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悪酔いのマーメイド・リキュール

 好天の上空は発色の良い絵の具を刷毛で塗りつけたかのような青色で、まるで綿毛そのものみたいな雲がぽかぽかとアトランダムな距離をとって配置されている。そよぐ風は裏手にある泉からほんの僅かな湿気を乗せて、くるりくるりと紫色の矢車菊の背の高い花弁を揺らしながら、ちょうど屋敷の門柱辺りで渦巻いて消えた。今日の空のように青い芝生にぽつぽつと配置された踏み石代わりの煉瓦は誰かが意図的に配した予感が伺え、その隙間を埋めるように白詰草が三枚で一繋ぎの葉を伸ばしていた。四葉はない。見つけ次第、恍惚と摘み取ってしまう花泥棒がいるためである。否、この場合は草泥棒と言った方がより適切だろうか。白い盗人は時折、何の報せもなくこの街からも村からも遠い「幽霊屋敷」にやってきては、庭先に寝そべって熱心に四葉を探す。一体何の為なのか?律儀な屋敷の執事は一度、丁寧に膝を折って彼女に尋ねたことがある。すると、白銀の髪に特別に誂えられたような灰銀の瞳をした青年のような魔女は真顔で厳かにこう告げた。

「葉っぱは僕の仲間じゃないけど、これは僕の仲間なんだ」

 執事は理解する為の思考を止めた。
 得てして魔女とはそういうものだった。常人-常識的な吸血鬼とは異なる思考回路を持ち、独自の矜持と独創的な感情で行動し、発言し、踏みつける。一般的な吸血鬼たちは己等を食物連鎖の頂点だと考えているが、その観点から言えば魔女はその三角ピラミッドから爪弾きにされた存在である。三角形の外側は囲いがなくて、思いのほか清々しているのだと、彼の主はまるで見てきたかのように語る。それは母が語る寝物語のようであり、視力の悪い教授が片手間に行う出来の悪い生徒への講義のようでもあった。
 彼女の青い髪と青い瞳は最早彼女の下僕たる執事、アレクセイという名を持つ一人の吸血鬼の網膜と脳裏に張り付いて離れない。おそらく無理に引き剥がそうとすればその場所からは血が滲み、鈍い痛みが走り、慌てて指先でどろりとした感触を確かめる羽目になるに違いない。魂の従属。彼女は昔、そう言った。高くもなく、けれど低くもなく、魔女という数奇な人生を気高い信念など持たずに生きているように思える青の魔女は今と変わらぬその声で。
 そんな彼女の肉声を幾度となく聞いてきた彼だからこそ、その声が彼女のものだと一瞬で把握出来たのかもしれない。
 肺からではなくエラから発せられる魔女の声は楽器のようなエコーを伴って、音楽を奏でているようだった。見慣れた庭先に見慣れぬ水の球。そう、それは正しく水であり、本来は湖や泉やポットや洗い桶にたぷりと納まっているはずのそれが何故かぽっかりと宙に浮いていた。否、「何故か」というのは適切ではない。それは自然の理に従い、歪め、命じる魔女の仕業であり、正しくその水球の中でゆるやかに「泳いでいる」一匹の人魚の仕業だ。

 人魚。その存在はこの世界においては珍しいわけではなかった。王都を円形に囲む海のそこかしこに人魚の巣は存在し、美しき魔獣たちは海底に都を築きそこで暮らしているという。勿論、アレクセイも見かけたことがある。大きな蝙蝠の姿になって夜空を舞っている際にふと見下ろすと目に入った岩礁の上。珊瑚の首飾りを弄りながら歌っている獣の姿は夜霧に反射する月光にきらめいて幻想的な絵画のように思えたものである。
 だが、ここは海でもなければ夜でもなく、ましてや彼女は本物の人魚ではない。能力でその青色以外は寸分違わず本物の人魚に変じた魔女は空中に浮かぶ丸い海の中で鉢に囚われた金魚の如く、くるりくるりと尾の先から細かい泡を出しながら気持ちよさそうに泳いでいた。彼女が尾びれで水を打つ度、青い髪に白い泡が真珠の髪飾りのように纏わりつく。

「本日はどういった御趣向ですか?」

 問うた従僕に庭先に咲く花と同色の宝玉をぱちぱちと見え隠ししながら、無数の泡と共に主は発する。

『ブルー・メロウって知ってるか?』
「…カクテル、ですか?」

 ブルー・メロウは海辺の町の漁師が集まるバー「ケイオス」が発祥とされるカクテルだ。糖分の多い植物を蒸留して造った酒とソーダ水を割り、縁に塩をまぶしたグラスに注ぐというシンプルな様子は仕事上がりの海男たちに人気を博し、一躍著名になった。ちなみにカクテル自体は無色透明でありながら名にブルーとあるのは、これを発案したバーテンダーの妻がまるで人魚のような青い瞳をしていたから、とは後世のでっちあげとは言い切れないがあまりにもロマンチックである。しかして、そのカクテルがどうしたというのか。首を傾げる吸血鬼に魔女の人魚はやはり泡を吐いて、瞬きする。

『黒蜥蜴に連れて行かれたんだ。白昼から飲む酒もまた悪くはない、とか適当なこと言いやがって』
「はあ、つまり」
『酔中夢とかはどうだ』
「酔ってらっしゃるんですか、マスター」

 青の魔女は基本的に酒豪であるので、現在彼女がほんのり良い気分で人魚の真似事などをしていると推定した場合、黒の魔女と二人がかりでしこたま飲んだ可能性が高い。それこそどこの哀れな店かはわからないが、店主が泣いて懇願するぐらいには飲んだのだろう。恐らく、否、間違いなく。どことも知れぬ店構えと店主の疲労を思って、人知れず従僕は心の中で頭を垂れた。我が主が全くもって申し訳ありません。

 相変わらずくるりくるりと水の中を回転し続ける青い髪をちらりと視界の端で捕らえる。ほぼ真上から降り注ぐ陽光が鋭さを増し、草木は一層生き生きし始めるが反してアレクセイは眉をひそめた。魔女に従属したおかげである程度は光に耐性のある吸血鬼だが、やはり長時間の光には痛みが伴う。ちくちくと刺すように限界を訴え始めた皮膚に応じるように屋敷への辞退を申し出ようとアレクセイが主の瞳を見つけようとした時である。
 目の前には真っ白い腕があった。生きた貝のような白い爪がナイフのように残像で光る。首筋にひやっとした感触があったかと思えば、次にはアレクセイの視界には水面の向こうに輝く太陽があった。ぶくぶくと無残に立ち上る泡。息が出来ないと思ったのは束の間で体中が水の中に入り込んでいるのに、薄い呼吸は静かに肺と口とを行き来した。魔女の力であろう。エラで水中の空気を取り込む人魚に変じた彼女と違い、しがない吸血鬼のアレクセイは水の中ではあっという間に息が詰まるはずだ。恐らく今彼の体の周囲を薄い空気の膜が覆っている。

 魔女に引きずり込まれ、意図せず水中にぽっかりと浮かんだ彼はぼんやりと母親の胎内とはこのようなものかもしれないと考える。燦燦と降り注ぐ光はなくとも薄く外界の音が遮られ、何故か安心できる浮遊感に身を預け、そして絶えることなく続く水泡の連続。泡が生まれては消える音。ぽこ、ぱこ、ぱく、つく、く、く。

『アレクセイ、』

 主の青色の声が聴こえる。はい、という声はほとんど通らない。何故なら吸血鬼は水中で呼吸が出来ないからだ。

『たまには悪くないな、こういうのも』

 見上げた太陽がまぶしい。きらきらとダイヤモンドのように輝いている。主の声は主のようで主ではなく、まるで別人になったかのような響きを伴っている。
 確かにたまには悪くないように思えた。現実から逃避した水球の中に、今はアレクセイとセラフィータしかいない。青空から切り落とされた水の中に存在している一匹の人魚が一人の吸血鬼の人差し指をついと引く。

『王子様、』

 悪戯なその声音に、その瞳に、アレクセイは薄っすら口角を持ち上げて笑った。白い爪先が白い皮膚にちょっとだけ食い込んでいる。青い空に溶けるような青い髪はますますその青色を増して、まるで人魚に見えない。禍々しささえ感じるその青は紛れもなく、魔女のもの。泡になって消える人魚の御伽噺は何処から聴こえて、何処へ消えるのか。児戯同様の戯れに、赤い瞳の従僕は水の中で侭ならない体を器用に繰って、頭を垂れて見せた。

(かわいいひと、)

 その声はきっと、貴方には届かない。
 それで良いと、貴方に願う。


2012/07/5

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