の姿は一向に見えない。

 大抵調理場にいると言ったのは何処のどいつだ。

 この場にいない館の主人に責任を押し付けて、猫は尾で調理台の端を打った。まさか不在だとは思っていなかったから、完全に出鼻を挫かれたことになる。時間は有り余っているからもう一度出直しても良いのだが、再度此処までスムーズに辿り着ける自身がシガロにはあまりない。それにのんびりしていると日が暮れて、営業の時間になってしまう。そうなれば客や男娼で一挙に騒がしくなる本館をシガロが自在に歩き回ることは至難の技だった。否、別に歩き回っても良いのだけれど。一々注がれる好奇の視線が鬱陶しくて仕方ないので、極力夜の時間帯は主人と限られた人物しか入室を許されない地下の空間で過ごすことにしている。何時の間にかシガロの存在は《Spider》中に知れ渡っていたので、人目に触れないようにしたところでかなり今更なのだけれど、それにしたって「六つ眼猫」だの「地下の化け猫」だの「蜘蛛の愛猫」などと盛んに囁かれて鬱陶しくない訳がない。大体「愛猫」って何だ「愛猫」って。

 ガタッ

 僅かに尾を膨らませながら一人で苛々を募らせていると、ふと廊下の方から物音が聞こえた。シガロは反射的に気配を消すと、開いているドアの方に意識を集中させる。二つの耳と六つの瞳。当然かもしれないが殺気ではない。物音は一人分の足音と、何処か乾いて重い―何の音だろうか。しばらくその場に静止していると、ドアの向こう側からぬっと段ボール箱が現れた。側面にキャベツらしきイラストが描かれた箱が三つ、よろよろと廊下から調理場へと入ってくる。更に驚いたことに一番上の箱からは兎の耳が生えている。真っ黒い毛皮に覆われ、途中からかくんと折れ曲がった兎の耳と段ボールはぴこぴこよろよろと調理場に入ってくると、ステンレスの作業台に僅かな吐息と共に着地した。勿論、兎の耳は段ボールと一緒…な訳がなく、よく見れば黒い髪にサファイアブルーの瞳をした青年が兎の耳をひくひくさせながら、シャツの襟元を緩めながら息をついたところだった。
 大層美しく整った顔立ちにすらりとした体型は何処か中性的で、たとえ纏っているのが普通のシャツにジーンズそれに黒いエプロンだったとしても何処か気品を保っていた。シガロの眼から見ても尋常ではないと解る美貌に確信を抱く。恐らく彼がルナ・マーチなのだろう。二年ほど前、男娼館《Spider》きっての指名率と高価格を得ながらも、人気絶頂の最中に突然引退を表明した「三月兎」。
 調理番という仕事に身を窶しながらも一切衰えを知らぬその容姿に(異形なのだから老化が遅いのは当然だが)シガロがしばし感心していると。

「………………………、」

 どうやら向こうが此方の存在に気付いたようだった。しかし、気付いた割には何のアクションもない。ただ、澄み切った湖水の如きブルーの瞳がじっと注がれるのみである。元々、感情の起伏が薄いのか整った上に無表情な兎はともすれば人形のようでどう対処していいのかシガロには解らない。かと言ってこのまま無言の応酬を続ける訳にもいかず、仕方なくシガロは自分から口を開いた。こういうのはシガロも苦手な類になるのだが、仕方がない。

「突然、すまない。ルナ・マーチというのは…」
「………………私、」
「そうか…実は猫について訊きたくてな、」
「………ねこ」

 実に茫洋とした喋りをする兎だった。どうも彼は喋りで客を悦ばせるタイプではなかったらしい。まあ、これほどの容姿を持っていたとすればたとえ喋りが堪能だったとしても、おまけのようなものになってしまうかもしれないが。ピン、ピン、とピアノ線を弾くような繊細で単一的な言葉だけが彼の口から語られる。ねこ、と言ったまま視線を彷徨わせた兎はゆらりと耳を動かした。瞬き一つ。実にゆっくりとした仕草だった。ある意味小動物らしからぬ、だ。

「ねこ…デッキブラシみたいな黄色い猫と…鍵尻尾の黒猫…」
「………やはり、」
「…知り合い、ですか?」

 問いにまあなと頷くと、兎は僅かに首を傾げてみせた。やはり此処にやって来ている猫というのは、かつてシガロが情報収集に協力して貰っていた猫たちのようだ。恐らくシガロがギルドから去った後にやって来て、甥から事情を聴いたのだろう。シガロとしてはそのままギルドの館主となった甥に情報提供者として協力してくれれば良いと思っていただのが、若干考えが甘かったか。あの猫たちが、野良猫のプライドを持った猫たちが、「猫ではない」甥にそう簡単に協力するはずもない。それに考えてみれば甥のところには犬がいたか。銀色の巨大な犬。これは少々面倒なことになりそうだ。
 唸る猫の横で兎の視線が宙に舞う。青い瞳は壁にかかった古い時計の針を辿った。午後の時間。直角を少し過ぎた長針と短針にチチチと続く秒針音。あの、と時計の音に紛れそうな微かな声。ブルーの瞳が殺風景な調理場で妙に艶めかしく煌いて見えた。

「…貴方は、青蜘蛛様の…」
「………そうだが、」
「飼い猫…って…悪魔の爪の…狂い猫…」
「………悪かったな」
「私が…言った訳じゃなくて…みんな、そう言ってたから…」

 シガロの若干尖がった声に慌てたのか、兎は耳を下げると困惑したように視線を彷徨わせた。か細い声は庇護欲を煽らない訳でもないが、しかし、どちからと言えばこれは苛々する方ではないだろうか。見た目はパーフェクトに近い元男娼だが、所詮はお人形か。これ以上相手が言葉を発する様子もなく、軽い吐息をついて、猫は身を翻そうとする。
 事実がはっきりしたのだから、長居する必要はなかった。また猫たちが集まりそうな時間を見計らって、館の外をうろついてみることにしよう。それで最早自分には必要のない情報を甥に流してくれるよう、取り計らってみるしかない。彼らが納得してくれる可能性は低いが、ギルドを半ば押し付けてきたともいえる甥に自分ができることはそれぐらいだった。
 尾を一際大きく振ったシガロがいよいよ足を踏み出そうかと思った時、あの、ともう一度細い声がシガロの耳を打った。何事かと六つの瞳を上げれば、その紫水晶の色彩に驚いたのか、一瞬肩を揺らした兎が三つ積んだ段ボール箱に隠れながらもあの、ともう一度言った。しゅしゅしゅと蒸気を吹き上げる鍋の音が調理場に落ちる。

「…あの、ねこ…何時も四時過ぎには来る…から………お茶…飲んで、待っていきません、か?」
「………………」
「あ、の!美味しい葉があって、ミルクをたくさん使うと美味しくて…あ、でも、冷たくしてもとても美味しい…し、………お菓子もあるので…その………、」

 言ってる内に自分でも混乱してきたのだろう。泣きそうな声で尻すぼみになる兎にシガロはしばらくどう反応しようか耳を盛んに動かしながら考えていたのだが、やがて時計の針をちらりと確認すると尾を軽く持ち上げた。彼の言う通り四時過ぎに来るというならば待っている方が効率が良いし、どうも悪意はないようだし、向こうから誘っている以上迷惑な訳ではないだろうし、唯一何故自分なんぞを必死になって引き止めるかが解らないが、兎に角、シガロは下を向いたまま硬直している兎に声を放つことにした。

「解った。頂いていこう」

 その声が耳に届いた瞬間、兎は弾かれるように顔を上げた。驚愕と歓喜と困惑とが混ざり合った表情でシガロを見つめ、それからハッとしたように段ボールの裏から飛び出してくると薬缶をコンロにかけ始める。流石に慣れた動作で棚から紅茶の茶葉を取り出し、ティポットを温め、カップを温め、踊るような手付きで準備を始める兎に半ば呆気に取られてシガロはその辺に放置されていた安っぽい椅子に腰を下ろした。そんなにお茶を淹れることが楽しいのだろうか。シガロには一生かかっても理解できそうもない感覚である。先程まで震えていたのが嘘のように生き生きと茶葉の分量を量っている兎に、ひょっとして何時もこんな持てなしをしているのかと思い、何となくシガロはその背中に疑問をぶつけた。けれど、思いがけないと言ったような顔で兎は振り返り、ふるふると首を振る。長い耳がひこひこと実に表情豊かに揺れ動いた。哺乳類交雑系異形の耳は実に感情表現に便利である。

「こんなこと、しないです、」
「そうなのか?」
「みんな…私の顔を見ると…黙ったり…眉を顰めたり…口を開けたりして…怖いです、」

 それは恐らくルナ・マーチの美貌に見惚れているだけなのではないか。

「でも…貴方は…違ったから…嬉しいです…歓迎です、お茶会…」

 歓迎だったのか。というかお茶会なのか。度し難い兎の心情に一匹首を傾げた猫の鼻に芳しい紅茶の香りが届く。窓から差し込む光に照らされ、湯気に包まれた三月兎の横顔は殊更美しい。三月の気違い兎。恋に狂えた春の獣は、しかし、恋の一つも恐らく知らないのだろう。まるで子供のように。まるで人形のように。無邪気に美しいだけ。紛い物の美に狂っているのは他人の方だ。発情した兎に発情しているようでは世話ないではないか。
 ふん、と僅かに鼻を鳴らしたシガロに兎の瞳が向けられる。ブルーの艶やかな色彩。砂時計が音もなくその量を変えていく中、美貌の兎に見つめられるというのはあまり心臓に宜しいことではない。それでなくとも此処最近後ろ指まで差されているシガロは若干不機嫌そうになんだ、と問うた。すると兎は恐縮するどころか、ほんの少し瞳を緩めて、耳を動かすと、ほんやわとした柔い湯気のような声でこう言った。

「青蜘蛛様、………本当に…貴方のこと、本気の好き…なんですね…。
 あの方…絶対にキスマーク、なんて…残さなかったのに………」

 その言葉に一瞬脳内が混乱し、ふと目に付いた磨かれたステンレスの作業台に映る自分のうなじを見て。
 シガロ・ゼムンが声にならない悲鳴をあげたことは言うまでもない。


08/03/11

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