ibaraboshi***

home > 小説 > > RED MOON FOR THE BLUE NIGHT

RED MOON FOR THE BLUE NIGHT

 アレクセイ・エーシス・アーガイドの記憶にある姉の姿は常に可憐であった。
 比較的裕福な家庭に生まれた姉弟は客観的に見ても、かなり恵まれて育ったのだと思う。厳格で真面目な父は大手の貿易商を営み、国に古くから伝わる名門に生まれた母は淑やかで美しかった。姉は母親からピアノやバイオリンを習い、アレクセイはそれを隣で聴いていた。年頃の少年らしく元気に外で遊ぶことを好んだアレクセイだが、姉のピアノが聞こえてくると、必ずと言って良いほど屋敷の中に舞い戻り、周囲が驚くほど大人しくその音を聴いていた。バッハ、ベートーベン、モーツァルト。曲名や名匠の名前は知らねども、弟は姉のピアノが大好きだった。姉の細い指先は白と黒の鍵盤の上を踊るように動き、まるで魔法のように心地の良い音楽を生み出した。
 そう―幼い少年にとって、それは正に魔法であって、姉は言うなれば魔法使いであった。絵本の中に登場する憧れの少女。大きな碧眼に映る姉の姿は何時も光り輝いていた。そして、その輝きは現実にも半永久的に続くはずのものであった。少女は淑女になり、少年は紳士になり。アーガイドの名を継ぐ二人の未来は姉の姿に象徴されるが如く、光に溢れている、はずだったのに。

 一度目の転機はアレクセイが十一を数えた歳に起きた。
 父の突然の死。
 死因は毒死。自殺の判定。遺書はなし。

 母は父を失い、まるで以前の美しさが嘘のように衰えた。こそげ落ちた頬。泣き腫らした瞳。傍目に解るほど痩せた母の姿を見ているのは辛かった。更に父の死を切欠に会社は傾き、残った財産は親類を含めた金の亡者たちによって食い潰されていった。屋敷は薄汚れ、たくさんいたメイドたちも何時の間にか何処かへ消えていった。窓さえ軋む屋敷はほとんど惰性で建っているようなもので、父の記憶を薄れさせたくない母の情念で保もっているようなものだった。
 そんな屋敷で毎日過ごすのは辛く、気がつけば姉のピアノの音は聞こえなくなっていた。姉は。姉は、そういえば、何処へ行ったのだろう。姉は、父が死んでからも母よりは気丈に振舞っているように見えたが、それでも気落ちしたようだったのに。あの何時も綺麗な指先をしていた姉が母の為に食事を作るせいで、爪は割れ、所々血が滲んだ指先をになり、それを眺めながら沈鬱とした表情をしていたのを思い出す。常に薄紅色をしていた頬は蒼白くなり、弟と同じ碧眼を貧しく歪めた姉の姿を。嗚呼、そうだ、見ていない。もう何日も。姉は何処だろう。探さなくちゃ。
 ふらりとアレクセイは屋敷を彷徨い始める。時間の感覚が薄れていた。現実と夢とが混在していた。時計の針が逆に回り、秒針がからかうように右往左往した。家財道具を売り払い、がらんとした屋敷の中を、幸福だった時の記憶を探して少年は歩く。何処までも。姉の姿を探して。姉の、可憐な姿を求めて。魔法使い。絵本の中の救世主。何処、何処にいるの。見つけたい、見つけて、見つけたくない―どうして?

 そして、二度目の転機。
 夢から現実へ。埃を被った古いグランドピアノ。もう聞こえない旋律。
 安楽椅子の老婆。その心臓に刃を突立てる―――女。
 見慣れた碧眼、美しい指先、そして、赤。真紅。
 此方を見た驚愕の瞳。けれど、それは不思議と懐かしく。
 姉だ、と気付いた瞬間、その両腕に飛び込んだ。
 鉄の強い匂いが鼻を突く。かき抱く姉の腕が苦しい。
 けれど、離したくはなかった。
 この生臭い温もりから逃れてなるものか。

 絶叫。

 正直、その後のことはよく覚えていない。気がついてみれば、アレクセイは赤い瞳を携え、「果ての世界」の空を見上げて転がっていた。白亜の砂漠。何処までも白い砂に吸い込まれそうな星空を、アレクセイはよく記憶している。
 姉は、姉はすぐ隣にいた。真赤なウェーブのかかった髪に真赤な瞳。ただその赤い色を除いて、幼い時の記憶を寸分違わない少女の姿をした彼女は、アレクセイの髪を撫でながら言った。「大きくなったのね、」と。寂しそうに。その時はその言葉の意味がすぐに解らなかった。けれど、その後アレクセイは自分の姿を見回して漸く悟ったのだ。「自分が姉よりもずっと成長していたということを」。
 アレクセイはすでに立派な成人男性の姿をした吸血鬼で、姉は幼い少女の姿をした魔女になっていた。その理由は未だに解らない。けれど、アレクセイは不思議と落ち着いた心地だった。以前のように極端に飢えることはなくなっていたし、もう痩せ衰えた母親の姿を見て心を痛めることもない。ひょっとしたら「こうなる」前は決して思いつかなかった考えなのかもしれないが、確かにアレクセイは「そう」思うようになっていたのだ。この世界には姉がいて、自分がいる。それだけが唯一の真実。他のことなんてどうでもいい。ただ、この世界に平穏にあれることを、祈った。

 嗚呼、けれど。
 けれど、三度目の転機。
 それはアレクセイが吸血鬼として百年余り歳月を重ねた後。
 突然の拒絶。突然の瓦解。
 なぜ、どうして、なんのために。
 問いかけを重ねても、答えが返ってくるはずはない。
 何故ならば、彼女はもう、ここにはいないのだから。

 ―第896番目の日年 ベルシオの月
  女王の魔女が一人 【絶無の真紅】ブラッディ・メアリ 謀叛

*****

 館に灯が灯るのは夜の七時も過ぎた頃だ。
 辺りを鬱蒼とした森に囲まれ、月光と梟の声しか届かない辺鄙な所にその館はある。上空から見るとちょうどコの字型をしたそれは重たい色をした石を積み上げた外観と格子窓が重厚な雰囲気を醸し出していた。元はどこぞの政治貴族の屋敷だったらしいが、その一家が落ちぶれた後は廃墟となりほとんど打ち捨てられていた。それを青の魔女が勝手に拝借してこの深い森の真ん中に据えたらしい。魔女の移動能力は魔法の限界ともまた違う次元で語られる話なので、屋敷一つ移動させるぐらいは訳ないのだろう。知る人ぞ知る魔女の棲家であるのだが、人里から離れに離れた深い森の中の一軒家である上に、仮に館を目指して近付こうと思っても何時の間にか見失ってしまう非社交的な魔法がかかっている為に、人々からは「ゴースト・マナーハウス」―幽霊貴族の館、と実もフタもない呼ばれ方をしている。

 まあ最も以前は確かにゴーストぐらい出ても可笑しくはない実状だったのだけど、と回想してアレクセイは微笑を浮かべる。

 アレクセイが初めてこの魔女の館に足を踏み入れた時(それは月の美しい真夜中だったけれど)、吹き抜けのエントランスには縦横無尽に蜘蛛の巣が張り巡らされ、上等なゴブラン織りのソファは虫食いだらけ、階段には魔女が歩く真ん中以外に雪のように白い埃が積もり、ダイニングはダイニングとも呼べず、暖炉には許容量を越えた灰が無造作に床に溢れ出し、挙句の果てにキッチンときたら。最早、人が食事を作るところではなく、鼠が食事をするところになっていた。
 当時のアレクセイは最悪の形で姉を失ったばかりで意気消沈し、吸血鬼ながら生きる気力を八割がた失くしていたところだったけれど、この惨状には何かしら心を突き動かされるものがあったらしい。今でも鮮明に記憶している。鼠が走り回る屋根裏部屋の古ぼけたベッドの上で漫然と様々なことを考えて一夜を過ごし、漸く日の光が昇る頃に「掃除しよう」という唯一の結論に至ったことを。
 主食が血液である吸血鬼は高名な芸術家等になった者以外(芸術を好む吸血鬼たちは音楽や絵画の道で大成し、通貨を稼ぐ者も多い)酷く慎ましい生活をしている。アレクセイは特に豪華な暮らしを望まなかったから、典型的な後者の吸血鬼で、だからこそ魔女の館の掃除もこなせたと言っていいだろう。三日三晩の不眠不休。太陽が昇って落ちてまた昇って落ちてと繰り返し、無我夢中で掃除した。まるで何かを忘れたいかのように。無心で館内を美化し、気がついた時には埃が拭き取れる場所は何処にも残っていなかった。
 我に返り、何故か悄然と周囲を見渡すアレクセイの肩をその瞬間、誰かがぽんと叩いた。見遣れば今まで何処にいたのか青い魔女。彼女が真っ黒い珈琲と真っ黒いケーキの塊を無遠慮に此方に差し出していた。彼女の淹れた珈琲は地獄のように苦く、彼女が焼いたケーキは悪魔のように甘く、舌を穿つような不味さで、それを―嗚呼、全く久しぶりに人の手で作られたそれを食べながら、アレクセイは涙を流した。「そんなに不味いか?」と彼女は訊いたがそうではない。そうではないのだ。あの時の珈琲は本当に苦くて、あの時のケーキは本当に甘くて、それでとても。

「………温かったんですよ、マスター」

 独白。

 以前とは見違えるほど美しく整えられたキッチンでアレクセイはポットにお湯を注ぐ。香り立つアッサムの香り。セラフィータはあまり紅茶の良し悪しなど気にしないから、これは完全にアレクセイのエゴである。だが、主人が仕立ててくれた三つ揃いのスーツに身を包み、朝の紅茶を淹れる度にアレクセイは魔女の使い魔である誇りを―従者としての、彼女の僕としてのプライドを確認することができるのだ。それは何て幸福なことだろう。
 砂時計の砂が落ちる。三分の時を置いてカップに美しい色合いのアッサムを注ぎ、更にミルクをたっぷり注ぐ。アッサムのミルクティー、温めたシナモンロールに切り分けたチーズと柔らかい触感のハニーカム。それら全てをトレイに載せ、アレクセイはネクタイを直すと背筋を伸ばして、執事然と主の部屋へ向かう。

 この世界で「執事」と呼ばれる役職につく為には、専門の機関で専門の教育を修了するか、自分が仕える屋敷で先人の執事に教えを受けるしかないが、アレクセイは専門の教育を受けたことも、勿論教えを受ける先人もいるはずがなく、正確には執事とは呼べない。しかし、彼の従者足ろうとする意気込みは大変強く、独学で勉学に励んでいる。
 元々、魔女の弟であるということで果ての世界の吸血鬼社会からは爪弾きにされていたアレクセイだが、魔女の使い魔になった挙句、喜んで従事しているということで、今では完全に吸血鬼たちからは同族と見られていない。最もアレクセイ自身も吸血鬼たちを同族と思っていないので、それはそれで構わないのだけれど。アレクセイにとっては今や世界の全ては己の主人である。命運を共にするたった一人の人。たとえ、それが姉と直接刃を交える可能性を含んでいたとしても。たとえ、そうであったとしても。

「マスター、」

 階段を昇り、左側のドアにノックを二回。予想通り起きていない主人に苦笑し、彼女の部屋へ足を踏み入れる。ドアを開いた瞬間に香る彼女の匂い。物で溢れかえった部屋は館内で唯一アレクセイが関知できない場所である。彼女なりの法則をもって溢れかえった物たちを踏まないようにそっと奥の階段を目指す。くるりとゆるいカーブを描いて昇る先が彼女の寝室。天蓋付きの巨大なベッドの上で規則正しくシーツが脈打っている。窓から差し込む月の光。静寂に包まれた主人の部屋でアレクセイはサイドテーブルにトレイを置くと、ゆっくりと跪き、サテンのカーテンを上げた。
 青い色。鮮烈な青い髪。姉である魔女の赤とは対照的な静寂の色。シャツ一枚にシーツを絡めただけの格好で寝入っている主人に再び苦笑をこぼすと、アレクセイは彼女の肩をそっと揺する。むずかるような鼻声と共に、彼女の瞼がゆっくりと震える。青い青い瞳が僅かに覗く。濡れたサファイア。何よりもアレクセイが愛する青い、宝石。

「お早う御座います、マスター。朝食をお持ちしました」
「………おう、」
「本日は女王陛下に謁見する予定が入っております。
 お目覚め頂けると嬉しいのですが…」
「アレクセイ、」

 半分眠ったままの魔女が言う。青い瞳を巡らせて。吸い込まれそうな海の青。空の青。夜の青。その視線がアレクセイを捉えて離さない。この人に仕えると決めた時から揺るがない唯一の色。たとえ闇を踏みつけ、赤を切り裂くことになったとしても。決して後悔などしない。たくさんの幸福を覚えているアレクセイはそれを記憶の奥底に封じてしまった。今はほとんど思い出すことなどない。嗚呼、けれど、決して彼は今不幸ではないのだ。何故ならば、今、目の前にこの人がいるから。沈黙の青。何時も過激な魔法を乱発する彼女の本質は何処までもしじまに満ちた、砂漠の夜だ。心音まで聞こえてきそうな月の夜。恐らく青に魅入られた吸血鬼の赤い心臓だけが恐ろしく揺らいでいる。

「すげぇ良い匂いが」
「シナモンロールです」
「そりゃあれか。俺が食いてぇって言ったぐるぐるか」
「そうです。ですから早く起きて下さ、」
「起きる」

 アレクセイが皆まで言う前にがばりと起き上がった魔女がぱちんと指を鳴らすと、途端に部屋の洋燈に火が灯り、窓の近くに配されたテーブルセットがごとごととその位置を整える。相変わらず食べ物のこととなるとエンジンがかかる主人に従僕は微笑を浮かべながら、ベッドの上の魔女に手を差し伸べる。ベッドからのエスコートなんて聞いたことはないけれど。けれど、彼女は特に疑問を持つこともなく吸血鬼の手をとる。青い髪を揺らして。青い瞳を見上げて。青の中にアレクセイの赤い瞳が映り込む。

「今宵は良い夜ですね、マスター」
「ん?何時もと同じだろ?」

 そう青い夜に赤い月の浮かぶ、何時もと同じ良い夜だった。


2007/11/11

新しい記事
古い記事

return to page top