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人生上のアリア

 厚さ一センチに及ぶ書類の束の最後の一枚まで漸く眼を通し終わり、アリスゼルは深く息を吐いた。
 かつて猫が支配していたギルド南館のホールに人影はない。正確な時刻は解らないが、すでに明け方近いのだろう。たとえ夜が本番の《ヤツハカ》とはいえ、この時間帯だけは鬱蒼とした静寂に包まれる。部屋の明かりはほとんど消してしまっている為、壁が随所に突き出て、引っくり返った椅子やテーブルの散乱するホールの様子は薄ぼんやりとしか解らない。ただ、アリスゼルが行儀悪く足を乗せている半円型のカウンターの周囲のみ、簡素なデスクライトと僅かな機械妖精の赤い光で照らし出されていた。
 ぎしっと椅子を軋ませて、背もたれに大きく体重を預ける。思いのほか時間がかかってしまった。本当ならばもう少し早く終わらせて一度自宅に戻ろうと思っていたのに。真紅の髪をかきあげ、真紅の瞳に眠たい色を滲ませ、欠伸を噛み殺しながら長い耳を倒すアリスゼルは正真正銘このギルド南館の主である。しかし、その在任期間はまだ一ヶ月にも満たない。精々一週間と半分という有限の時間を経て、漸く仕事が片付くようになってきてはいるが、それでも処理すべき問題が山積みなのは否めない。
 そもそも、アリスゼルがギルドの館主となる以前から南館では仕事が滞っていたのだ。そのツケも含め、更にそこに新館主としての引継ぎ事項が続々と積み重なり、膨大な量へと変貌してしまっている。それこそ戦場においては歴戦負けなしのアリスゼルではあるが、事務仕事となれば勝手も何もかもが違う。それに対する戸惑いや不慣れも含め、「まだこの程度で済んでいる」ことについては自分でも及第点をやりたいぐらいだった。最悪の場合、一ヶ月は最初の三日程の多忙振りを極めるかと思っていた。今となってはその可能性はほぼ費えたと言っていいだろう。
 凝り固まった肩を鳴らし、書類の波に埋もれた赤いパッケージからフィルターを一本取り出す。カチッとジッポーの音。ゆるりと紫煙が天井へ向かって舞い上がり、漸く一息ついたようにアリスゼルは全身から力を抜いた。

 夜の静寂が支配していた。この年中喧しい街が最も静まり返る瞬間。就業時間など関係ない仕事柄、アリスゼルは今までに何度もこの時間に遭遇したことがあるが、常にこの瞬間だけは普段完全に忘却しているはずの過去を揺り起こされるような錯覚に陥る。赤い赤い赤い赤い赤い。冷たい金属の床と透明な硝子管。ずるずると引き出される記憶の断片。視界に映る見慣れた煙の筋が見慣れない機械の蒸気の見えてくる。誰だろう。そこにいるのは。白衣の。角の。女か。男か。翼の生えた異形。壊れたように泣き叫ぶ人形。小さな子供。身動き一つ取れない。誰誰誰誰。泣いても叫んでも誰も来ない。ただ、新しい世界の為に」。

「ッ」

 じりと短くなった煙草の火がアリスゼルの指を軽く焼き、同時にチカチカと激しくドルチェヴィータが明滅することで赤い夢から引きはがされる。数秒の間を置かず、ギルドの扉が古めかしく引き攣るように開かれた。すでに吸いがらだらけの灰皿に短くなり過ぎたフィルターを押し込んで、アリスゼルは視線を投げる。街灯の明かりがスイっと差し込む。ギルドの床を切り取った四角い白には人型の影が一つ。アリスゼルは、目を、細める。
 人影はするりと夜と同化したように入り込んでくる。逆光のせいで体格以外は伺えない。ただすらりとした筋肉質な体に短く刈り込んだ髪。年齢はアリスゼルと然程変わらないほどの男性、か。頭からはまるで鹿のように枝分かれした角が一対。所謂ドラゴンタイプと言われる角持ちの異型。殺気はない。むしろ肩から力の抜け切ったリラックスした猫背がゆらゆらと近づいてくる。履き潰したスニーカー。ぼろぼろのパーカーに裾の擦り切れたジーンズ。ぺたぺたと間抜けな足音が二歩、三歩、四歩と重なって。唐突に。≪彼≫は唇を歪め。

 槍を抜いた。

 一閃―金属音。閃光の如き穂先の刃を目視できたのは正に一瞬。直観に近い速度で反応したことに気づいた時には、アリスゼルはカウンターに乗り上げドルチェヴィータを横倒しで構えていた。両手がビリビリと震えている。見れば鋼鉄の刀の腹には黄金の龍の口から突き出した刃の先が二つ突き刺さっている。無論、この程度でドルチェヴィータの腹に風穴が開こうはずもないが、もしこれがミリ単位でもずれていたかと思うとぞっとする。少なくともアリスゼルの脇腹には二つなり一つなりの穴が開いたであろうから。

 しかし、相変わらず―相変わらずである。

 アリスゼルはギロリと二本の槍を突きつける男を鉄刀以上の鋭さで睨みつける。窓から差し込む月光に照らされた男の髪は漆黒。水晶のような角は勇ましい陰影を作り出しながらも、それが人の頭にあるという光景は正に異形。アリスゼルの眉間の皺がますます深くなる。間違えようもない。二槍を携えた龍―決して宜しくない方面でその名を轟かせる男の名は。

「子龍しりゅう」

 恙島つつがしま子龍―二体で一つとなる珍しい機械妖精≪ヌキメ≫と≪キバナシ≫を携えたギルドきっての問題児。彼は戦いの中に身を置くことを至上の歓びとし、安穏の中に浸かることを地獄の様相と吐き捨てる。その腕は文句なしの一級であるにも関わらず、その好戦的な性格から何度もギルドからペナルティを受けているが、それでも自ら血にまみれることを望み何度でも血腥い戦場へと赴く。彼が求めるのは相対する者の死ではない。生殺与奪権を握ることによる圧倒的優勢を伴った優越感でもない。彼が求めるのはあくまで「同程度の力を持ったものとの対等なる生の奪い合い」。彼は戦いの中でしか己の意味を見いだせない。同じく刃を振るうものではあるが、死をもって己を実感する元死刑囚シガロ・ゼムンとは圧倒的に異なる立場にあると言えるだろう。言わば「殺戮狂」の猫に対して、「戦闘狂」の龍とでも言おうか。要するにアレとは違ったベクトルの変態である。
 呼びかけられた男はすぐに笑みを深くし、するりと殺気を消した。刀にかかっていた重厚な圧力が消える。呆気なく槍の刃は消え、黄色い光を纏った機械妖精へと変わり、特徴的な淡い光がふわふわと男の周囲を舞った。
 男は伏せていた顔を上げる。きらきらと子供のように光る黄色の瞳。昔から全く変わらない「幼馴染」の姿にアリスゼルも吐息をついて、ドルチェヴィータを引き上げる。

「ウィース!ひっさしぶりだなアリスゼル!今日何店番?猫ちゃんいねぇーの?」

 カウンターの上に乗り上げると足を組んで座り、矢継ぎ早に好き勝手に質問を重ねる子龍にもう一度吐息をついて、アリスゼルは椅子に深々と座り直す。こいつのこの性格が十何年前から全く一緒でこれから先も一切変わっていくことなどないだろうとわかってはいても。この疲労感に加えてこれははっきり言って面倒臭い。甚だ面倒臭い。しかし、かまってやらなかったらかまってやらないで実力行使(三十秒前参照)に出ることはわかっていたので、それも正直面倒臭い―しかも面倒度で言えばそっちの方が比重は重いと判断して、溜息交じりにアリスゼルは口を開く。赤いパッケージの煙草から一本抜き取り、火をつけると、残りはまとめて子龍に投げつけた。彼は危なげなく受け取る。

「お前いい加減それやめねぇと殺されるぞ」

 それ、というのはアリスゼルの叔父であり、このギルド南館の以前の主でもあるシガロ・ゼムンを称して「猫ちゃん」と呼ぶ恐れ知らずな所業のことである。勿論、子龍は挑発を含めてわざとやっているのだが。彼にとってシガロは命を削り合って戦ってみたい「目標」の一つであるらしい。ちなみにそのランキングの上位にアリスゼルは常にランクインしている、とは本人の談だ。迷惑な話である。

「いーじゃん別に本人いないし」
「まあそうだが…つーか叔父貴ならもう此処にはいねぇよ」
「ん?いねぇの?」
「今は俺がここの主だ。…不本意ながらな」
「はっ?マジで!?」

 美味そうに紫煙を食っていた子龍が黄色の瞳をまん丸に見開く。光の加減によっては金色にも見えるそれはまるで子供のようによく表情と色彩を変える。子供の頃から全く変わっていない彼の表情。付き合いの長いアリスゼルは少しは成長しろと思わないでもないが、子龍に言わせると自分も幼い頃から全くと言っていいほど変わっていないらしい。精々煙草ぐらいじゃね、と彼も同じように紫煙を吐き出して何時も笑う。

「はーまあアリスゼル面倒見良いし、いいんじゃねぇの?うん、向いてる」
「そいつはどうも」

 心底嫌そうな顔をして答えたアリスゼルに、一切厭味が通じていない子龍はおう!と満面の笑みを見せる。いや、厭味が通じないというよりこれはただの馬鹿だろう恐らく。紫煙を細く吐き出しながら、思う。

「んー?じゃあ今猫ちゃん何処にいんの?」
「≪Spider≫」
「はあっ!?」

 今度は先程より巨大なリアクションが返ってきた。まじまじと目を見開いた子龍の指先からは煙草が今にも落ちそうな様子で引っかかっている。ぱくぱくと唇を動かし何を言おうか迷った末(基本的に延髄反射で言葉を出す彼にしては珍しい)ごくんと唾を飲み込み、彼は心もち声を潜めた。

「ま、まさか男娼に転職したのか…!?」
「んな訳ねぇだろ…薹が立ち過ぎてるっつーかそれ以前に無理だろ」
「だ、だよな…じゃあ用心棒とか…?」
「いや」
「に、庭師?」
「お前、あいつが花と戯れてるところが想像できるか?」
「いやできねぇ。つーか何だよだったら!」

 うがーと髪をかきむしった子龍が面白かったのでもうしばらく見ていたかったのだが、あまり引っ張るとその苛々が暴力になって此方に向いてきそうだったので、アリスゼルは早々にネタをばらすことにした。咥え煙草のまま右手を掲げ、ぴっと小指を立てる。それだけ見て、何か嫌な悪寒が走ったのか自分で自分を抱きしめるようにした子龍に。

「青蜘蛛のコレだ」

 爆弾投下。

「―ッッッッ!!!!」

 脳内の処理量を超えたのか一瞬無表情になった子龍の声にならない悲鳴が幻聴となって響き渡った。みれば若干青ざめた彼は小刻みに震えている。何か恐ろしいものに出会った時のように―否、彼にとって恐ろしいものとは願ってもいない命のやり取りができる強者のことなのだから、正しく未知との遭遇なのだろう。まじかとかどういう理屈でとかぶつぶつ独り言をつぶやく子龍の≪戦闘狂≫としてあるまじき姿に、自分でやったこととはいえ、アリスゼルは深い憐みをおぼえた。

 まあ助けてやろうとかは思わないが。

 というか事実は変えようもないし、かといってフォローを加えてやるつもりもないが。久々に天衣無縫な幼馴染の悄然とした姿を見て、何となく気が良くなってしまう自分をサディスティックだと思いたくはない。しかし、常に残酷なほど明朗闊達な子龍のこういう姿を見られるのは貴重だし、それに漸く仕事が一息ついたところを騒々しくぶち壊された恨みがない訳でもない。正直まだ仕事は詰まっているのだ。一分一秒でも惜しい。それを何でこんな阿呆に付き合ってやらねばならんのだ。なんかだんだん腹立ってきた。

 紫煙を吐き出しながら子龍への恨みを連ねていたアリスゼルは、そこでふと更なる攻撃を思いついてニヤと唇を歪めた。正直、アリスゼルは「これ」を自分から他人に話したことはない。別にべらべらと言いふらすことではないと思っているし、他人に話したところで関係のない、つまるところは当人同士の問題なのだからと思っていた節もある。
 しかし今の子龍に更なる爆撃を与えるという意味ではこれ以上、効果的なものはないだろう。咥えてた煙草を唇から離すとアリスゼルは椅子の背もたれを鳴らして、ギィー!と扉の方に向けて呼びかける。服着てこいよ!という声も恐らく彼の聴力で拾い取ったのだろう。目をぱちぱちとしている子龍をよそに一分も待たず、奥のドアが開かれる。
 ひょこりと顔を出したのは銀色の髪に蒼の瞳の長身の青年。しっかりとした筋肉のついた体が服の上からでもわかる。その見上げるような体躯からはけれど浮かべる表情のせいか威圧感などは感じない。朴訥とした蒼い瞳が優しげにアリスゼルを見て、それから子龍を確認し、何処か困ったように寄り添ってきた。誰、とその表情がきいている。

「ああ、こいつ俺の幼馴染だ。恙島子龍。山茶花の弟…ほらいただろ、西ギルドの黒い髪の女」
「………………」

 無言で軽く会釈をするギムレットとアリスゼルを壊れた人形のように交互に見比べていた子龍はやがてそのうつろな視線を幼馴染の方へと向けた。まさか、とその瞳が無言の問いを投げかける。アリスゼルはその期待と予感を一瞬裏切ってやりたい衝動に駆られたが、しかし、その安堵を与えるよりも恐らく真実の方が彼にとっては重大な傷になるに違いない。ニヤと肉食獣のように唇を歪めるアリスゼルにまたも動物的な直観で悪寒を感じ取ったのか身構える子龍に、くつくつと笑いを堪えながらギムレットのシャツの襟を引く。アリスゼルのすることに抵抗しないギムレットはなされるがまま、唇は近づいて、

 ちゅっ、と。

 触れるだけのキス。瞬間、世界は凍りついた。笑いが堪え切れない。腹の底から湧き上がるものを耐えるのは難しい。目を見開きつつも僅か相好を崩し首筋にすり寄ってくるギムレットとは対照的に、この世の終わりのように全身を硬直させた子龍は。たっぷり七秒の間をおいて。ぶわっと両腕に鳥肌を噴出させた途端。

「お、おまえぇええええええッ!!!!おま、おまえ、おまっなにやって…ッ!!」

 崩壊した。
 そのどでかい悲鳴にギムレットが堪らず耳を押さえるのも手伝って、アリスゼルの笑いの関はとうとう決壊した。カウンターの端を叩いて、目に涙まで浮かべて爆笑するアリスゼルに、違う意味で涙目の子龍は何か言いたげに口をぱくぱくさせたが、結局それは言葉にならず、まるで獣のように唸るだけでギムレットに鋭い目線で威嚇され、またも鳥肌を立ててみたり。嗚呼、これだけでもギルドの主人を引き受けた甲斐があったかもしれない、と暢気なことを考えていたアリスゼルは。

 やはり、赤い夢のことなど綺麗に忘れて、ただ久しぶりに呼吸もままならないほど笑い転げた。


2008/11/16

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