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ノスタルジック・エイジア

 アカシアの花から甘い香りが漂ってくる。
 熱帯性の気候を有するヤツハカは年中蒸し暑く、過ごしやすい午後とは縁遠い土地なのだが、それでも今日は何の気紛れか随分と心地よい風が東の方から吹いていた。そよそよと耳をくすぐる風に目を―主に前方についている三つの瞳を細めながらシガロ・ゼムンは欠伸をする。男娼館≪Spider≫の昼下がりは夜の卑猥な喧噪とは打って変わって実に平和だ。
 木陰で胡坐をかいて現実と夢の世界の狭間を漂う猫の後ろには兎。特徴的な黒銀の毛皮に覆われた長い耳を風に遊ばせながら、秀麗な横顔の調理番は古いレシピブックに無表情のまま視線を落としている。時折、仕事に飽きた蜜蜂がまるで誘うように揺れる耳を掠めていくが、当の本人は全く意に介すことはない。ただ、残される羽音が鼓膜の奥に残ることだけが気になるのか、ぺそりと耳だけを倒しみたり、揺らしてみたり。そんな午後。
 ゆらゆらと心地よい眠気がシガロと白い花をくすぐっていく。忙しないのは蜂たちばかりで全てのものは緩慢に時を刻んでいた。ざわめく風の音が幻想の時の音に聞こえる。ぺら、と時折兎がページを繰る音。猫はもうほとんど夢の国に向かいかけていた。

「猫さん、」

 けれど、兎の声が猫を此岸に引き戻す。当初、こともあろうに人の名前を呼び捨てにしたこの無謀な度胸ある世間知らずの兎にシャー!と一発威嚇してやって以来、彼はシガロを「猫さん」と呼ぶ。まあそれも本来であれば本意な呼び名ではないが、どうも向こうも悪気があってやっている訳ではないようなので、二百歩譲ってシガロは緩く尾を振る。なんだ、と芝生を掠める軽い音が問う。いつの間にか兎は本から目を離し、遠くに視線を投げていた。

「青蜘蛛様が、」

 返事しなければ良かった。一瞬の後悔はもう遅く、反射的にルナ・マーチ(三月兎―彼の名だ)が指さす先を目で追ってしまったシガロはその良好な視界の隅に自分の恋人を見つけてしまった。こんな午睡の時間に出歩いているなんて珍しい。男娼館の主である彼は夜も忙しいが、昼も忙しい。何百という書類に目を通し、部下に指示を出し、館を切り盛りする様は傍で見ていて呆れるほどである。やれやれシガロ・ゼムンは本当に猫で何よりだった。
 兎の細い指先が示しているのは別館の二階の廊下のようで、窓硝子越しに屈強な体躯が悠々と移動しているのが見える。遠目でもわかる硬質そうな髪と鋭い目線。すっと通った鼻梁は横顔の方がより一層際立った。
 「良い男」なのだろう。客観的にみても。男にも女にも羨望を浴びる申し分ない器量。男として完成された肉体と顔立ちは確かにシガロからみても(シガロがどちらかというと華奢なだけにより)思うところがない訳ではない。しかし、だからと言ってその男が自分の恋人だと言われると、否、言われるというか事実そうなのだという現実を突きつけられるとそれはそれで複雑なことこの上ないが。
 今更ながらなぜ自分はあの男の手を取ってしまったのか。あの男を抱きしめてしまったのか。動物的な衝動であれば、脳内物質の減少と共に治まりそうなこの気違いな熱はけれど。

「あ、こっち向いた」

 高まっていくばかりなのだから余計手に負えない。
 鋭い視線はシガロに向けられると、柔くゆるむ。ルナが無邪気に振った手に(この兎は思いのほかこの館で誰よりも恐ろしいであろう蜘蛛に懐いている)苦笑のつもりなのか唇を歪め、心持ち歩みを速めてすっと窓枠の端から消えた。その方向に階下に降りる階段があるのを察して、来られるみたいです、と嬉しそうに兎が笑う。何が楽しいのか。否、シガロだって決して楽しくないというか嬉しくないわけではないのだが、それを手放しで喜ぶのも負けた気がするというかなんというか自分でも子供じみていると思っているのだが。
 かくして数十秒の間を置かず、平和な午後の中庭に不釣り合いな巨躯の男が登場した。着崩したシャツに黒いジーンズは見慣れたもので仕事中というよりは休日の格好のようだ。彼にとっては夜が本職の時間だから、昼間はプライベートみたいなものなのかもしれなかった。そういえば夜はスーツ姿のことも多い。
 ざくざくと巨大な靴が割と好き放題になっている中庭の下草を踏みつけ、屈強な異形の尾が鬱陶しそうに羽虫を叩き落とした。大きくて厚い鱗を敷き詰めた筋肉に打たれたそれは哀れ呆気なく地に墜落する。一寸の虫にも五分の魂。存在しないひげが笑いかけ、代わりにシガロはゆったりと尾を揺らした。

「此処にいたのか、シガロ」
「ああ」
「あの、青蜘蛛様、」
「ルナか…久しいな」
「はいっ」

 男から向けられた視線が嬉しくてしょうがないというように、兎にしてははっきりした声の返事。一方の男の顔は相変わらず厳ついままだが、けれど特別厳しいわけでもない。古参の男娼とその主はそれなりに長い付き合いでもあるのだろう。ぼやっと目を細めながら何となくシガロはそんなことを考える。心地よい眠気はもうどこかに飛んでいた。

「今日の仕込みは終わったのか」
「はい。夕飯は、鮭と茸のバターソテー…と、人参のコンソメスープと、かぼちゃパイ、です」
「そうか…それは楽しみだな」
「頑張って、作って…ます」
「ああ…お前の飯は何時も美味い」

 兎は嬉しそうに笑う。ぴくぴくと忙しくなく揺れる耳が彼の感情をそのまま代弁しているかのようだ。緊張しているのか照れているのか。おそらくそのどちらもだろうが、彼が膝の上でぎゅっと抱いた古い本はみしみしと嫌な音を立てていた。そういえばルナのような可憐な容姿を持つ者に対しては普段忘れがちだが、異形は総じて怪力である。
 そうだな、と男がつぶやく。天気も良いことだし、と似合わない台詞を続け。お前の淹れた紅茶が飲みたい、と言ったとほぼ同時に兎は正に跳び上がった。こくこくと音速で首を振り、背中に「頑張ります!」と貼り付けた兎は普段あまり見れない機敏さで厨房に駆け込んで行った。
 あとには猫と男と風。アカシアの花と。ちらりと見上げた先には男が唇を歪めて立っていた。ゴールドの威圧感のある瞳。蜜蜂も本能的に危険を察知してか間近にある彼の頭をぶうんと大きく迂回して白い花の蜜に顔を突っ込んだ。

「お前は…あまり妬かんな…」

 男が口を開く。
 猫は欠伸をする。
 何を言うかと思えば。

「度量が深いのでな」

 男は皮肉めいて笑う。
 猫は見抜いて目を細める。
 百年早いと言外に言う。

「つまらん………俺はこんなにも焦がれているというのに」

 男の手が伸びる。崩れ落ちるように抱きしめられる。猫はくすんと鼻を鳴らす。質の良い革製品と金属の匂いがした。その隙間から緩やかに花の香りが忍びこみ、風は音もなく囁いた。分厚い胸板に閉じ込められる。やれやれと二度目の嘆息。今度は自分の恋人に向けて。カルーアと小さく鳴く。最早自分以外に呼ぶものも少ないであろう男の名を。

「お前の瞳は日の下見ると美しいな」

 まるでビー玉のようで。宥めるつもりは二割ほどしかなく、ただ思ったことを言っただけだった。だが、男はふと猫を抱きしめる両腕を緩め、驚いたように顔を離すと猫を覗き込んだ。その珍しい表情のせいでより一層男の瞳が日の光に晒される。きらきらと光る輝石のような。黄金の光を受けて輝く水面の魚の鱗のような。思わず手を伸ばしたい衝動にかられる男の瞳をそういえばシガロはこんな陽光の下でまじまじと見たのは初めてかもしれなくて。それで。ゆるくとけるように相好を崩す男に尾をゆっくりと揺らし。

「お前は俺の腕の中にいる時が一番美しい…シガロ」

 感極まったように呟いて再度その両腕に力を込めた男から有りっ丈の口説き文句を受けながら、猫は目を細めた。彼はシガロが嫉妬などしていないと思ったようだが、それは違うのだ。恐らくたぶん。一瞬ぐるりと渦巻いたこの感情につける名など猫は知らないだけで。何よりも猫を幸福にするはずの眠気が吹き飛ぶように去った理由さえもわからぬだけで。そして恐らく今日、猫がそれに気づくことはないだろう。何しろ今の猫の機嫌は大層良く、ごろごろと喉を鳴らすのに忙しいのでもう「何か」について深く考える余地など残っていないのだから。ただ抱きしめてくる腕が愛しい限りの力加減で、猫は男の肩口に額をこすりつけた。

 張り切った兎がシフォンケーキに添えるホイップクリームを泡立てる音が聞こえる。かっしゃかっしゃとリズミカルな音に混ざってアカシアの甘い香り。ケーキには甘いクリーム。紅茶には角砂糖。そして猫には。

「愛してる」

 何よりも甘い睦言。


08/10/21

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